2019年03月31日

1232 上ノ坊古墳 大分県大分市 59m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「上ノ坊古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:後円部:2段 墳長:59m 後円部:径41~44m 高5.5m 前方部:幅16m 長18m 高2.5m」と記されています。
 古墳は、大分東高校の南に広がる丘陵上に立地しています。山林の中に、墳丘がよく残されています。ただ、標識などは設置されていないので、施設や分岐点を示す杭が目印となります。その画像も掲載します。
 約2km北に亀塚古墳(ランキング159位)、約4km北東に築山古墳(ランキング420位)があります。
                       

 後円部右側。左側。

 前方部。前方部から後円部。


 後円部墳頂。


 古墳近くの施設。「小佐井分岐点」。
            以上2014年6月撮影。  


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2019年03月31日

1231 ひょうたん塚古墳 茨城県那珂市 59m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「ひょうたん塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:59.2m 後円部:径5.88m 高2.94m 特記事項【その他】半壊。」と記されています。
 古墳は、台地の北部縁辺に立地し、約1km北に久慈川が流れています。久慈川を間に挟んで、約3km北に梵天山古墳(ランキング69位)があります。 
 ブログ「青葉考古学倶楽部」の2008年10月12日日曜日の項目に、古墳名を示した木柱と祀られている祠の画像が掲載されています。訪問時、墳丘がどこにあるか確認できず、上記ブログのような絵は撮れませんでした。「だめじゃん」。

 全景か。南から。


 遠景か。南から。
            以上2015年6月撮影。  


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2019年03月30日

1230-1 花岡山古墳のおまけの「花岡山頂上古墳」 岐阜県大垣市 (50m)

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「花岡山頂上古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:50m 後円部:径35m 高4m 特記事項【その他】未調査のまま・破壊・消滅のため詳細は不明。」と記されています。
 上記のように、消滅古墳です。跡地が、石灰石工場や駐車場などになっており、正確な場所はよくわかりませんでした。

 跡地付近?近景。東から。


 跡地付近?遠景。北から。
            以上2015年5月撮影。  


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2019年03月30日

1230 花岡山古墳 岐阜県大垣市 59(60)m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「花岡山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:後円部:2段 墳長:59.5m 後円部:径30.5m 高4.7m 前方部:幅26m 高2m」と記されています。いつも参考にさせてもらっている「古墳探訪」では、全長59.2mとなっています。資料によって位置情報が若干異なっており、工場建設によって破壊された古墳という理解で絵を撮りました。ひょっとすると、この北側の丘陵地に現存しているかもしれません。
 古墳は、金生山の南端の花岡山の尾根先端に立地していました。現在は、石灰石工場が建設されています。金生山は石灰石の産地として知られており、現在でも採掘がおこなわれています。八賀晋さんは、東海地方、特に西濃地域の弥生時代終末期の赤彩土器(おっさん註 東海地方では、「パレス壺」が代表的で弥生時代後期から古墳時代前期前半にかけて製作される。)の顔料に、金生山から採掘された赤鉄鉱が使用された可能性を指摘し、「金生山赤鉄鉱は、弥生終末期までに赤色顔料を通して、また、古墳時代には鉄生産の素材として、地域首長の葛藤の中心にあった。」(「東海の赤彩土器 ー顔料の採取と儀礼の確立ー」『第17回 春日井シンポジウム 資料集』所収p.104)と述べています。
 約150m北に花岡山山頂古墳、約300m南西に昼飯大塚古墳(ランキング71位)があります。    

 工場の注意板。


 跡地付近か。南東から。


 跡地付近か。東から。


 遠景。東から。
            以上2015年5月撮影。  


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2019年03月29日

1229 北ヶ谷1号墳 岐阜県本巣市 前方後方墳 59m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「北ヶ谷1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:59.2m 後円(ママ)部:径(ママ)36m 高4.8m 前方部:幅27.2m 高3.2m 特記事項【周濠】なし。」と記されています。
 古墳は、大平山の山頂付近に立地しています。事前の準備が不十分だったので、古墳に至る登り口がよくわからず、本巣小学校の東側の小河川に架かるコンクリート橋を渡って古墳を目指しました。小学校のハイキングコースになっているようで、所々に案内板が設置されており道中迷うことはありませんでした。ただし、コースは思ったよりもハードでかなり疲れがたまったところでようやく墳丘にたどり着くことができました。墳丘はよく残されており、疲れも吹っ飛びました。山頂には、「大平山 西峯前方後方墳」という標識と三角点が設置されており、これが目印となります。

