2020年03月31日

追加203 赤土山(あかんどやま)古墳 奈良県天理市 110→(107)m

 かつては、測量図から前方後方墳と考えられていましたが、発掘調査の結果前方後円墳(しかも後円部端に造り出し付)であることが明らかとなり、墳長も106.5mと確定しています。造り出しの南側には、多数の形象埴輪が復元されて設置されています。その中で、おっさんが注目しているのが、最も外側の低い礫の中にある家形埴輪が設置された囲形埴輪です。これは、他の古墳からの出土例から水の祭祀を模したものと考えられます。周囲を覆った小屋の中で、導水用の木樋から流れる聖水を集める秘儀は、大型古墳に埋葬されるような首長にとって権威の象徴的な行為だったとおっさんは妄想しています。
 余談ですが、古墳の北側の遊歩道には、3本の直線がくびれ部付近から放射線状に描かれていました。西から、前方部・後円部1段目・後円部2段目の範囲を示しているように思えました。
 天理市のHP.の「赤土山古墳」の項目で、「櫟本町に所在する全長106.5メートルの前方後円墳です。後円部の先端に造り出しを築いているのが特徴です。墳丘には円筒埴輪列が存在したほか、家形埴輪、短甲形埴輪、盾形埴輪などが出土しています。4世紀後半の古墳時代前期後半に築造された古墳と考えられています。国指定史跡。」と記されています。東大寺山古墳群の中では、東大寺山古墳(ランキング92位)と同様に、国の史跡に指定されています。


 石柱。説明板。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。前方部左隅から後円部。


 後円部墳頂。後円部から見る復元埴輪群(家形埴輪祭祀遺構)。


 復元埴輪群。北から。南から。囲形埴輪。


 ほぼ全景。手前が前方部、奥が後円部。
            以上2020年3月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月30日

追加92 東大寺山古墳 奈良県天理市 140→(130)m

 2018年2月21日のブログで紹介した古墳です。その中に、どこの部分を撮ったか不明な絵があったため再訪しました。この古墳は、中国の後漢時代の「中平」という年号の銘を象嵌した鉄刀の出土で知られ、邪馬台国(やまとこく)の所在地論争にも一石を投じています。
 古墳は「天理教城法大教会」の敷地内にあり、社務所で見学の許可をいただき、説明板の横にある上り口から古墳にむかいました。その際、社務所で「天理市櫟本町 東大寺山古墳」というパンフレットをいただきました。お礼申し上げます。パンフレットの測量図では、古墳の西側は墳丘の崩れが見られ、下に掲載した絵も前方部が竹林でわかりにくくなっています。また、後円部からくびれ部付近にかけて柵が設置され「通告」文が示されていたので、前方部へは行けませんでした。 
 天理市のHP.の「東大寺山古墳」の項目で、「櫟本町に所在する全長約140メートルの前方後円墳ですが、現在は竹藪におおわれています。1961年におこなわれた発掘調査で粘土槨の埋葬施設が発見され、家形の飾りを付けた三葉環頭大刀や刀身に中国後漢時代の年号(中平年間:西暦184~188年)を表した金象嵌をもつ大刀などが出土しています。墳丘には円筒埴輪が並べられていました。4世紀後半の古墳時代前期後半に築造された古墳です。」と記されています。また、いただいたパンフレットでも、「東大寺山古墳は盆地部を見おろすことのできる南北に連なった丘陵上に立地する、全長140mの墳丘規模を誇る前方後円墳で、群中最も時期の遡る盟主的古墳である。」と書かれています。ただし、「文部科学広報 №210 (平成29年5月号)」では、「東大寺山古墳は奈良県天理市櫟本町に所在する前方後円墳(全長約130メートル、古墳時代前期後半)(後略)」と記されています。2008年~09年にかけて測量調査が行われたようなので、墳丘長については、後者の130mとしました。「中平」銘鉄刀などの出土品は、2017年に国宝に指定されています。


 天理市教委の説明板。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 後円部墳頂2つ。


 後円部端中央。右側。左側。


 遠景。右が後円部、左が前方部。


 くびれ部付近の「通告」
            以上2020年3月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月29日

追加32 桜井(外山)茶臼山古墳 奈良県桜井市 207m

 ムネサカ古墳群の訪問後、日没までに少し時間があったので、大王級の巨大古墳である茶臼山古墳を久しぶりに訪問しました。ところが、古墳の墳丘上は熊笹に覆われて、何の絵を撮っているか・・・。そこで、7年前にほぼ同じ場所を撮った絵でお茶を濁すことにしました。お許しください。
 奈良県 桜井市観光協会公式ホームページの「桜井茶臼山古墳 (桜井市外山)」の項目で、「外山(とび)茶臼山古墳ともよばれる、鳥見山の北山麓の小尾根の先端を切断して造られた、全長200mの初期ヤマト政権の大王クラスの前方後円墳です。発掘調査は1949年に一度行われていましたが、2009年に埋葬施設の詳細を明らかにする事と、木棺を取り出し保存処理を行うために実施されました。 埋葬部は後円部の中央にある、南北約11m,東西約4.8m、深さ約3mの長方形の墓壙で、その下半分に南北長6.75m、東西幅1.27m、高さ1.7mの内壁を、水銀朱で塗布された竪穴式石室があります。基底部に板石を二、三重に敷き詰め棺底土を敷いた上に、コーヤマキ製の木棺を安置しています。」と記されています。国の史跡に指定されています。


