2018年05月29日
505 丸隈山古墳 福岡県福岡市 85m
墳丘は、お堂や仏像などで一部改変されていますが、後円部に石室が見える施設があります。築造当時は、古墳周辺まで入り江が広がっていたそうです。
鋤崎古墳や今宿大塚古墳などとともに「今宿古墳群」を構成し、国の史跡に指定されています。丸隈山古墳は、群中最大規模の盟主墳的存在です。
石柱。新旧説明板。前者が西区役所、後者が福岡市教委。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。前方部から後円部。
後円部石室入口。石室内部。
前方部端。北から。
全景。右が前方部、左が後円部。北東から。 以上2014年10月撮影。
追記
HP.「福岡市の文化財」の「今宿古墳群(丸隈山古墳)」の項目で、「 糸島平野東縁にそびえる高祖山(標高416m)から、北方にのびる丘陵先端につくられた古墳時代中期の前方後円墳(5世紀前半の築造)。 墳丘主軸を南北におき、前方部を丘陵端の北に向ける。後円部は、後方の丘陵を大きく削って古墳の形を整えている。墳丘全長は85m、後円部径約60m、同高約8m、福岡市内で最大規模の前方後円墳である。墳丘は三段築成、各段の斜面には葺石があり、段のテラスに円筒埴輪列がめぐる。 埋葬施設は、後円部中央の上部につくられた横穴式石室である。石室は、入り口部がなくなって、遺体を埋葬する玄室のみであるが、幅2.4m、長さ4m、高さ2mで扁平に打ち割った玄武岩(今山産か)を小口積みにし、天上部は三枚の大石でおおっている。内面には赤色顔料を塗り、初期横穴式石室の特徴を備えている。玄室内に設けられた二基の組合せ式箱形石棺は、中央壁を共有する珍しい例である。石棺と蓋の石材は唐津産の砂岩と推定され、長持形石棺の影響をうけている。現在の石室の姿は、昭和2年(1927)に復元修理されたものである。 貝原益軒が著わした『筑前国統風土記』によると、寛永6年(1629)に村民によって発掘されたとあり、各種の副葬品が出土したらしい。現在、二面の鏡のほか、巴形銅器、直刀、鉄鏃や、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス小玉などが伝えられている。」と記されています。
鋤崎古墳や今宿大塚古墳などとともに「今宿古墳群」を構成し、国の史跡に指定されています。丸隈山古墳は、群中最大規模の盟主墳的存在です。
石柱。新旧説明板。前者が西区役所、後者が福岡市教委。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。前方部から後円部。
後円部石室入口。石室内部。
前方部端。北から。
全景。右が前方部、左が後円部。北東から。 以上2014年10月撮影。
追記
HP.「福岡市の文化財」の「今宿古墳群(丸隈山古墳)」の項目で、「 糸島平野東縁にそびえる高祖山(標高416m)から、北方にのびる丘陵先端につくられた古墳時代中期の前方後円墳(5世紀前半の築造)。 墳丘主軸を南北におき、前方部を丘陵端の北に向ける。後円部は、後方の丘陵を大きく削って古墳の形を整えている。墳丘全長は85m、後円部径約60m、同高約8m、福岡市内で最大規模の前方後円墳である。墳丘は三段築成、各段の斜面には葺石があり、段のテラスに円筒埴輪列がめぐる。 埋葬施設は、後円部中央の上部につくられた横穴式石室である。石室は、入り口部がなくなって、遺体を埋葬する玄室のみであるが、幅2.4m、長さ4m、高さ2mで扁平に打ち割った玄武岩(今山産か)を小口積みにし、天上部は三枚の大石でおおっている。内面には赤色顔料を塗り、初期横穴式石室の特徴を備えている。玄室内に設けられた二基の組合せ式箱形石棺は、中央壁を共有する珍しい例である。石棺と蓋の石材は唐津産の砂岩と推定され、長持形石棺の影響をうけている。現在の石室の姿は、昭和2年(1927)に復元修理されたものである。 貝原益軒が著わした『筑前国統風土記』によると、寛永6年(1629)に村民によって発掘されたとあり、各種の副葬品が出土したらしい。現在、二面の鏡のほか、巴形銅器、直刀、鉄鏃や、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス小玉などが伝えられている。」と記されています。
Posted by じこま at 19:25│Comments(0)