2020年07月31日

追加1053 漆山古墳 群馬県高崎市 62(70級)m

 高崎市のHP.の「漆山古墳」の項目で、「漆山古墳は、かつて80基あまりの古墳が存在した佐野古墳群の中で、最も規模の大きい前方後円墳です。もともとは墳丘長70メートル級の大型前方後円墳で、加工した凝灰石の巨岩を積み上げた全長8メートルの横穴式石室をもちます。その立地は、6世紀後半頃に当地に置かれたとみられるヤマト王権の直轄地「佐野屯倉(さののみやけ、三家)」の推定地にあたることから、上野三碑の「山上碑」や「金井沢碑」を建てた一族の祖先であり、「佐野屯倉(さののみやけ、三家)」の管理者であった豪族が葬られていると考えられています。 高崎市域を代表する古墳時代後期の大型前方後円墳であり、石室の保存状態も良好です。高崎市南部に置かれた佐野屯倉との関わりも推定される重要な遺跡です。」と記されています。古墳は、2016年に土地所有者から高崎市に譲渡され、翌年2月に高崎市の史跡に指定されています。
 前方部はほとんど消滅し住宅が建設されています。ただし、横穴式石室を持つ後円部はほぼ現存しています。


 高崎市教委の説明板上部。下部。


 後円部。南から。

 後円部。北から。

 後円部端全景。西から。


 前方部跡から後円部。東から。

 前方部跡から後円部。東から。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月30日

補遺[897-1] 寺前御堂塚古墳(佐野村10号墳) 群馬県高崎市 66m

 消滅古墳です。奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「寺前御堂塚古墳(動塚古墳・佐野村10号墳〈綜覧〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円、前方部先端剣菱形 墳長:66m 後円部:径45m 前方部:幅26m 長22m 特記事項【周濠】馬蹄形。 【その他】墳丘は1922年に湮滅。」と記されています。
 烏川左岸の河岸段丘上に立地しているようですが、現状ではよくわかりません。ただし、約200m西に上信電鉄「佐野のわたし」駅があり、その名残りがうかがえます。後円部跡地には、アパートとその駐車場が造られ、その一部には墳丘の痕跡と思われる曲線部分が見られます。
 約200m南に、漆山古墳(ランキング1053位)があります。


 後円部跡。北から。上佐野町477付近。


 後円部跡。西から。


 後円部跡の曲線部分。東から。


 前方部跡から後円部跡。南から。右の建物が上佐野町470-2。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月29日

補遺[1075-1] 引間古墳(豊岡町2号墳)のおまけの「豊岡町4号墳」 円墳 径12m

 古墳マップでは、「引間古墳」の項目で、「紹介文 直径12m、高さ2mの古墳。埋葬施設は横穴式石室。総覧:豊岡村4号古墳」と記されています。
 現状では、ややいびつな形の円墳です。環状線の歩道橋からその姿を確認することができます。
 上記マップでは、前回掲載した「引間古墳(豊岡町2号墳)」と同一名称の「引間古墳」となっていますが、現存するのは「豊岡村4号墳」なので、こちらが「引間古墳」とよばれるようになったのかもしれません。


 墳頂。


 近景。


 全景。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月28日

補遺[1075] 引間(ひきま)古墳(豊岡町2号墳) 群馬県高崎市 61m

 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「引間古墳(豊岡町2号墳〈綜覧〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60.6m 後円部:高6m 前方部:高4.5m 特記事項【周濠】あり。【その他】墳丘湮滅(時期不明)。」と記されています。
 国道406号線と高崎環状線の「上豊岡町北」交差点から、約100m南西の台地上に立地していた消滅古墳です。台地の中でも高い場所に公民館が建てられていました。付近をウロウロしていると、近所の方に声をかけられました。公民館の西隣の空き家に興味があると思われたようでした。事情を話すと、公民館が建てられる前には、小高い神社があったという話を伺い、内心「ビンゴ」と思いました。古墳の墳丘上に神社が建立されるケースが多いからです。貴重なお話、感謝申し上げます。公民館前に集められていた祠などは、神社に祀られていたものと思われます。
 環状線をはさんで、約80m東南東に古墳(豊岡町4号墳)があります。


