2020年05月31日

番外 石宝殿及び生石神社のおまけの「竜山1号墳」 兵庫県高砂市 円墳 径8m

 生石神社の境内駐車場の北側に石棺が設置されています。発掘調査の結果、石棺付近に古墳が存在していたことが明らかになりました。この古墳の被葬者は、石宝殿と関係のある石工の責任者の可能性が指摘されています。古墳は、「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」を構成する遺跡のひとつとして、国の史跡に指定されています。
 石の宝殿研究会の『石の宝殿と竜山周辺史跡』の「(2)竜山1号墳と石棺」の中で、「生石神社の駐車場入り口付近の北側の傾斜地に神輿蔵があり、その横に、竜山1 号墳の跡と、石棺の身と蓋が横たわっています。 石棺は、竜山石製の家形石棺で、全長約1.2m、幅が約0.6mと、小ぶりのもので、古墳時代末期(7 世紀後半)(おっさん註 「飛鳥時代」あるいは「終末期古墳」が妥当か)のものと推定されています。大正5 年時点には、既に古墳が破壊され、石棺も移動されていました。 古墳の被葬者については、石の宝殿の製作者等との関連が注目されるところですが、副葬品も発見されておらず、現在のところは不明です。」(pp.23~24)と記されています。
 また、HP.「大和國古墳墓取調室」の「竜山1号墳」の項目で、「兵庫県高砂市阿弥陀町生石、県史跡「石の宝殿」の南側駐車場前の斜面にあります。2009年に調査され、これまで、竜山石製のくり抜き式家形石棺の身と蓋が南斜面に露出した状態でしたが、隣の小マウンドを発掘したところ、小型の切石積横穴式石室が発見されました。墳丘は斜面の岩盤を削って造成した径8mほどの円墳で、そこにブロック状に整形した切石を組んで横穴式石室を築造。長さ1.5m、幅0.95m、高さ1.26m以上の規模で、床面には石棺を置いた痕跡がありました。石室は後世に大きく破壊され、天井石は消失、石棺も、石室から動かされています。副葬品はありませんでしたが、石の宝殿などを築いた終末期の石工集団の首長墓と思われます。終末期の古墳で、石室とくり抜き式石棺の身、蓋が現地でセットで見つかるのは、大変珍しく、第一級の資料であり、これだけでも史跡クラスの発見になります。」と記されています。


 標柱。


 石棺の蓋石。

 石棺の身。奥が墳丘跡。


 生石神社の駐車場。
              以上2012年5月撮影。  


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2020年05月30日

番外 石宝殿(いしのほうでん)及び生石(おうしこ)神社 兵庫県高砂市

 「横口式石槨」第4弾です。先回紹介した、大阪府寝屋川市の石宝殿古墳と同名なので、間違えそうですが、高砂市の「石宝殿」は生石神社の御神体となっている巨石です。この「石宝殿」の存在については諸説ありますが、製作途中の「横口式石槨」という説が有力です。つまり、「横口式石槨」のビフォアが高砂市、アフターが寝屋川市の「石宝殿」ということでしょうか。
 周囲の岩盤を刳り貫いてあり、しかもこれだけの規模の巨石は圧巻です。江戸時代に、「日本三奇」のひとつに数えられたのも納得できます。また、この場所は古墳時代の石棺の石材の産地として知られており、「竜山石」と呼ばれています。現在でも、石の採掘が行われています。そのため、2014年に「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」という名称で、国の史跡に指定されています。
 日本経済新聞(2014/12/19 6:30)の記事、「神を宿す未完の石造物 生石神社『石の宝殿』(時の回廊) 兵庫県高砂市」に『兵庫県高砂市にある岩山、宝殿(ほうでん)山の中腹に一風変わった神社がある。その名も生石(おうしこ)神社。「日本三奇」の1つとされる謎の巨岩を祭っている。(中略) 中央に通路を設けた珍しい構造の本殿を通り抜けると、目の前に石の壁がそびえる。ご神体「石の宝殿」だ。岩盤を掘り込んで造られた一辺6メートル前後の巨大な直方体で、側面にベルト状の凹(くぼ)みが縦に走り、背面に屋根形の突起が付く不思議な形をしている。(中略)いつ誰が、なぜ造ったのか。「神話も含め40以上の見解があり、はっきりしない」。市教育委員会文化財係の清水一文さんが教えてくれた。諸説をまとめると「今の姿は横倒しにして造形の途中で、最終的には底部に走る節理を利用して岩盤から切り離し、社殿に向いている面を底にして引き起こす計画だった。だが何かの事情で未完成に終わった」との見方が強いという。 考古学者の間で有力なのは「7世紀ごろの家形石棺または石槨(せっかく)では」との説だ。この一帯、竜山(たつやま)地区は凝灰岩「竜山石」の産地で、古墳時代には盛んに家形石棺が造られて各地に搬出された。「宝殿と竜山石の石棺は、サイズは違うがデザインに共通性がある」と兵庫県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部の岸本一宏さんは指摘する。岸本さんは奈良県橿原市にある謎の巨岩「益田岩船(ますだのいわふね)」に注目する。近くに斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)の合葬墓との説が有力な牽牛子塚(けんごしづか)古墳(明日香村)があり、岩船には四角い穴が2つ並んで開いている。「同古墳用に造りかけた石槨の未完成品では」との説が出ているこの岩船に、宝殿と同じベルト状の凹みがあるのだ。牽牛子塚古墳の実際の石槨は、大阪と奈良の府県境にある二上山(にじょうざん)の凝灰岩製。「宝殿、岩船、二上山で石槨を競作して二上山のものが採用され、残り2つは途中で放棄された」と岸本さんは唱える。』と記されています。
 おっさんは、上記の岸本さんの説に魅力を感じ、イロイロ妄想が膨らんでしまいます。


