2021年04月30日
番外 吉田温泉(ゆぜん)神社古墳 栃木県那珂川町 前方後方墳 47m
難読古墳です。最初は、そのまま「よしだおんせんじんじゃこふん」と呼んでいました。しかし、何かの資料で「温泉」を「ゆせん」と読むとあったので、「よしだゆせんじんじゃこふん」と理解していました。ところが、下記のデータベースでは、「よしだゆぜんじんじゃこふん」とフリガナが振ってあり、ようやく正解にたどり着きました。メデタシメデタシ。「『石清尾山古墳群』も『いわせおやまこふんぐん』と読めんじゃん」。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「吉田温泉神社古墳(温泉古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:47m 特記事項【周濠】あり。【その他】那須八幡塚古墳の北約500mに位置。後方部は戦後間もなく開田のため削平。国史跡」と記されています。
古墳は、2002年に「那須小川古墳群」を構成する古墳の一つとして、国の史跡に指定されています。
この古墳は、2019年1月8日のブログ、「1076-2 那須八幡塚古墳のおまけの『那須小川古墳群』」の項目①で取り上げていました。ただ、2017年3月撮影の絵しか掲載していなかったので、それ以前の絵も掲載しました。
那珂川町教委の説明板。
後方部後から前方部。北から。
前方部端全景。南から。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部跡。
以上2017年3月撮影。
那珂川町教委の説明板。
前方部の社殿。南から。
前方部端全景。南から。
後方部跡。
以上2009年11月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「吉田温泉神社古墳(温泉古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:47m 特記事項【周濠】あり。【その他】那須八幡塚古墳の北約500mに位置。後方部は戦後間もなく開田のため削平。国史跡」と記されています。
古墳は、2002年に「那須小川古墳群」を構成する古墳の一つとして、国の史跡に指定されています。
この古墳は、2019年1月8日のブログ、「1076-2 那須八幡塚古墳のおまけの『那須小川古墳群』」の項目①で取り上げていました。ただ、2017年3月撮影の絵しか掲載していなかったので、それ以前の絵も掲載しました。
那珂川町教委の説明板。
後方部後から前方部。北から。
前方部端全景。南から。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部跡。
那珂川町教委の説明板。

前方部の社殿。南から。

前方部端全景。南から。

後方部跡。

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2021年04月28日
番外 星の宮浅間塚古墳 栃木県市益子町 前方後方墳 52m
高校の敷地内にある古墳です。この時は、日没近くで予定していた古墳が未訪問だったため、敷地外から撮った絵しかありません。「高校の関係者から、不審者と思われるのを避けるためだらー」。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「星の宮浅間塚古墳」の項目で、「形状:前方後方 墳長:52m 後円(ママ)部:径(ママ)28m 高4m 前方部:幅20m 長24m 高3.5m 特記事項【周濠】あり(墳丘北側および西側)。【その他】周濠は南側および左側については自然地形が傾斜しており、不明確である。」と記されています。
また、益子町のHP.の「浅間塚古墳」の項目で、「栃木県立益子芳星高等学校の敷地内に所在する古墳時代前期(4世紀)の前方後方墳である。墳丘は前方部をほぼ東に向けており、全長約52m、後方部長約28m、同幅約28m、同高約4m、前方部長約24m、同幅約20m、同高約3.5mである。県内の前方後方墳はわずかであり希少性が高く、また、本古墳の墳丘は保存状態が良好である。」と記されています。
古墳は、2016年に「浅間塚古墳」という名称で、栃木県の史跡に指定されています。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。

