2024年03月31日

番外 愛知県の古墳➉ー3 庭野3号墳[庭野神社古墳群] 新城市 円墳 径12m

 前回の2号墳の南側に隣接している古墳です。ただし、他の2基とは異なり、墳丘は低平で高さはあまり感じられませんでした。

 新城市のHP.の「庭野古墳」の項目で、「名称 3号墳、直径 12m、高さ 1m」と記されています。
 「庭野古墳」という名称で、1号墳・2号墳とともに新城の史跡に指定されています。



 墳頂。


 ほぼ全景。

 ほぼ全景。

 全景。


 庭野神社の本殿。左奥に3号墳。
        以上2024年3月撮影。  


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2024年03月29日

番外 愛知県の古墳➉ー2 庭野2号墳[庭野神社古墳群] 新城市 円墳 径11m

 前回の1号墳のブログでも書きましたが、庭野神社境内には3基の古墳があり、本殿に向かって左側(西側)に2号墳が位置しています。
 古墳の墳頂付近には、石室の石材と思しき石が見られました。また、墳裾の一部が社殿の塀によって削られているようでしたが、残存状態は悪くはなかったです。   

 新城市のHP.の「庭野古墳」の項目で、「名称 2号墳、直径 11m、高さ 1.4m」と記されています。
 「庭野古墳」という名称で、1号墳・3号墳とともに新城の史跡に指定されています。



 墳頂の石材。


 墳丘の一部。

 ほぼ全景。

 全景。


 庭野神社の本殿。左奥に2号墳・3号墳。
        以上2024年4月撮影。  


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2024年03月27日

番外 愛知県の古墳➉ー1 庭野1号墳[庭野神社古墳群] 新城市 円墳 径10m

 国道301号線を北上して豊川を渡る際、庭野交差点を直角に曲がりますが、そこに鎮座する庭野神社に3基の古墳があります。余談ですが、交差点を直進して県道69号線を進むと、この地方で桜の名所として有名な「桜淵公園」に至ります。
 下記のように、庭野神社本殿の右奥(東側)に1号墳があります。墳頂部に盗掘抗跡と思われる窪みがありますが、それ以外の残存状態は良好でした。
 
 新城市のHP.の「庭野古墳」の項目で、「説明 庭野神社の境内地には3基の古墳があり、いずれの形状も円墳となっています。神社本殿に向かって右脇に1号墳、左脇の北から2、3号墳が見られます。詳細は不明ですが、古墳の築造時期は古墳時代後期と推定されています。」と述べられ、「名称 1号墳、直径 10m、高さ 1.5m」と記されています。
 「庭野古墳」という名称で、3基の古墳が新城の史跡に指定されています。


 墳頂の窪み(盗掘抗?)。


 全景。

 全景。


 庭野神社。
        以上2024年3月撮影。  


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2024年03月25日

番外 愛知県の古墳⑨ー2 大原(おおばら)第2号墳[大原古墳群] 新城市 円墳 径18m

 前回の1号墳の南に隣接する古墳です。
 新城市のHP.の「夜泣石古墳群(よなきいしこふんぐん)」の項目で、「名称 大原2号墳、直径 17.8m、高さ 2.5m、形状 円墳」と記されています。
 ただし、HP.「愛知県文化財マップ 埋蔵文化財 記念物」の「埋蔵文化財(地名表)」では、「包蔵地名:大原第2号墳(中略)包蔵地概要:円墳、径18m、高3.0m。1号墳に接する南側、前方後円墳と思われる点もある。」と記されていました。
 おっさん的には、2号墳が円墳で、1号墳が「前方後円墳と思われる点もある」として絵を撮っていましたが・・・?「見た目で判断したら、いかんだらー」。
 この2号墳は、1号墳とともに「夜泣石古墳」という名称で、新城市の史跡に指定されています。


 墳頂の石材。

 墳頂。右奥が1号墳。


 1号墳から見る全景。

 ほぼ全景。


 大原古墳群。右が2号墳、左が1号墳。
        以上2023年12月撮影。

 1号墳から見る全景。
        2016年9月撮影。  


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2024年03月23日

番外 愛知県の古墳⑨ー1 大原(おおばら)第1号墳(夜泣石古墳)[大原古墳群] 新城市 円墳 径18m

 馬越北山古墳群の西側を通る県道81号線(通称柿の木街道)を北上し、東名高速道路のガード下を過ぎ新城市に入るとすぐ右手に古墳が見えてきます。遠方からは、前方後円墳に見えますが、2基の円墳が隣接しており、県道側の標柱・説明板が設置してある方が1号墳、南側が2号墳です。この周囲には、少なくとも3基の円墳が確認されており大原古墳群を形成していました。ただし、現存するのはこの2基のみです。
 1号墳は、円形の墳丘部から北側の県道側にかけて突き出た部分があり、造出付円墳または前方後円墳と妄想して絵を撮ってしまいました。「見た目で墳形を判断したらいかんだらー」。