 石柱。生石神社の説明板。


 石宝殿の一部。


 石宝殿ほぼ全景。


 石宝殿と生石神社。


 竜山石の石切り場。
              以上2012年5月撮影。  


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2020年05月29日

番外 石宝殿(いしのほうでん)古墳 大阪府寝屋川市 八角墳? 不詳 

 「横口式石槨」第3弾です。この古墳は、石槨が剥き出しになっています。おっさんは、長い年月の間に墳丘の封土が失われたと思い込んでいました。ただし、寝屋川市教育委員会による報告書『石宝殿古墳(大阪府寝屋川市)』では、次のような興味深い指摘がなされています。「古墳の構造に関することとして、まず封土の有無について考えたい。本古墳において封土が確実に存在したという根拠は、現在のところ何一つ見出せない。むしろ、石椰と列石との距離が余りにも短いということやそれらの間に石敷が同一レベルに丁寧に敷きつめられていること、石榔東側の石敷直上から瓦器椀底部の破片が出土し、遅くとも鎌倉時代には石敷が露出していた等の事実は封土を否定する根拠と考えられないだろうか。」(p.15)と述べています。つまり、築造当初から封土はなく、現在とほぼ同じ状況だった可能性があるというのです。「目から鱗」または「コペルニクス的転換」です。ただし、平城京造営にともなって、大型古墳が破壊された例もあるので、「ほんまかいな」というのが正直な気持ちです。
 寝屋川市のHP.の「石宝殿古墳(いしのほうでんこふん)」の項目で、「寝屋川市東端の打上元町にある北河内唯一の古墳時代終末期に属する古墳です。 古墳は生駒山地から派生する丘陵の南斜面に築かれていて、現状は巨大な横口式石槨が露出しています。 主体部の横口式石槨は2石を組み合わせたもので、上面を平坦に加工した底石(下石)の上に、直径3メートル 、高さ1.5メートルで埋葬部分をくり抜いた蓋石を重ねています。 内部は幅0.9メートル、高さ0.8メートル、奥行き2.2メートルで、入口部分は幅0.5メートルとせまくなっています。 入口部分の左側には上下面に丸いくぼみがあり、この部分に軸をはめ込む扉状の施設があったと推定されます。 玄室部の前面には板状の2石が平行に建てられていて、羨道部を形成しています。 同じような構造の横口式石槨をもつ古墳は、奈良県斑鳩町御坊山3号墳、明日香村鬼の爼(まないた) ・雪隠(せっちん)しかなく、きわめて特異な形状のものです。 古墳の背後には3個の巨石が一列に並んでいますが、1988年(昭和63年)に行われた発掘調査ではこの列石の西側に続く石が埋っていることが確認されました。 この石と列石との設置角は135度で、この石を古墳の外側のラインにすると、古墳の平面形が八角形になる可能性があります。」と記されています。八角墳ということになると、飛鳥時代後半の大王墓(天皇陵古墳)に見られる特殊な墳形です。また、畿外でも、群馬県吉岡町の三津屋古墳、群馬県藤岡市の伊勢塚古墳、兵庫県宝塚市の中山荘園古墳など10例ほどが確認されているだけです。
 古墳は、国の史跡に指定されています。       