全景。右が前方部、左が後方部。
以上2015年1月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「星の宮浅間塚古墳」の項目で、「形状:前方後方 墳長:52m 後円(ママ)部:径(ママ)28m 高4m 前方部:幅20m 長24m 高3.5m 特記事項【周濠】あり(墳丘北側および西側)。【その他】周濠は南側および左側については自然地形が傾斜しており、不明確である。」と記されています。
また、益子町のHP.の「浅間塚古墳」の項目で、「栃木県立益子芳星高等学校の敷地内に所在する古墳時代前期(4世紀)の前方後方墳である。墳丘は前方部をほぼ東に向けており、全長約52m、後方部長約28m、同幅約28m、同高約4m、前方部長約24m、同幅約20m、同高約3.5mである。県内の前方後方墳はわずかであり希少性が高く、また、本古墳の墳丘は保存状態が良好である。」と記されています。
古墳は、2016年に「浅間塚古墳」という名称で、栃木県の史跡に指定されています。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。
全景。右が前方部、左が後方部。
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2021年04月26日
番外 三王山南塚2号墳 栃木県市下野市 前方後方墳 50m
小道をはさんで、1号墳と隣接している古墳です。2号墳も、1号墳同様に薮と木々で墳形は明確ではありません。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「山王山南塚2号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:50m 後円(ママ)部:径(ママ)30m 高5m 前方部:幅20m 長20m 高3m 特記事項【周濠】あり。」と記されています。
また、HP.「しもつけ市の文化財 バーチャルミュージアム」の「下野市の文化財」にある「三王山南塚古墳1号墳・2号墳」の項目で、「三王山南塚2号墳は、栃木県内最古級の前方後方墳です。墳長50mで前方部を南に向けていて、周溝の形・深さは不定形です。埋葬施設は壊されていることから不明です。弥生時代の終わり頃の住居を壊して造っていることから、弥生土器も多数見つかっています。口縁部と肩部に縄文のある折り返し口縁の大型壺や高坏が出土しています。」と書かれています。
下野市教委の説明板。
後方部右側。左側。

前方部。
前方部から後方部。
後方部墳頂。
全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
以上2017年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「山王山南塚2号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:50m 後円(ママ)部:径(ママ)30m 高5m 前方部:幅20m 長20m 高3m 特記事項【周濠】あり。」と記されています。
また、HP.「しもつけ市の文化財 バーチャルミュージアム」の「下野市の文化財」にある「三王山南塚古墳1号墳・2号墳」の項目で、「三王山南塚2号墳は、栃木県内最古級の前方後方墳です。墳長50mで前方部を南に向けていて、周溝の形・深さは不定形です。埋葬施設は壊されていることから不明です。弥生時代の終わり頃の住居を壊して造っていることから、弥生土器も多数見つかっています。口縁部と肩部に縄文のある折り返し口縁の大型壺や高坏が出土しています。」と書かれています。
下野市教委の説明板。
後方部右側。左側。
前方部。
前方部から後方部。
後方部墳頂。
全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
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2021年04月24日
番外 三王山南塚1号墳 栃木県市下野市 前方後方墳 47m
この古墳も薮や木々ばかりで、古墳の墳形を確認することが困難です。唯一の救いが説明板です。これがなければ、この場所に古墳が築造されている証拠はなく、「心の目」頼りにならざるを得ませんでした。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「山王山南塚1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:46m 後円(ママ)部:径(ママ)26m 高6m 前方部:幅20m 長20m 高3m」と記されています。
また、HP.「しもつけ市の文化財 バーチャルミュージアム」の「下野市の文化財」にある「三王山南塚古墳1号墳・2号墳」の項目で、「三王山南塚1号墳は、2号墳に続いて造られた前方後方墳です。墳長が46.5m、前方部を南に向けていて、周溝の形は不定形です。埋葬施設は盗掘などにより壊されているため不明です。発掘調査により二重口縁壺が出土しているほか、単口縁の壺もあわせると少なくとも十数個体の壺が見つかっています。」と書かれています。
上記のように、「さんのうやま」を前者では「山王山」、後者は「三王山」と記しています。約1km北に「三王山古墳群」があり、「三王山」という地名もあることから、ここでは「三王山」としました。
下野市教委の説明板。
後方部右側。左側。

前方部右側。左側。


前方部から後方部。
後方部墳頂。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。
以上2017年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「山王山南塚1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:46m 後円(ママ)部:径(ママ)26m 高6m 前方部:幅20m 長20m 高3m」と記されています。
また、HP.「しもつけ市の文化財 バーチャルミュージアム」の「下野市の文化財」にある「三王山南塚古墳1号墳・2号墳」の項目で、「三王山南塚1号墳は、2号墳に続いて造られた前方後方墳です。墳長が46.5m、前方部を南に向けていて、周溝の形は不定形です。埋葬施設は盗掘などにより壊されているため不明です。発掘調査により二重口縁壺が出土しているほか、単口縁の壺もあわせると少なくとも十数個体の壺が見つかっています。」と書かれています。
上記のように、「さんのうやま」を前者では「山王山」、後者は「三王山」と記しています。約1km北に「三王山古墳群」があり、「三王山」という地名もあることから、ここでは「三王山」としました。
下野市教委の説明板。
後方部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後方部。
後方部墳頂。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。
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2021年04月22日
番外 上根(かみね)二子塚3号墳 栃木県市貝町 前方後方墳 42m
前回の1号墳と同じく、薮ばかりで「心の目」を持たないと古墳には見えない絵ばかりです。「普通の目でも見える絵を撮りん」。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「上根二子塚3号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:41.7m 後円(ママ)部:径(ママ)25.6m 高4m 前方部:幅17.8m 長16.1m 高1.8m 特記事項【周濠】あり(北側と西側に存在)。【その他】本古墳の東側と南側は自然丘陵の傾斜面であるため、周濠は造られていない。」と記されています。
後方部右側。左側。