 奈良県教委の説明板。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 後円部墳頂。
            以上2020年3月撮影。


 奈良県教委の説明板。桜井市教委の説明板。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部中央。右側。左側。


 前方部から後円部。
              以上2013年3月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月28日

追加1107-1 ムネサカ1号墳のおまけの「2号墳」 奈良県桜井市 円墳 径23m

 2号墳は、1号墳の西側に接するように位置している円墳です。1号墳同様に横穴式石室は南向きに開口しています。石室入口は、匍匐前進しないと入れないほど狭かったので、入室はしませんでした。「根性なしだらー」。
 奈良県 桜井市観光協会公式ホームページの「ムネサカ古墳(2号墳) (桜井市粟原)」の項目で、「ムネサカ古墳(一号墳)の北西側に位置する古墳で同一丘陵上に隣接して築造されておりその関係が注目されています。古墳の規模は直径約23m・高さ約5mで1号墳よりひとまわり小さな円墳です。 埋葬施設は南向きに開口した両袖式の横穴式石室で1号墳同様、花崗岩の大型の切石状の石材が用いられ、全長は約10mでかなりの土砂が入り込み現高は約80cm、高いところでも120cm。奥壁・側壁共に2石の2段積みの様子が見て取れます。 築造年代は本格的な調査は行われていないので全容は不明ですが石材の加工等1号墳より若干古い要素が見られるものの、さほど年代差はなく7世紀初頭頃の築造と思われます。(以下略)」と記されています。   


 石室入口。入口部分拡大。

 近景。


 墳頂。


 ほぼ全景。


 1号墳から見る全景。


 右が1号墳、左が2号墳。
            以上2020年3月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月27日

追加1107 ムネサカ1号墳 奈良県桜井市 円墳 径60→(45)m

 2019年1月22日に掲載した未訪問の「超発見困難古墳」でした。3度目の挑戦でようやく訪問できました。今回は、あるブログに掲載されていた案内図をプリントアウトしてチャレンジしたので、意外と簡単に発見できました。(案内図が掲載されていたブログを探しましたが、見つけることができませんでした。このブロガーさんに感謝申し上げます。)やはり、勘を頼りにチャレンジするとダメな場合が多いようです。
 「奈良県 桜井市観光協会公式ホームページ」の「ムネサカ古墳(1号墳) (桜井市粟原)」の項目で、「丘陵上にある古墳で近年山道が幾分整備されましたが、見つけにくい古墳のひとつです。 ムネサカ古墳群と呼ぶ場合がありますが4基の内2基はすでに消滅しており通常ムネサカ古墳といえばこの1号墳を指します。県史跡で径45m、高さ8mの2段築成の円墳です。こんな山奥にこんな巨大な石室があったとはと、誰もが思う古墳です。 石室の全長は16.6m、玄室長4.6m、幅2.7m、奥壁、側壁ともに2段積みの花崗岩の切石を使っており壁の隙間には漆喰が詰められており今も見ることが出来ます。(以下略)」と記されています。上記のように、古墳は奈良県の史跡に指定されています。
 直径については、ランキングの参考にさせていただいているHP.「古墳探訪」では、60mとなっていましたが、ここでは45mと考えていきます。
 余談ですが、上記の観光協会ホームページにも、この古墳への詳細な案内図(画像付き!)が掲載されていました。この案内図を参考にすれば、訪問時期さえ間違えなければ、誰でも簡単に古墳にたどり着くことができると思います。


 奈良県教委の説明板。


 石室入口。石室内部から見る開口部。


 墳頂。


 近景。


 2号墳から見る全景。
            以上2020年3月撮影。
  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月26日