 石柱。文化庁・大阪府教委・寝屋川市教委の説明板。


 手前が羨道、奥が石槨(正面から)。石槨内部。


 右が石槨、左が羨道(横から)。
            以上2016年10月撮影。


 訂正(2020年6月3日)
 
 宝塚市は古代の行政地域では「摂津国」にあたり、「畿内」でした。中山荘園古墳を畿外の古墳としましたが、誤りでした。「畿外でも」という表現を「奈良県以外でも」と訂正します。  


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2020年05月28日

番外 益田岩船 奈良県橿原市 横口式石槨

 先回に続けて、「横口式石槨」第2弾です。住宅地の中にある「白橿西集会所(橿原市白橿町5丁目8-12)」に案内(ただし、「子ども総合支援センター」の➡の方が大きく、「益田岩船」の→が小さいので要注意)があります。この辺りは舗装道路ですが、先に進むと山道に入り、途中には急坂のためロープが設置されています。そんなに長い距離ではありませんが、甘く見るとイタイ目に遭います。ヒールを履いた彼女とのデートコースには不向きです。かつて、長野県千曲市の森将軍塚古墳(ランキング320位)に歩いて向かうカップルを目撃しましたが・・・。  
 橿原市のHP.「かしはら探訪ナビ」の「岩船(いわふね)」の項目で、「沼山古墳の西上方、小高い山の頂部付近の平坦面に巨大な石造物が存在しています。これが県の史跡に指定されている岩船(いわふね)です。益田(ますだ)の岩船とも呼ばれています。 この石造物の規模は、東西約11m、南北約8m、高さ約5mを測ります。真上から見ると長方形をしていますが、山側の下半部は埋っており、立面形については四角いのか丸みをもつのかは不明です。頂部平坦面の中央には幅約1.6mの浅い溝があり、その中に一辺約1.6m、深さ約1.3mの方形の穴が2つ並んで彫られています。 岩船が何を目的として造られたものであるのかについては諸説あります。横口式石槨(よこぐちしきせっかく)の未完成品であるという説がもっとも有力視されていますが、その他にも、すぐ東に平安時代に造られた益田池(ますだいけ)を賞賛する弘法大師の石碑を据えた台石や、天文台、祭壇であるという説もあります。」と記されています。上記ように、「岩船」という名称で、奈良県の史跡に指定されています。
 約400m南東に牽牛子塚古墳があります。岩船の上面に2つの穴があり、牽牛子塚古墳の横口式石槨と共通点があります。妄想を膨らませると、この岩船は、牽牛子塚古墳の石槨として製作を始めたが、途中で不具合が起きて放棄され・・・。R.シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』をBGMとして、松本清張さんに続編を書いてもらいたかったです。


