2021年02月28日

番外 十九壇3号墳 福島県喜多方市 前方後方墳 24m

 深沢古墳から約500m南の丘陵上に、19カ所の高まり(壇)があったため十九壇古墳群と名付けられたそうです。現在は、前方後方墳の3号墳と方墳3基の合計4基のみが残されています。この4基が「十九壇古墳群」という名称で、喜多方市の史跡に指定されています。
 下記の説明板では、「塩川町教育委員会主催による発掘調査の結果、(中略)三号は前方後円墳(ママ)であることが判明しました。」と記されています。
 しかし、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「十九壇3号墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後方 墳長:23.8m 後円(ママ)部:径(ママ)14.7m 高さ2.6m 前方部:幅9m 長9.1m 高1.2m 特記事項【その他】墳方(ママ)からなる古墳群の主墳。」と記されています。辻秀人さんも、「図1 東北南部古墳編年」の中で「十九壇3」として前方後方墳の印をつけています(「十 東北南部」p.481、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学 7 古墳時代上』所収)。 ここでは、前方後方墳として書いていきます。


 標柱。喜多方市教委の説明板。


 後方部右側。左側。

 前方部。


 前方部から後方部。


 全景。右が前方部、左が後方部。
            以上2017年4月撮影。  


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2021年02月26日

番外 観音森古墳 福島県喜多方市 前方後方墳 60~70mあるいは(方墳 辺20m)

 辻秀人さんは、前期後半の方墳としてこの古墳を図示しています。(「図1 東北南部古墳編年」、「十 東北南部」(p.481)、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学 7 古墳時代上』所収)
 ただし、青山博樹さんは、「福島県喜多方市(旧塩川町)に所在する。前方後方墳であることを指摘されながら(略)未測量である。近傍に、田中舟森山古墳、深沢古墳などの前期古墳があり、当古墳を含めて首長系譜をなす。 この測量図によって、前方部を東側に向けた前方後方墳であること、前方部がきわめて低いことのほか、後方部が東西方向にやや長いことが読み取れる。前方部前端の位置が不明瞭であるが、全長は60~70mほどと思われる。 当古墳に伴う遺物は知られていないが、前方部が低平であるという特徴は、古墳時代前期でも古い古墳にみられる属性で、当古墳の築造時期を示唆する。」と述べています。(「国土地理院の基盤地図情報を利用した古墳測量図の作成」、公益財団法人 福島県文化振興財団 遺跡調査部のHP.「調査研究コラム 081」)
 訪問時は一辺20mの方墳として絵を撮っていた古墳です。約300m西に田中舟森山古墳、約400m南西に深沢古墳が位置し、いずれも前方後方墳であることから、この古墳も前方後方墳である蓋然性が高いと思いました。


 墳頂の社殿。


 後方部か。


 後方部か。
            以上2017年4月撮影。
  


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2021年02月24日

番外 深沢古墳 福島県喜多方市 前方後方墳 42m

 福島県の会津地方(会津若松市・会津坂下町・喜多方市)には、杵ガ森古墳(2019年5月23日のブログで掲載)や臼ガ森古墳など出現期の前方後円墳や全長(墳丘長)100mを超す亀ヶ森古墳(ランキング129位)や会津大塚山古墳(ランキング185位)といった東北地方を代表的する前期の大型前方後円墳が築造されています。また、杵ガ森古墳や亀ヶ森古墳に隣接して前方後方形周溝墓や前方後方墳の鎮守森古墳(2019年5月23日のブログで掲載)も見られます。
 喜多方市には、前方後方墳の田中舟森山古墳(ランキング395位)があり、この深沢古墳はそれに後続する前方後方墳と思われます。
 下記の説明板では、「当初前方後円墳とされていたが、後円(方)部上に祀られている熊野神社造営時に墳丘の一部が削平を受けて変形しているため、前方後方墳の可能性も考えられる。」と記されています。また、辻秀人さんも「図1 東北南部古墳編年」の中で、前方後方墳として図示しています(「十 東北南部」p.481、広瀬和雄・和田晴吾編『講座日本の考古学 7 古墳時代上』所収)。 ここでは前方後方墳として書いていきます。
 古墳は、喜多方市の史跡に指定されています。