 標識。

 山頂の三角点。


 後方部右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後方部。


 後方部墳頂。
  


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2019年03月29日

1228 御嶽神社(おんたけじんじゃ)古墳(沢野村103号墳) 群馬県太田市 59→(推定108)m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「御嶽神社古墳(沢野村103号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:59.4m 後円部:高7.3m 特記事項【その他】墳丘一部現存。御嶽祠あり。」と記されています。ただし、加部二生さんは、「集成編年一〇期における墳長八〇メートル以上の前方後円墳は一七基確認されている。これらの中で、最大規模と考えられるのは、太田東矢島古墳群の九合村六〇号墳(一一一)割地山古墳(一一〇)、後円部径のみで六〇メートルある御嶽神社古墳(地割から一〇八メートルと推定)等である。いずれも発掘調査によるデータでは無いので前後する可能性を持つが、重要なのはいずれも太田東矢島古墳群内に所在する点である。」(「群馬県」 広瀬和夫・太田博之編『前方後円墳の終焉』所収p.100)と述べています。ここでは、後者の見解にしたがって、書いていきます。       
 古墳の現状は、前方部が削平されて円墳状態です。また、後円部墳頂には御嶽神社の社殿が建立され、墳丘東側の裾部も削平されています。ただし、大きな墳丘は残されています。九合村60号墳(ランキング[202]位)や割地山古墳(ランキング[229]位)など、100m超級の古墳が数基築造されていたと考えられている東矢島古墳群ですが、現在はほとんどの古墳が削平されてその痕跡すら残されていません。その意味で、この御嶽神社古墳が後円部のみといえども残されていることはとても貴重だと思います。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部跡。


 前方部跡から後円部。西から。


 後円部墳頂。


 後円部の削平部分。墳頂から東方向を見る。


 後円部全景。南から。
            以上2016年11月撮影。


 後円部端近景。西から。


 後円部端全景。西から。


 後円部やや全景。北から。
              以上2011年10月撮影。  


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2019年03月28日

01 大山古墳 大阪府堺市 486→(525)m

 古墳の前方部の前面にある拝所(幕末か明治時代に設置だったか?)にある立札です。宮内庁は、日本書紀などにより仁徳「天皇」(通説では、天皇という称号が使用されたのは、天武天皇以降と云われているので、それ以前は「天皇」とします。面倒くさいけど。)の百舌鳥耳原中陵としていますが、研究者のなかには①仁徳「天皇」の実在そのものが?②実在したとしても、これが仁徳「天皇」の古墳か?
と疑わしいとして、大山(仙)古墳と呼んでいます。


             2008年10月撮影。


  追記(2019年3月28日)
 徳田誠志さんは、「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵第1濠内三次元地形測量調査報告」(陵墓調査室 『平成28年度 陵墓関係調査報告』所収)で、「以上、今回の計測データから得られた水面より上の部分の墳丘長と後円部径、さらに現状の濠底での墳丘長と後円部径を示した。墳丘長は481.13mと525.01m、後円部径は248.44mと286.33mとなり、どちらも後者が9~15%程度増加した数値となっている。濠水のある前方後円墳の全長を計測する場合、どこで計測するかについては必ずしも定義があるわけではないが、本陵においては現在水面上に見えている部分の墳丘長481.13m、そして現在の濠底面での計測値は525.01mとなる。しかしかつての濠底は現在よりも深かったことが確実であり、現在の濠底での計測値が何かしらの意味を持つとはいえない。すなわちこの数値が築造時の墳丘長を示すものではないことを理解した上で、今後利用していく必要があろう。築造時の墳丘長を知るためには、堆積土を除去し、真の濠底面(地山面)において計測する必要があるが、現在の技術力ではまだ信頼のおける精度で計測することは難しいようである。」(p.134)と述べています。
 