 奈良県教委の説明板。橿原市教委の説明板。


 鑿の跡か。北から。


 上部全景。南から


 全景。北から。
            以上2015年10月撮影。  


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2020年05月27日

番外 鬼の俎(まないた)・鬼の雪隠(せっちん) 奈良県明日香村 横口式石槨の底石・蓋石

 5月22日のブログ「番外 牽牛子塚古墳」の項目で、引用した文中に「横口式石槨」について触れた箇所がありました。ここでは、少し脱線して「横口式石槨」について書いていきたいと思います。「古墳じゃないだろー」とお叱りを受けそうですが、5月23日に取り上げた「番外 越塚御門古墳」と同じような例としてお許しください。まずは、有名な鬼の俎・鬼の雪隠について。 
 石舞台古墳のように墳丘の封土が失われ、横口式石槨が剥き出しになった飛鳥時代の終末期古墳と思われます。ただし、石舞台とは規模も時期が異なり、石槨の蓋石部分が転げ落ちてしまっています。残った底石部分が巨大なマナイタ、落ちた蓋石部分が巨大なトイレとイメージされ、鬼の俎・雪隠と命名されたようです。発掘された越塚御門古墳の横口式石槨と同じタイプです。俎と雪隠とはそれぞれ別の古墳の石槨という説もあるそうですが、おっさんは感覚的に否です。
 奈良県観光公式サイトの「なら旅ネット」の「鬼の俎、鬼の雪隠 おにのまないた、おにのせっちん」の項目で、「花崗岩をくり抜き、中央が空洞になった石造物と大きな爼石がある。鬼が旅人を霧で迷わせ、捕らえて爼で料理し、満腹になったあとに雪隠で用を足したという言い伝えがある。現在では、欽明天皇陵の石室の底石と蓋と説明されているが、何故現在の場所にあるのかは判明していない。」と記されています。
 約250m西に、宮内庁が欽明天皇陵と治定する前方後円墳の平田梅山古墳(ランキング96位)があります。しかし、前方後円墳が築造されていた時代には、横口式石槨は使用されていないので、上記「なら旅ネット」の説明には疑問が残ります。むしろ、約200m東に位置する天武・持統天皇合葬陵とされる野口王墓古墳との関係性が深いように思います。この2つの巨石は、宮内庁によって欽明天皇の陪冢に治定されているそうです。


 鬼の俎

 明日香村の説明板


 手前が説明板、奥が俎(底石)。

 ほぼ全景。



 鬼の雪隠

 明日香村の説明板。


 全景2つ。横から。前から。


 西方の平田梅山古墳。林で右側半分が隠れています。
              以上2010年6月撮影。  


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2020年05月26日

番外 野口王墓古墳 奈良県明日香村 八角墳 39(38×45・58×45)m

 宮内庁が、天武・持統天皇の合葬墓「檜隈大内陵」として治定している古墳です。多くの研究者もその見解については、首肯しています。森浩一さんは、『天皇陵古墳への招待』の中で、「40天武(41持統を合葬)」は、「○」として「ほとんど疑問がない。」としています。ただし、先回少し書きましたが、江戸時代には、天武・持統天皇陵は見瀬(五条野)丸山古墳と考えられ、この野口王墓古墳は文武天皇陵と考えられていたそうです。明治時代に入って、『阿不幾乃山陵記』という書物が発見され、その記述に基づいて1881(明治14)年に野口王墓古墳が天武・持統天皇陵として正式に治定されています。
 奈良県の「2010年奈良の実景」のHP.の「天武・持統天皇陵(野口王墓古墳)(てんむ・じとうてんのうりょう/のぐちおうぼこふん)」の項目で、「概要 飛鳥時代に築造された八角形墳で、東西約38メートル、南北約45メートル。 宮内庁は、第40代天武天皇と、その皇后である持統天皇を合葬した檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定している。 天武天皇は、壬申の乱で大友皇子を倒した大海人皇子(おおあまのおうじ)としても知られる。 第41代持統天皇は女帝として皇位を継承し、藤原京を造営した。亡くなった後、火葬されて天武天皇の墓に合葬されたが、天皇の火葬はこれが最初の例である。」と記されています。ただし、明日香村の説明板では、「墳丘は現在東西約58m、南北径45mの円墳状をなしている。」と記されています。
 余談ですが、最初の訪問と2度目では、制札が新しい物に変更されていました。     


 制札。明日香村の説明板。


 全景。
            以上2014年6月撮影。

 制札。


 全景。

 遠景。
              以上2010年6月撮影。  


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2020年05月25日

番外 「越智崗上墓」 奈良県高取町 古墳ではない?