 後円部跡の公民館。北北西から。上豊岡町763。

 引間公民館。

 公民館前に集められた祠など。


 全景。右手前が前方部跡、左奥が後円部跡。北西から。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月27日

補遺[701-5-1] 本郷大塚古墳のおまけの「しどめ塚古墳」 円墳 径20m

 本郷大塚古墳に向かう途中で、偶然古墳らしき高まりを見つけました。近づいてみると、周囲を柵で囲われた円墳でした。石柱や標識が設置されており、群馬県の史跡に指定されていました。
 高崎市のHP.の「しどめ塚(人見塚)」の項目で、「しどめ塚は本郷町字道場にある7世紀前半に築造された古墳です。直径約20メートル、高さ4メートルの円墳で、石室内からは勾玉や耳環などの装身具、刀などの武器や馬具などが出土しています。 出土した遺物は県立歴史博物館に保管されています。」と記されています。


 石柱。群馬県教委・高崎市教委の説明板。


 石室入口。


 全景。


 全景。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月26日

補遺[701-5] 本郷大塚古墳 群馬県高崎市 円墳 径45m→(前方後円墳 73m)

 ランキングの参考にさせていただいているHP.「古墳探訪」の「本郷大塚古墳」の項目では、「円墳 径45m」と記されています。ところが、高崎市文化財調査報告書では、「4世紀前半代には烏川左岸の本郷台地上に本郷大塚古墳(22:綜覧久留馬村第13号墳)が築かれ、榛名地域の古墳の築造はこの全長73mの前方後円墳をもって幕開けとなる。」(『下里見宮谷戸遺跡4 -幼稚園の新園舎建設に伴う埋蔵文化財発掘調査ー』p.4)と述べられています。そのため、全長73mの前方後円墳と考えていきたいと思います。ただし、前方部の位置が後円部の北側にあるか、南側か確認できなかったので、2つ目・3つ目の絵は前方部が北側にあった場合、4つ目の絵は南側にあった場合の絵となっています。
 約150m北東に、群馬県の史跡に指定されている円墳のしどめ塚古墳があります。
 余談ですが、後円部跡には「ホテルオリエント」の建物があり、周囲より高い所に立地していました。ただし、所謂「○○ホテル」なので「週刊○○」の記者と疑われないように、少し遠方から絵を撮りました。
 余談の余談ですが、「○○ホテル」に隣接する古墳としては、茨城県かすみがうら市の熊野古墳(ランキング847位)や栃木県下野市の下野甲塚古墳(ランキング486位)が印象に残っています。いずれも、北関東地方にあり、何か立地条件に共通点があるのでしょうか。