 喜多方市教委の説明板。石柱と標柱。


 後方部右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後方部。

 後方部墳頂。


 全景(横から)。右が前方部、左が後方部。東から。
            以上2017年4月撮影。  


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2021年02月22日

番外 蒲生田山3・4号墳のおまけの「1号墳」 山形県南陽市 円墳 径8m 

 『蒲生田山古墳群 総合公園内遺跡群 発掘調査報告書』では、「調査区外に現存する古墳で『エゾ穴』と呼ばれていた。3号墳から北東方向に約40m、標高287mに位置する。長径8.4m短径8m、高さ3mの山寄せ式円墳である。(中略)古墳終末期、8世紀代の古墳である(略)。現在は南陽市指定文化財として現状保存されている。」(p.17)と記されています。
 上記のように、1号墳は「蒲生田山古墳」という名称で、南陽市の史跡に指定されています。おっさんとしては、前方後方墳の3号墳・4号墳とともに、「蒲生田山古墳群」として史跡指定されていれば消失は免れていたかも、と思いましたが・・・。「あとの祭りだらー」。


 標柱。南陽市教委の説明板。


 石室入口。


 全景。北東から。

 全景。南から。
            以上2017年5月撮影。  


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2021年02月20日

番外 蒲生田山3・4号墳のおまけの「2号墳」 山形県南陽市 前方後円墳 27m 

 古墳は「山の神神社」の社地となっており、現存しています。ただし、墳丘は整備されておらず、古墳を示す表示等は見当たりませんでした。辻秀人さんは、この2号墳を、前方後方墳の3号墳・4号墳に後続する前期後半の築造と考えられています。
 『蒲生田山古墳群 総合公園内遺跡群 発掘調査報告書』では、「2号墳は蒲生田山の尾根標高280m、4号墳から直線距離にして約40m南方向の位置に現存し、その墳頂付近に山ノ神神社の祠などの石塔が数基安置されている。全長27.0m、前方部長さ10.4m幅9.5m、後方(ママ)部長さ16.6m幅16.2mの前方後円墳とみられるが、著しく改変等を受けている痕跡があり、その形状は不明確な部分も多い。」(p.17)と記されています。


 「蒲生田山の神社」石碑。神社の標柱。


 後円部右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。

 後円部墳頂。
            以上2017年5月撮影。
  


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2021年02月18日

番外 蒲生田山3・4号墳 山形県南陽市 前方後方墳 ともに29m 

 置賜盆地を一望できる小高い丘の上に築かれていた出現期の前方後方墳でした。現在は、2基とも「ハイジアパーク南陽」という温泉施設建設に伴って、発掘調査後消失しています。近接している前方後円墳の2号墳と円墳の1号墳は現存していますが・・・。
 山形県南陽市教育委員会が2012年に発行した『蒲生田山古墳群 総合公園内遺跡群 発掘調査報告書』では、3号墳については「試掘段階まで3号墳は円墳と方墳の2基と認識されていたものの、本調査により1基の前方後方墳であることが確認された。 3号墳は蒲生田山の尾根筋、標高295mの位置に存在する。墳丘基底部は全長28.8m、前方部長さ11.2m幅10.1m、後方部長さ17.6m幅約17.2m、前方部:後方部の長さの比率は38.8:61.2である。」(p.8)、「4号墳は蒲生田山尾根筋の標高287m、3号墳とは直線距離にして約48m南側、山の下手に位置する。墳丘基底部は全長29.0m、前方部長さ11.5m幅11.0m、後方部長さ17.5m幅16.8m、前方部:後方部の長さの比率は39.6:60.4である。」(p.17)と記されています。
 また、寺沢薫さんは、「蒲生田3号(墳)」を西上免古墳(愛知県一宮市)や弘法山古墳(長野県松本市)などと同様に、「初期の前方後方墳の分布」の中に図示しています。(『王権誕生』講談社学術文庫版 p.286)
 辻秀人さんも、「蒲生田山3(号墳)」・「蒲生田山4(号墳)」を集成編年2期(前期前半)に位置づけています。(「十 東北南部」の「図1東北南部古墳編年」p.480、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)
 余談ですが、第三セクターの「ハイジアパーク南陽」は赤字運営のため、民間譲渡あるいは閉館を検討中だそうです。愛知県蒲郡市で第三セクターとして発足した遊園地「ラグナシア」などが、HIS系企業に事業譲渡されたのと「似とるだらー」。また、温泉施設の「ラグーナの湯」が今年の3月末で営業を終了するとのことです。「残念だらー」。