 宮内庁が大田皇女の「越智崗上墓」と治定しています。ただし、衆議院のHP.の「第176回国会 質問の一覧」の中の、「衆議院議員吉井秀勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対する答弁書」の中で、「また、大田皇女越智崗上墓については、奈良県教育委員会からは、文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第九十三条第一項に規定する周知の埋蔵文化財包蔵地とはしていないと聞いている。」と記されています。そのため、少なくとも答弁書が受領された平成22年11月26日以前には、貝塚や古墳などの「埋蔵文化財包蔵地」ではなかったようです。そのため、タイトルは古墳名ではなく、「越智崗上墓」としました。宮内庁が、斉明天皇陵と治定する車木ケンノウ古墳の約50m南に位置しています。
 奈良県の「2010年の奈良の実景」HP.の「大田皇女墓(おおたのひめみこのはか)」の項目で、「大田皇女は天智天皇の皇女で、天武天皇の妃(きさき)。祖母・斉明天皇と叔母・間人皇女(天智天皇の妹で、孝徳天皇の皇后)とともに葬られたとされ、斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)の近くにあるこの墳丘が、宮内庁によって大田皇女の墓に指定されている。しかし、平成22年(2010)秋、明日香村の牽牛子塚古墳のそばから新たに石室が出土し、越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)と命名された。 日本書紀に記されている斉明天皇の墓との位置関係から、一部の研究者の間では、越塚御門古墳が大田皇女の墓として有力視されている。」と記されています。
 くどいようですが、宮内庁が治定する「斉明天皇陵古墳」と「大田皇女墓」はニセモノで、ホンモノは牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の可能性が高いということです。墓誌や売地券などの被葬者を特定できる出土品が見つからない限り、断定ができないとはその通りだと思います。しかし、「継体天皇陵古墳」の太田茶臼山古墳と真の継体陵と考えられている今城塚古墳の例もそうですが、状況証拠があり蓋然性が高い場合は、宮内庁は陵墓の治定変更をすべきだと思います。過去に、天武・持統陵を見瀬(五条野)丸山古墳の後円部から野口王墓古墳に治定変更した例があるように・・・。被葬者が学問的に否定されている陵墓を、皇族が参拝する姿は残念と言わざるを得ません。おっさんだったら、他人の墓とわかっていながら墓参りするのは、ご先祖様に申し訳が立たない気がします。ましてや、孫に「本当のひいおじいちゃんの墓は別の所にあって、この墓は誰の墓かわからんけど拝みなさい」と言えんだらー。


 石柱。制札。


 拝所から見る。


 ほぼ全景。
              以上2011年4月撮影。  


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2020年05月24日

番外 車木ケンノウ古墳 奈良県高取町 円墳 径45(16?)m

 宮内庁が、斉明天皇の「越智崗上陵」と治定している古墳です。ただし、前にも書きましたが、真の斉明大王(天皇)の墓は、この車木ケンノウ古墳ではなく、発掘調査の結果八角墳であることが明らかとなった牽牛子塚古墳が確実視されています。
 奈良県の「2010年の奈良の実景」のHP.の「車木ケンノウ古墳(斉明天皇陵) (くるまきけんのうこふん/さいめいてんのうりょう)」の項目で、「直径約45メートルの円墳。斉明天皇は、大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの天智天皇)の母である。(中略) 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に葬られたとされ、宮内庁によって高市郡高取町にある「車木ケンノウ古墳」が斉明天皇陵に指定されている。しかし、研究者の間では、明日香村の牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されているほか、同じく明日香村の岩屋山古墳や、橿原市の小谷古墳も候補として挙げられているなど、見解が分かれている。斉明天皇陵の近くには、天智天皇の皇女で天武天皇の妃(きさき)・大田皇女墓がある。」と記されています。
 ただし、ブログ「まぁ坊の思いつくまま考古学日記」の「2010.10.31 車木ケンノウ塚古墳(斉明天皇越智崗上陵)」の項目では、「車木ケンノウ塚古墳は直径約16メートル、高さ約3メートルの円墳とされていますが、地形図を見ると墳丘の残存状態はあまり良くないのではないかと考えています。少なくとも八角形にはなりそうにありません。 玉垣に沿って1周してみましたが、墳丘よりも広く囲っているようで、墳丘の様子を知るような観察はほとんど出来ませんでした。」と書かれています。  