  


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2019年03月28日

1228-0

 これで「公約」どおり60m以上の古墳の紹介を終えることができました。今までこのブログをご覧いただき感謝申し上げます。HP.「古墳探訪」の「墳丘規模」の「規模順位」がなければ、このような狂気じみた行動を起こすことはなかったでしょう。また、HP.「埼群古墳館」や奈良女子大学の前方後円墳データベースの正確な位置情報がなければ古墳にたどり着くことができませんでした。さらに、奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」がなければ最新・正確なデータを入手することが出来ませんでした。そして、古墳見学を許可していただいた関係者の方々にも感謝申し上げます。
 ただ、未訪問古墳や再訪問古墳がありますので、訪問し次第掲載したいと思います。また、60m未満の古墳の画像も若干ありますので、これからも順次掲載したいと思います。そして、墳丘規模のデータも正確・最新のものがあれば、訂正していきたいと思います。例えば、従来大山古墳(ランキング1位)の墳丘規模は486mとされてきましたが、宮内庁の三次元測量調査では、周濠内の見えない部分を測定して525mという結果を示しています。  


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2019年03月28日

[1227-12] 東中道古墳 岐阜県大垣市 60m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「東中道古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60? 特記事項【その他】1888年の地籍図で判明した痕跡墳。須恵器を数点表採。」と記されています。
 消滅古墳です。現在は水田になっています。
 約100m東に遊塚古墳(ランキング566位)、約600m南南東に粉糠山古墳(ランキング308位)、約900m南東に昼飯大塚古墳(ランキング71位)があります。

 跡地付近。北から。


 跡地付近。北西から。
            以上2016年5月撮影。  


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2019年03月27日

[1227-11] 塚森古墳 兵庫県相生市 円墳 径40m→(帆立貝形前方後円墳 約60m)

 相生市立歴史民俗資料館の「れきみん 資料館だより №Ⅲ-4」(平成29年(2017年)7月1日)の「〈資料紹介3〉塚森古墳ー帆立貝形前方後円墳の復元ー」によると、「那波野3丁目の平地に直径約40m、高さ約6mの円丘があり、塚森古墳と呼ばれています。よく観察すると、墳丘の裾の部分は崖状の急斜面になっているので、耕作により周囲が削られているのは明らかです。また、基底部から約2mあたりは傾斜が緩やかで、幅1m前後のテラス状をなしているので、墳丘は2段築成と考えられます。 1980年代に、塚森古墳が帆立貝形前方後円墳(前方部が短い前方後円墳)であることが提起され、周濠や墳丘の復元試案が示されるようになりました(上田 1985、岸本 1985)。また、『相生市史』の編纂に関わって墳丘と周辺の測量調査が行われ、その結果は第5巻にまとめられました(西谷 1989)。(中略) ここで、市史掲載測量図をもとに墳丘と周濠の平面を復元してみましょう(中略)後円部径が約43m、後円部をめぐる濠幅が11~12mと推定することができます。(中略)墳長約60m、前方部長約16m、前方部前面幅約18mとするのが妥当です。くびれ部の幅は推定不可能であり、前方部の形状は確かなものとはいえません。」と記されています。
 現状では円墳状態ですが、ここでは上記のように帆立貝形前方後円墳として書いていきます。古墳は、国道2号線の「那波野東」交差点の約300m南東、JR山陽本線と山陽新幹線の間の畑地に位置しています。現在も、国道や在来線・新幹線が通っており、古墳築造時も交通の要衝地であった可能性が考えられます。

 相生市教委の説明板。


 前方部跡から後円部。西から。


 後円部墳頂から見る前方部跡。東から。


 後円部墳頂。


 後円墳全景(横から)。南から。


 全景。右が後円部、左が前方部跡。南東から。
            以上2017年1月撮影。  


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