追加578-2 モエサシ3号墳のおまけの「黒石13号墳」 奈良県広陵町 円墳 径19m

 この横穴式石室は、説明板によると約200m南に位置していた円墳を「みささぎ公園」に移築したものだそうです。


 広陵町教委の説明板。


 移築石室。


 移築石室。
            以上2020年3月撮影。        


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月25日

追加578-1 モエサシ3号墳のおまけの「モエサシ1号墳」 奈良県広陵町 円墳 径35m

 この古墳も「みささぎ公園」内にあります。前方後円墳の3号墳から遊歩道を隔てた隣に築造されている円墳です。
 広陵町のHP.の「観光 古墳2」の「モエサシ古墳群 E」の項目で、「3基の古墳がみささぎ台公園内に保存されている。 1号墳は直径35メートル、高さ3.5メートルで墳丘の東側が破壊されている。須恵器の破片が採集されていることから古墳時代後期に築造されたと考えらる(ママ)。2号墳は直径16メートル、高さ2.5メートル、3号墳は全長74メートルの前方後円墳で、後円部径38メートル、高さ5.5メートル、前方部幅23メートル、高さ1.5メートルで墳丘形態から古墳時代前期に築造されたと考えられる。 なお、公園内には、黒石13号墳の横穴式石室が移築されている。」と記されています。
 上記に記されている2号墳の撮影は失念してしまいました。「いかんだらー」。
 

 3号墳の後円部墳頂から見る近景。


 ほぼ全景。


 ほぼ全景。
            以上2020年3月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月24日

追加578 モエサシ3号墳 奈良県広陵町 80(74)m

 2018年6月21日に掲載した古墳です。その時の絵がイマイチと思い、8年ぶりに訪問しました。ただ、前の絵は再訪する程ひどくありませんでした。墳長は、前回紹介したように80m説と74m説があり、ランキングの参考にさせていただいているHP.「古墳探訪」は前者、広陵町のHP.では後者の説となっています。
 古墳は、高台にある「みささぎ公園」内に保存されています。古墳の裾部分には木柱状のコンクリートブロックで土止めされ、遊歩道が設置されています。墳丘は残っていますが、部分的に削られています。後円部墳頂には、盗掘坑と思われる窪みがあります。また現状では、前方部の高さはあまりありません。
 古墳は、馬見古墳群では南部に位置する「築山支群(築山古墳群)」に属しています。約200m東に新山古墳(ランキング107位)があります。     


 広陵町の案内板。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。前方部左隅から後円部。


 前方部端から後円部。


 後円部墳頂。
            以上2020年3月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月23日

追加1121-2 寺音寺古墳のおまけの「辻堂古墳」 三重県伊賀市 円墳(前方後円墳) 径約20m

 古墳は、封土や天井石がなくなっており、横穴式石室のみが残存しています。 
 「広報いが市 2006年5月1日号」の「伊賀の文化財18 市指定史跡辻堂古墳(中村)」の項目で、「辻堂古墳は、中村地区の丘陵裾部に位置する古墳で、昭和47年に発掘調査が行われました。 6世紀中ごろに造られた直径約20m の円墳と考えられていますが、前方後円墳の可能性も残されています。 両袖式の横穴式石室で、玄室は長さ5m 、幅1.9m 、羨道の長さは4.5mです。石室には全面に石が敷かれており、中央に排水溝が造られています。玄室内には中央奥よりと西側袖に二つの組み合わせ式石棺が据えられていました。中央の石棺が石室構築時に造られたもので、袖の石棺は追葬時の遺骨整理用のものと考えられています。」と記されています。旧大山田村の史跡でしたが、現在は伊賀市の史跡となっています。
 約2km北西に寺音寺古墳(ランキング1121位)、約1km北北東に鳴塚古墳があります。


 標識。大山田村教委の石碑。


 石室残存部。手前が玄室。北から。


 石室残存部。手前が羨道。南から。
            以上2020年3月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)

2020年03月22日

追加1121-1 寺音寺古墳のおまけの「鳴塚古墳」 三重県伊賀市 37m

 古墳は、周囲を水田に囲まれた山裾の地に優美な姿を示しています。後円部に横穴式石室に通じる小さな入口があります。匍匐前進して中に入る勇気がなかったので、石室内部の絵はありません。「勇気がないだらー。」
 「広報いが市 2008年4月1日号」の「伊賀市の文化財33 市史跡 鳴塚古墳(鳳凰寺)」の項目で、「伊賀市東部、山田盆地東方の奥まった谷間の水田の中に、伊賀市の後期古墳を代表する鳴塚古墳(前方後円墳)はあります。本墳は前方部を東に向けて造られていて、全長37m、後円部径21m、前方部幅16mの規模を有します。昔の文書によれば、かつて墳丘の周りに池があり、後に埋められたとされることから、周壕(ママ)を伴う古墳であったとも考えられます。後円部には南に開口した横穴式石室が露見していますが、石材の大きさが不揃いであり、扁平な石材を乱雑に積み上げた様子から、伊賀地域における横穴式石室導入期の一例と考えられます。」と記されています。伊賀市の史跡に指定されています。
 約2km西北西に寺音寺古墳(ランキング1121位)があります。   


 石碑。大山田村観光協会の説明石碑。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。前方部右隅から後円部。


 後円部石室入口。


 全景(横から)。右が前方部、左が後円部。南から。
            以上2020年3月撮影。     


Posted by じこま at 08:08Comments(0)