前方部。
前方部から後方部。

後方部墳頂盗掘坑。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。西から。
以上2017年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「上根二子塚3号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:41.7m 後円(ママ)部:径(ママ)25.6m 高4m 前方部:幅17.8m 長16.1m 高1.8m 特記事項【周濠】あり(北側と西側に存在)。【その他】本古墳の東側と南側は自然丘陵の傾斜面であるため、周濠は造られていない。」と記されています。
後方部右側。左側。
前方部。
前方部から後方部。
後方部墳頂盗掘坑。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。西から。
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2021年04月20日
番外 上根(かみね)二子塚1号墳 栃木県市貝町 前方後方墳 33m
墳丘は薮で覆われていて、本当に古墳か否か疑われてもおかしくないような絵ばかりです。ただし、掲載した「全景(横から)」の絵は、見ようによっては古墳に見えなくもないような・・・。「心の目で見りん」。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「上根二子塚1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:33.2m 後円(ママ)部:径(ママ)22.2m 高2.2m 前方部:幅15m 長13.6m 高1m 特記事項【周濠】あり(東側と北側に存在か)。【その他】本古墳の西側(前方部側)は自然地形の傾斜面となっている。丘陵緩斜面上に立地。」と記されています。
後方部右側。左側。

前方部。
前方部から後方部。
後方部盗掘坑。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。北北西から。
以上2017年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「上根二子塚1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:33.2m 後円(ママ)部:径(ママ)22.2m 高2.2m 前方部:幅15m 長13.6m 高1m 特記事項【周濠】あり(東側と北側に存在か)。【その他】本古墳の西側(前方部側)は自然地形の傾斜面となっている。丘陵緩斜面上に立地。」と記されています。
後方部右側。左側。
前方部。
前方部から後方部。
後方部盗掘坑。
全景(横から)。右が前方部、左が後方部。北北西から。
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2021年04月18日
番外 高部32号墳 千葉県木更津市 前方後方墳 31m
古墳の詳細については、前項の「番外 高部30号墳」の項目で書きましたので、ここでは割愛します。
おっさんが、「グーグルマップ」の存在に気付かず、「ヤフー地図」を使用していた昔。「航空写真」でこの地域を見てみると、発掘調査中の高部30・32号墳の画像が残っていました。確か、その画像を手がかりにして訪問した記憶があります。ただし、区画整理中?で古墳跡付近に近づくことができず、少し離れた高台から絵を撮ったと思います。
この頃から、消滅古墳も位置を特定して訪問しようとする「狂気の沙汰」が始まったようです。「良い子は真似したらどいかんだらー」。
跡地付近。区画地の右手前が後方部跡か、右奥が前方部跡か。東北東から。
2015年11月撮影。 木更津市千束台1-2付近。
おっさんが、「グーグルマップ」の存在に気付かず、「ヤフー地図」を使用していた昔。「航空写真」でこの地域を見てみると、発掘調査中の高部30・32号墳の画像が残っていました。確か、その画像を手がかりにして訪問した記憶があります。ただし、区画整理中?で古墳跡付近に近づくことができず、少し離れた高台から絵を撮ったと思います。
この頃から、消滅古墳も位置を特定して訪問しようとする「狂気の沙汰」が始まったようです。「良い子は真似したらどいかんだらー」。
跡地付近。区画地の右手前が後方部跡か、右奥が前方部跡か。東北東から。
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2021年04月16日
番外 高部30号墳 千葉県木更津市 前方後方墳 34m
消滅古墳ですが、寺沢薫さんの『王権誕生』の「初期の前方後方墳の分布」(p.286)にも掲載され、関東地方を代表する出現期の前方後方墳として著名です。また、伊勢湾岸地域の土師器が出土していることでも知られています。