 新城市のHP.の「夜泣石古墳群(よなきいしこふんぐん)」の項目で、「名称 夜泣石古墳(大原1号墳)、直径 17.8m、高さ 2.5m、形状 円墳、備考 天井石等が露出している」と記されています。
 2基の古墳は、「夜泣石古墳」という名称で、新城市の史跡に指定されています。また、この1号墳は、説明板にあるような悲しい民話が伝わっています。


 標柱。

 新城市教委の説明板。


 墳頂の天井石(夜泣石)。


 ほぼ全景。

 ほぼ全景。

 2号墳から見る1号墳。


 大原古墳群。右が2号墳、左が1号墳。


 1号墳が前方後円墳と妄想した場合。
  妄想後円部右側(中央奥が2号墳)。左側。

  妄想前方部右側。左側。

  妄想やや全景。右が後円部、左が前方部。
        以上2023年12月撮影。


 石柱。

 新城市教委の説明板。

 墳頂の天井石。

 全景。

 大原古墳群。右が2号墳、左が1号墳。
        以上2016年9月撮影。  


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2024年03月21日

補遺[75ー1] 焼戸山古墳 奈良県天理市 推定150m前後

 「番外 愛知県の古墳」の途中ですが、全長60m以上のランキング古墳でしたので、ここで取り上げました。
 消滅古墳です。10年程前に跡地付近の絵を撮っていました。しかし、墳丘規模などのデータが不明でしたので、放置したまま忘れていた古墳です。
 ところが、最近下記の小田木さんの論文を目にする機会があり、あわてて掲載した次第です。墳丘長150m前後ということであれば、県下最大の断夫山古墳(愛知県名古屋市、ランキング68位)や昼飯大塚古墳(岐阜県大垣市、ランキング71位)と同規模の大型古墳となります。
 小田木治太郎さんは、「天理市焼戸山古墳の検討 ー杣之内古墳群(後群)最大古墳の可能性ー」(『古事  天理大学考古学・民俗学研究室紀要 第24冊』所収)の中で、「焼戸山古墳は、現在は水田地帯の中に不整楕円形の低い高まりを残すのみである。しかもその北端部は、水田からかさ上げして作った東西方向の道路に接しており、輪郭を失っている。また高まりの東・南・西面の大半に擁壁が施されている。全体として主軸が北東―南西を向き、長さ約 126 m、幅約 65mを測る。上面はほぼ平らで、水田からの高さは東で約 1.5m、西で約 3.5mある。現在は民間で利用されており、たくさんの建物が配されている。このような現状から墳丘の原形を求めるのは困難と言わざるをえない。」(p.3)と現状を述べ、「以上、地上に残る(1946年当時に残っていた)痕跡の精査と小墓古墳との比較によって、焼戸山古墳の原形について考察した。墳丘は図示するまでに至らなかったが、小墓古墳ほどに前方部が広がらないであろうことを示し、墳丘長は不確かでありつつも 150m前後という推定値を導いた。」(p.7)と「結語」で述べています。


 跡地付近。東から。


 跡地付近。南から。
        以上2013年9月撮影。  


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2024年03月19日

番外 愛知県の古墳⑧ 磯辺王塚古墳 豊橋市 円墳(前方後円墳の可能性) 径約25m

 消滅古墳です。跡地付近は住宅地となっており、その一画に標柱と説明板が立てられています。
 築造当時、三河湾を望む柳生川の河口付近の段丘端に立地していました。跡地付近には王ケ崎貝塚があり、約250m北東の神明社境内には小浜貝塚の標柱が立てられています。柳生川をはさんで、約1km北西に市杵嶋神社古墳や牟呂大塚古墳があります。

 『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「遺跡一覧表」では、「古墳名 磯部王塚古墳 、所在地 同 王ケ崎町、墳形・規模・主な副葬品 円墳(径約25m)後略」(p.797)と記されています。
 ただし、岩原剛さんは、同上書の「242 磯部王塚古墳」の中で、「発掘調査によって周溝の一部が確認され、現状では直径20~25mの円墳と想定されているが、前後する同一系譜上にある首長墳はともに前方後円墳であることから、本墳も前方後円墳であった可能性がある。」(p.697)と述べています。そのため、タイトルでは「円墳(前方後円墳の可能性) 径約25m」としました。

 古墳は、幕末から現在まで少なくとも4回の発掘が行われており、4種類の飾大刀や金銅装馬具、玉類(銀製空玉・ガラス製トンボ玉など)をはじめとする豪華な副葬品が出土しています。
 岩原さんは、同上書で、「本墳は、渥美湾沿岸部(市域の三河湾沿岸)における首長墳系列を構成するものである。本墳の被葬者は、柳生川の河口部を主要な交通・経済基盤である港湾として活用した、旧渥美郡域のトップクラスの人物と推定される。」(p.698)と述べています。