 跡地付近の「ハイジアパーク南陽」。
            2017年5月撮影。  


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2021年02月16日

番外 東根大塚古墳 山形県東根市 前方後方墳 50m

 未確認ですが、日本海側の前方後方墳としては北限に近いところに築造された古墳です。一部資料では、一辺30mの方墳という記述も見られましたが、ここでは下記のように墳丘長50mの前方後方墳として書いていきます。
 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「東根大塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 築成:前方部:1段、後円(ママ)部:2段? 墳長:推定50m 後円(ママ)部:径(ママ)30×29.6m 高3.5以上 前方部:長推定21m 特記事項:【周濠】あり(幅10m・長方形)。【その他】墳丘封土(粘土)内から土師器壺・甕破片、下部から土師器壺の底(いずれも扇田式=南小泉Ⅱ式並行)。」と記されています。
 また、加藤稔さんは、「山形盆地では、前Ⅲ期に盆地北縁の沖積平地に造営された東根市大塚古墳が最も古い。その墳型(ママ)は六〇メートル級の前方後方墳と推測される。幅一〇メートルの周濠をめぐらす点を加味し、奥羽では最も新しい段階のものである。」(「最上川流域の古墳時代史」p.12 『山形県立博物館研究報告 第11号』所収)と述べています。 
 古墳は「北村山公立病院」の敷地内に、削平された状態で残されています。訪問時、古墳を示す表示などはなく、若干の盛土をした芝生広場にしか見えませんでした。ただし、病院のHP.の「施設案内・院内配置図」には、「その他施設」として、「(南側緑化地内)大塚古墳」と書かれていました。「やるじゃん、北村山公立病院」。


 後方部残存部。南から。

 後方部残存部。東から。

 後方部残存部。南東から。

 後方部残存部「墳頂」。


 全景。手前が前方部跡、奥が後方部残存部。南から。
            以上2017年5月撮影。  


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2021年02月13日

番外 断上山10号墳のおまけの「石座(いわくら)神社遺跡」 愛知県新城市

 断上山9号墳・10号墳から約1km北にある石座神社境内には、断上山古墳群の一部があるというので訪問しました。何枚か絵は撮りましたが、古墳であるとの確証はなく掲載は断念しました。その代わりと言っては何ですが、石座神社遺跡について書いていきます。
 拝殿の西側に遺跡の説明板が設置されており、拝殿の階段上にあるポストに遺跡や神社についての資料が入っており、とても助かりました。その資料によると、「石座神社遺跡は発掘調査によって320棟を超える竪穴建物跡が発見され、弥生時代後期から古墳時代前期に最盛期を迎えた集落遺跡であることが判明しました。さらに、未調査地を含めると600棟以上が分布し、遺跡は東西約300m、南北約100mの範囲に及ぶ可能性が推測されています。(中略)これらのことから、石座神社遺跡は東三河地域でも有数の拠点的な大集落跡であったと考えられています。」と記されています(新城市教育委員会 文化課 「石座神社遺跡(いわくらじんじゃ いせき)」)。 この遺跡は、新東名高速道路の建設にともなう事前調査で発見され、残念ながら現在は大部分が消失しています。
 遺跡の発掘調査を担当した早野浩二さんは、「2 「いわくら」神社遺跡 ・弥生時代後期から古墳時代前期、西暦2・3世紀の遺跡 ・豊川の最も上流側、標高110mの丘陵上(東三河で最も高所) ・320棟余の竪穴住居 *東三河の遺跡では2011年までの集計で405棟 遺跡が約200年間続いたとして、60棟前後に200人から300人が居住 ・中心施設に平均の2倍以上の面積をもつ大型の竪穴住居、特殊な構造の建物 ・中国(後漢)製の「破鏡(方格規矩四神鏡)」と鉄製品、青銅製品の製作?、水銀朱 ・ごく特定の人のみが遺跡から離れて、「古墳」を築いた? 断上(弾正)山にある全長50mの前方後方墳、「断上山10号墳」が有力候補」 (「石座神社遺跡からみた、東三河の古墳」、豊橋市文化財センター『史跡シンポジウム 古墳のまち豊橋』所収)と述べています。 前の項目で、同時代の南貝津遺跡を紹介しましたが、豪族居館のある母村が石座神社遺跡で、墓作りの子村が南貝津遺跡ということになるのかもしれません。
 余談ですが、早野さんのデータを参考に、このエリアの人口を単純計算すると、約76万人(2015年の東三河の人口)×(320+22)÷405=約64万人となります。つまり、このエリアでの西暦2・3世紀の人口は、現代換算比で約64万人規模ということになります。「どすごいじゃん」。
 おっさんは、「長篠・設楽原合戦の地」に加えて、「東三河の纏向遺跡(邪馬台国の有力候補地)」というキャチフレーズで地域おこしができるのではないかと妄想してしまいました。ただし、石座神社の静謐な雰囲気は守り・残したいです。
 余談の余談ですが、「いわくら」という名称で、神の依代としての大岩をイメージしましたが、神社本殿脇の「石座石」は小さなものでギャップを感じました。しかし、ポストに入っていた「石座神社の御由緒」では、「当社の起源は最も古く、太古より神峯山(雁峯山)の峯に大きな岩があり石座石(額岩)と言い、その傍らに稚子石(石座石)がある。いずれも古代の磐座(神の鎮座するところ)であって、これが石座神社の起源であるという。」と記されていました。おっさんが見たのは、「稚子石」だったようです。
 さらに脱線しますが、39個の銅鐸を出土した島根県雲南市の加茂岩倉遺跡も「いわくら」という文字がみられます。おっさんは、「いわくら」という名称が残る土地には、神社信仰以前(特に弥生時代や古墳時代)の遺跡が多くみられるのではないかと密かに思っています。