千葉県のHP.の「高部30号墳・32号墳出土品」の項目の「概要」で、「高部30号墳・32号墳は木更津市請西(じょうざい)、現在の千束台に所在している。高部30号墳は全長33.8m、32号墳は全長31.2mであり、平成5年度(1993)に財団法人君津郡市文化財センターにより発掘調査が行われ、平成13年度(2001)に木更津市教育委員会により発掘調査報告書が刊行された。発掘調査の結果、この2基は関東地方では最古級の前方後方墳であることが明らかになった。 出土品の中で、2基の古墳を特徴づけるものは、30号墳出土の7点と、32号墳出土の20点の合計27点の資料である。内訳は鏡が2点、鉄製品が8点、土師器が17点である。 鏡は両古墳で1点ずつ出土している。30号墳出土の二神二獣鏡(にしんにじゅうきょう)はほぼ完形で、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)に先行する事例で、千葉県内出土品としては最古のものである。32号墳出土の四獣鏡(しじゅうきょう)は破片だが、破面が研磨されており、破片の状態で使用されていたものと考えられる。土師器の中で特徴的なものとして手焙形土器(てあぶりがたどき)があり、両古墳から出土している。30号墳出土のものは非常に丁寧な造りで、この古墳から出土した他の土師器と胎土が異なっており、東海地方からの搬入品であると考えられる。一方、32号墳から出土したものは、30号墳のものより簡素な造りで、搬入品を模倣して地元で作られたものと考えられる。鉄製品は鉄剣、鉄斧、鉇(やりがんな)、釣針等があるが、中でも32号墳から出土した釣針は、地金が太く大振りである一方、返しがついた精巧な造りであり、儀礼用に作られた可能性がある。 剣や鉄斧などの鉄器、鏡、手焙形土器が併せて出土することは、古墳出現期の典型的な特徴を示している。また出土した土器等は、伊勢湾岸など東海地方からの影響が明瞭に認められ、その時期は3世紀前半頃までさかのぼる可能性があり、関東地方の最古級の古墳出現期資料として重要である。 古墳出現期における房総半島への西日本からの影響を示す重要な資料である。」と記されています。
また、上記の出土品は、2020年3月に千葉県の指定文化財となっています。
跡地付近。右が前方部跡か、左が後方部跡か。北東から。
2015年11月撮影。 木更津市千束台1-3付近。
千葉県のHP.の「高部30号墳・32号墳出土品」の項目の「概要」で、「高部30号墳・32号墳は木更津市請西(じょうざい)、現在の千束台に所在している。高部30号墳は全長33.8m、32号墳は全長31.2mであり、平成5年度(1993)に財団法人君津郡市文化財センターにより発掘調査が行われ、平成13年度(2001)に木更津市教育委員会により発掘調査報告書が刊行された。発掘調査の結果、この2基は関東地方では最古級の前方後方墳であることが明らかになった。 出土品の中で、2基の古墳を特徴づけるものは、30号墳出土の7点と、32号墳出土の20点の合計27点の資料である。内訳は鏡が2点、鉄製品が8点、土師器が17点である。 鏡は両古墳で1点ずつ出土している。30号墳出土の二神二獣鏡(にしんにじゅうきょう)はほぼ完形で、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)に先行する事例で、千葉県内出土品としては最古のものである。32号墳出土の四獣鏡(しじゅうきょう)は破片だが、破面が研磨されており、破片の状態で使用されていたものと考えられる。土師器の中で特徴的なものとして手焙形土器(てあぶりがたどき)があり、両古墳から出土している。30号墳出土のものは非常に丁寧な造りで、この古墳から出土した他の土師器と胎土が異なっており、東海地方からの搬入品であると考えられる。一方、32号墳から出土したものは、30号墳のものより簡素な造りで、搬入品を模倣して地元で作られたものと考えられる。鉄製品は鉄剣、鉄斧、鉇(やりがんな)、釣針等があるが、中でも32号墳から出土した釣針は、地金が太く大振りである一方、返しがついた精巧な造りであり、儀礼用に作られた可能性がある。 剣や鉄斧などの鉄器、鏡、手焙形土器が併せて出土することは、古墳出現期の典型的な特徴を示している。また出土した土器等は、伊勢湾岸など東海地方からの影響が明瞭に認められ、その時期は3世紀前半頃までさかのぼる可能性があり、関東地方の最古級の古墳出現期資料として重要である。 古墳出現期における房総半島への西日本からの影響を示す重要な資料である。」と記されています。
また、上記の出土品は、2020年3月に千葉県の指定文化財となっています。
跡地付近。右が前方部跡か、左が後方部跡か。北東から。
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2021年04月14日
番外 三ノ耕地遺跡1~3号墓 埼玉県吉見町 前方後方形周溝墓3基 25~49m
10年近く前、吉見百穴(2020年11月30日のブログに掲載)近辺を走っていた時に、偶然説明板を見つけ絵を撮ったものです。現在のように、消滅古墳の場所を特定しようとする狂気じみた行為を行っていないので、これだけしか絵はありません。
青木弘さんは、「研究報告1 古墳」の「表1 埼玉の前期古墳」の中で、「古墳名 三ノ耕地遺跡1号墓、墳形 前方後方形周溝墓、墳長 48.8」・「古墳名 三ノ耕地遺跡2号墓、墳形 前方後方形周溝墓、墳長 30」・「古墳名 三ノ耕地遺跡3号墓、墳形 前方後方形周溝墓、墳長 25」と記しています。(『見えてきた‼ 古墳時代の幕開け ー東松山市反町遺跡を中心にー』所収 p.22)
下記の説明板では、「古墳時代前期(4世紀初頭頃)の特異な墳形をもつ前方後方形墳墓3基が方形周溝墓群と並んで見つかりました。北側から順に1~3号墳で全長は1号墳:69m、2号墳:約40m、3号墳:約27mです。」と記されています。説明板は、周溝部分の長さも含めて全長としているようです。さらに、これらの墳墓群を古墳時代初頭の前方後方墳と見るか、弥生時代後期後半の前方後方形周溝墓(墳丘墓)と考えるか意見が分かれるところです。ここでは、青木さんも「三ノ耕地遺跡○号墳」とせずに、「○号墓」としているように、弥生時代終末期として取り上げました。「古墳時代早期でもいいじゃん」。
また、墳墓群の「4世紀初頭」という年代観も、現在の年代観とズレがあるようですが、説明板が立てられた平成13年では致し方ないことかもしれません。
吉見町教委の説明板。
説明板の一部拡大。