 制札。


 2つで全景か。


 全景。
              以上2011年4月撮影。  


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2020年05月23日

番外 越塚御門(こしつかごもん)古墳 奈良県明日香村 墳形・規模不明

 牽牛子塚古墳の南東に隣接していた埋没古墳です。2010年に、牽牛子塚古墳の発掘調査の際に偶然、石槨の一部が発見され、その存在が明らかとなりました。被葬者については、斉明(皇極)大王(天皇)の孫にあたる大田皇女の墓の可能性が高いと考えられています。
 2014年に、「古墳」は既指定の牽牛子塚古墳に追加するかたちで、「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳」という名称で、国の史跡に指定されています。おっさんが訪問した時は、埋め戻されて更地となっており、発見当時の横穴式石槨の写真が掲示されているだけでした。
 奈良県明日香村の「越塚御門古墳 現地説明会(平成22年9月11日(土))の「配布資料」では、「3.まとめ 今回の調査では牽牛子塚古墳の南東部から新たに終末期古墳を確認することができました。以下、調査成果をまとめると、①墳丘は版築で築かれていますが、墳形・規模は不明です。 埋葬施設については天井部と床石からなる組合せの刳り貫き式横口式石槨です。形状は鬼ノ爼・雪隠(明日香村大字平田・野口)と同様の構造となっています。床面にはコの字形に溝を設け排水機能をもたせるとともに棺台としての範囲を明示していると考えられます。②棺については石槨内から漆膜片が出土していることから漆塗木棺が埋葬されていたと考えられます。③築造年代については7世紀後半頃と考えられます。」と記されています。 


 看板。掲示板。


 跡地付近。
            以上2015年10月撮影。


 跡地付近。


 発掘時発見された石槨の写真3つ。
                   中央奥に牽牛子塚古墳。
              以上2011年5月撮影。  


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2020年05月22日

番外 牽牛子塚(けんごしづか)古墳 奈良県明日香村 八角墳 対角長約22m

 多くの研究者が、斉明大王(天皇)が被葬者と考えている古墳です。前回の赤坂天王山古墳と同じく、宮内庁が治定する天皇陵古墳とは異なっています。森浩一さんは、『天皇陵古墳への招待』の中で、斉明(皇極)天皇陵古墳については、「□」の「付近により適当な古墳があり、検討すべきである。」としています。また、この古墳の横口式石槨には、2基の棺台が造られており、大王とその娘の間人皇女の合葬墓の可能性が指摘されています。そして、この古墳の墳形は、飛鳥時代後半の大王(天皇)の墓に特徴的な八角墳であることが発掘調査によって明らかとなっています。古墳は国の史跡に、夾紵棺の残片などの出土品は重要文化財に指定されています。
 奈良文化財研究所が2015年に発行した『三次元計測による飛鳥時代の石工技術の復元的研究』では、「明日香村越に所在する牽牛子塚古墳は、二上山凝灰岩製の刳抜式横口式石槨を埋葬施設とする終末期古墳で、2009~2010年の発掘調査により、墳丘を二上山凝灰岩で外装した対辺長22 mを測る八角墳であることが判明した」(p.17)と述べられています。
 また、明日香村のHP.の「牽牛子塚古墳」の項目で、「牽牛子塚古墳は明日香村大字越に所在する終末期古墳で別名「御前塚」「あさがお塚古墳」と呼ばれています。 昭和53年には環境整備事業の一環として発掘調査が実施されています。 墳丘は対角長18.5m高さ約4mの八角形墳で版築によって築かれています。埋葬施設は二上山の凝灰角礫岩の巨石を刳り貫いた横口式石槨で中央に間仕切り壁を有しています。両側には長さ約2mの墓室があり、壁面には漆喰が塗布されています。床面には長さ約1.95m、幅約80cmの棺台が削り出されています。(中略) 飛鳥の刳り貫き横口式石槨墳については益田岩船や鬼の俎・雪隠古墳があり、牽牛子塚古墳と益田岩船は巨石を刳り貫いたタイプで鬼の俎・雪隠古墳(石宝殿古墳(寝屋川市)では床石と蓋石が別々に構成されています。この二つのタイプの前後関係については石宝殿古墳に羨道が存在することから羨道を持つタイプから持たないタイプへと変化していったものと考えられます。(中略)築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃と考えられます。 被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力です。」と記されています。
 おっさんが最初に訪問した9年前は、一人の見学者もいませんでした。その6ケ月前の現地説明会では、「夢の国」の人気アトラクションの行列状態だったそうですが・・・。5年程前に再訪した時は、発掘調査中で墳丘はシートで覆われていました。ただし、横口式石槨は柵の外から見ることができました。

 
 石柱。説明板。

 看板。掲示板。


 石槨入口。

 石槨内部2つ。


 シートで覆われた墳丘。


 ほぼ全景。東から。

 全景。北東から。
            以上2015年10月撮影。

 説明板。


 石槨入口。


 墳丘近景。


 遠景。
              以上2011年4月撮影。  


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