 説明板。


 神社の石柱。


 拝殿。


 本殿脇の「石座石」。中央の注連縄の石。上から見る。
            以上2021年2月撮影。               首を90度傾けてね。


 石座神社遺跡付近。
            2013年8月撮影。  


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2021年02月11日

番外 断上山10号墳のおまけの「8号墳」 愛知県新城市 円墳 径17×15m

 台地南端に立地している9号墳・10号墳に対して、この8号墳はその北側に位置しています。ただし、前二者は、前期古墳と考えられていますが、この8号墳を含む1号墳から8号墳は後期の築造とされています。後者は、新城市の史跡に指定されています。
 8号墳は、「竹広公園」内に保存されていますが、コンクリート製のベンチが2台設置されているだけの小公園です。道路からの入口が分かりにくく、標柱の文字も消えてしまっていますが、こうした簡素な「史跡」公園もおっさんは嫌いではありません。南西側の眼下には工場の敷地が見えますが、この周辺は「南貝津遺跡」として、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての竪穴住居跡22棟と方形周溝墓3基が発見されています。断上山9・10号墳と同時期に存在した遺跡なので、古墳と何らかの関りが想定されます。
 また、この8号墳から道路をはさんで北東側の台地端に、馬防柵を再現したエリアがあります。コラボ第二弾として、その絵を掲載しました。こちらの方が、断然メジャーですので。
 新城市誌編集委員会編の『新城市誌』の「表11 古墳一覧表」(p.51)では、「県遺跡番号 1069、古墳名 断上第8号墳、所在地 竹広字断上18の2、地目 山林、立地 丘陵上、種類 円墳、長径 16.5 、短径 15、高さ 1.2、」と記されています。   


 「竹広公園」の標識。標柱。


 近景2つ。

 全景。



   おまけ「再現馬防柵」

 標識。設楽原を守る会の説明板。


 徳川軍の馬防柵2つ。

 織田軍の馬防柵。
            以上2021年2月撮影。  


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2021年02月09日

番外 断上山10号墳のおまけの「9号墳」 愛知県新城市 方墳 辺17m

 標高60~70mの台地南端に立地している古墳です。約50m北西に10号墳が位置しています。2基ともに、愛知県の史跡に指定されています。
 須川勝以さんは、「第9号墳は、1973年の発掘調査によって、径約17m、高さ3mの円墳であるとされ、墳頂部には径6mにおよぶ平坦部の存在が確認されている。ただし前述のように墳形については、方墳ではないかとの疑問が呈され、測量図を見る限りその可能性は高いと思われる。(中略)第9号墳では斜面に葺石が見られ、それが2段になる可能性も指摘されている。周濠はなかったようである。」と述べています(「218 断上山古墳群」p.649、『愛知県史 資料編3 考古3 古墳』所収)。 ここでは、一辺17mの方墳として書いています。
 余談ですが、この9号墳は通称「物見塚」とよばれ、「長篠・設楽原の戦」の際、徳川家康が敵陣の様子をここから伺っていたと伝えられています。確かに、この付近からは、連吾川を挟んで対峙していた武田軍の様子が手に取るようにわかると思いました。また、この古墳の立地する台地の南西端には、八剱神社があり、この場所が家康の本陣となっていました。
 以上、1月28日のブログ、「馬越長火塚古墳のおまけの『大塚南古墳』」の中で書いた、古墳マニアと城(戦国時代)マニアのコラボ第一弾です。


 標柱。「家康物見塚跡」石碑と表示。


 墳頂。


 近景。全景。
            以上2021年2月撮影。


 標柱。


 全景2つ。
 
            以上2013年8月撮影。


   おまけ 「長篠・設楽原古戦場」

 「長篠役設楽原決戦場」の石碑。


 9号墳付近からみる戦場跡。


 家康本陣跡。石碑。新城市教委の説明板。八剱神社。
            以上2021年2月撮影。  


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