以上2012年10月撮影。
青木弘さんは、「研究報告1 古墳」の「表1 埼玉の前期古墳」の中で、「古墳名 三ノ耕地遺跡1号墓、墳形 前方後方形周溝墓、墳長 48.8」・「古墳名 三ノ耕地遺跡2号墓、墳形 前方後方形周溝墓、墳長 30」・「古墳名 三ノ耕地遺跡3号墓、墳形 前方後方形周溝墓、墳長 25」と記しています。(『見えてきた‼ 古墳時代の幕開け ー東松山市反町遺跡を中心にー』所収 p.22)
下記の説明板では、「古墳時代前期(4世紀初頭頃)の特異な墳形をもつ前方後方形墳墓3基が方形周溝墓群と並んで見つかりました。北側から順に1~3号墳で全長は1号墳:69m、2号墳:約40m、3号墳:約27mです。」と記されています。説明板は、周溝部分の長さも含めて全長としているようです。さらに、これらの墳墓群を古墳時代初頭の前方後方墳と見るか、弥生時代後期後半の前方後方形周溝墓(墳丘墓)と考えるか意見が分かれるところです。ここでは、青木さんも「三ノ耕地遺跡○号墳」とせずに、「○号墓」としているように、弥生時代終末期として取り上げました。「古墳時代早期でもいいじゃん」。
また、墳墓群の「4世紀初頭」という年代観も、現在の年代観とズレがあるようですが、説明板が立てられた平成13年では致し方ないことかもしれません。
吉見町教委の説明板。
説明板の一部拡大。
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2021年04月12日
再び、前方後方墳です。
最近訪問した、讃岐・吉備地方の未訪問古墳を中心に掲載しましたが、ネタが尽きました。そのため、かつて訪問した墳長60(57)m未満の未掲載の前方後方墳を再び紹介していきたいと思います。
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