 余談ですが、この古墳の所在地名「王ケ崎町王郷」からも、古墳の被葬者がこの地域を代表する有力者であったと想定できると思いました。  


 標柱。王ケ崎町王郷14付近。

 豊橋市教委の説明板。


 跡地付近。

 跡地付近。



 神明社境内の小浜貝塚。
  標柱。標柱(裏面)。

  神明社。
        以上2022年11月撮影。  


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2024年03月17日

番外 愛知県の古墳⑦ 岡田場2号墳(善光塚1号墳) 豊橋市 円墳 径13m

 この古墳は、当初寺西1号墳と思い込んで絵を撮っていました。後日、寺西1号墳は土取り工事のため消失していた事を知り、下記の「ちずみる豊橋」で、岡田場2号墳であることを確認しました。約80m東に寺西1号墳跡がありました。
 古墳は、台地の西端の雑木林の中にありました。残存状態はあまりよくありませんでしたが、墳丘の高まりは確認できました。
 
 HP.「ちずみる豊橋」の「遺跡・文化財マップ」にある「岡田場2号墳(善光塚1号墳)」の項目で「遺跡概要 円墳(径13m、高さ2m)」と記されています。


 墳頂。

 墳丘の一部。


 近景。南から。

 全景。東から。

 遠景。手前が寺西1号墳跡。東から。
        以上2024年2月撮影。  


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2024年03月15日

番外 愛知県の古墳⑥ 寺西1号墳 豊橋市 円墳 径25~30m

 古墳は、台地の西端に立地し、約1km北東の丘陵地には北長尾8号墳や向山1号墳が築造されています。ただし、1965年の堤防用の土取り工事にともなう発掘調査後に消失しています。現在、跡地付近は果樹園(柿木畑)となっています。
 
 2023年3月、愛知大学文学部歴史地理学科発行の『豊橋市寺西1号墳の研究(1) 報告編』によると、「平面形はわずかに楕円形を呈した2段築成の精美な形状で、墳丘上には付近で産出される石材を用いた2段からなる葺石および石列が存在した。楕円形を呈した円墳で、直径は25m~30m、高さ約4.0mを測る、東三河地方の後期古墳としては大型の古墳である。」(p.12)と述べられています。 

 また、横穴式石室が未盗掘で完存していたこの古墳からは、豊富な副葬品(特に刀身と鍔に銀象嵌を持つ大刀・鳥形のつまみがついた蓋を持つ脚付壺)が出土しています。 
 そのため、岩原剛さんは、「寺西一号墳が築かれた時期は、出土した須恵器から後期後葉、六世紀後葉と考えられる。葬られた人物(被葬者)は、豊橋市北部地域を代表する首長の一人であったといえるだろう。また豊富な鉄製武器類や実用的な鉄製馬具から、被葬者の武人としてのこだわりを見て取ることができる。」(『東三河の古墳』p.48)と指摘しています。

 余談ですが、鳥形装飾須恵器は尾張・三河・美濃エリアを中心に出土しています。初期の鳥形装飾須恵器の分布状況から、赤塚次郎さんは、「・「鈴鏡」「鳥紐」「尾張型埴輪」の分布からは草香(おっさん註 名古屋市の断夫山古墳の被葬者と考えられている尾張連草香)の意図が見えてくる。すなわち重視した「中濃」「揖斐川水系」ルート、これはヲホド王擁立に至る北陸との文化路整備を前提として評価できよう。」と述べています。(「尾張連草香の文化遺跡群 鳥のデザイン・塩作り・焼物産業・東の海道とアユチ潟」、しだみゅー歴史セミナー 資料集『尾張連草香の國』所収、2024年3月10日開催)

 
 跡地付近。東から。


 跡地付近。北から。


 跡地付近。東から。
        以上2024年2月撮影。  


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2024年03月13日

番外 愛知県の古墳⑤ー16 馬越北山21号墳[馬越北山古墳群] 豊橋市 円墳 径23m

 馬越北山古墳群の中で、規模が最大の古墳です。12号墳の北、13号墳の北西に近接する古墳です。20号墳のブロブでも書きましたが、古墳名が連続していないのは、東支群(14号墳~19号墳)の発見時に、この古墳が確認されたためです。
 墳頂付近には、盗掘時に移動されたと思われる石室の石材が散乱していました。

 HP.「ちずみる豊橋」の「遺跡・文化財マップ」にある「馬越北山21号墳」の項目で「遺跡概要 円墳(径23m、高さ2.5m)」と記されています。

 余談ですが、最初の訪問時、何号墳かわからず、やみくもに絵を撮っていましたが、再訪時同じ場所の絵を撮っていました。「ビンゴの気分でした。」


 墳頂の盗掘抗。

 墳頂の石材。


 ほぼ全景。
        以上2024年2月撮影。

 墳頂の盗掘抗。


 近景。

 近景。
        以上2023年12月撮影。  


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