 後円部跡。東から。東郷町360-1。


 前方部跡?から後円部跡。北から。東郷町1270。


 全景。右が後円部跡、左が前方部跡?。北西から。


 全景。右が前方部跡?、左が後円部跡。北西から。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月25日

補遺[728-1-1] 下郷5号墳のおまけの「下郷10号墳(下郷SZ42号墳)」 群馬県玉村町 前方後方墳 42m

 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「下郷10号(下郷SZ42号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:42m 後円(ママ)部:径(ママ)22.6m 前方部:幅20.7m 長19.4m 特記事項【周濠】台形。【その他】1977年、関越自動車道建設のため湮滅。」と記されています。
 訪問時、「玉村八幡公園」が周囲の土地よりやや高いことから、この場所が古墳跡地だと思っていましたが、どうやらこの公園の北側にあったようです。
 余談ですが、S字状口縁台付甕(S字甕)とともに、前方後方墳も、「東海系のトレース」(弥生時代後期後半または終末期の伊勢湾岸地域の文化が主として東日本に拡散していくこと)の主要なメルクマールのひとつでした。
 長くなりますが、樋上昇さんの『樹木と暮らす古代人』から引用します。「曲柄鍬、特に『瀬戸内型』ナスビ形曲柄鍬と『伊勢湾型』曲柄鍬は、日本列島内で非常に複雑な経路をたどって多方面に伝播していることが見て取れる。それには岡山平野と濃尾平野という、河川が乱流してそのままでは居住に適さない低湿地(略)を克服していく過程で、そこに住む人々がさまざまに工夫し産み出した独自の「土木技術の結晶」としての側面が、これら曲柄鍬にはあるのではないかと私はみている。 この土木技術には、広大な水田の構築技術や、河川の制御技術、環濠や大溝の掘削技術、あるいは墳丘墓の築造技術なども含まれる。 このうち墳墓の築造技術を採ってみても、吉備地方は楯築墳丘墓に代表される大型墳丘墓を弥生時代後期に産み出し、特殊器台型埴輪とともに近畿地方の初期前方後円墳のその技術が取り込まれていることは周知の事実である。いっぽう、濃尾平野低地部は古墳時代初頭に前方後方墳を産み出し、S字状口縁台付甕とともに東日本に広く伝播していくことは赤塚次郎氏による一連の研究でよく知られている」(pp.117~118)


 跡地付近か。玉村八幡原公園。南から。


 跡地付近か。公園。北から。


 跡地付近。公園端から北を臨む。南から。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月24日

補遺[728-1] 下郷5号墳(SZ37号墳) 群馬県玉村町 推定72m

 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「下郷5号墳(下郷SZ37号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:推定72m 後円部:径推定40m 前方部:幅推定36m 長推定33m 特記事項【周濠】あり。【その他】1977年、道路建設のため湮滅。」と記されています。
 上記のように、消滅古墳です。関越自動車道が烏川と交差する北東付近に立地していたと思われます。上記データベースの地図上の位置を参考に訪問しましたが、「マッピングぐんま」では、該当する古墳を特定できませんでした。
 関越自動車を挟んで約100m北北西には、人面文様のある埴輪を出土した下郷天神塚古墳(ランキング[287]位)(2018年4月5日のブログに掲載)がありました。また、約50m西南西には前方後方墳の下郷10号墳がありました。
 余談ですが、この地域から「人面土器」や「S字状口縁台付甕」などが出土していることから、伊勢湾岸地域の人々が古墳築造に大きな影響を与えた、ぶっちゃけ伊勢湾岸地域の人々がこのエリアを開発し古墳を築造したといっても過言ではないと思われます。赤塚次郎さんは、「東海文化が東日本の地域社会に大きな影響を与え始めていたことは想像に難くない。そのことをS字甕の拡散現象が我々に教えてくれているのである。」(『幻の王国・狗奴国を旅する』p.107)と述べています。また、樋上昇さんも、「『伊勢湾型』曲柄鍬(おっさん註 木製の鍬の中で、刃のある本体に穴を開けて柄を通す「直柄鍬」ではなく、本体の上部を棒軸状にして曲がった柄を紐で縛るタイプを「曲柄鍬」というそうです)は、さらに古墳時代前期にはのちに東山道ルートで長野県善光寺平を経て北関東へと伝播して同地で古墳時代後期まで定着する。」(『樹木と暮らす古代人』p.106)と述べています。おっさんの個人的な感想ですが、群馬県太田市の石田川遺跡から出土した土器が基準となっている「石田川式土器」は、三河地域の「欠山式土器」や尾張地域の「狭間式土器」と瓜二つです。その筋の専門家は小さな差異を指摘していますが・・・。でも、「神は細部に宿るというじゃん。」


 跡地付近か。南から。左端には関越自動車。


 跡地付近か。東から。


 跡地付近か。北から。八幡原1800-3付近。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月23日

番外 大藪城山古墳(明治村119号墳) 群馬県吉岡町 (53m)

 2018年5月7日のブログ「426 明治村100号墳」の中で掲載していた絵が、公園として整備される以前の大藪城山古墳跡のものでした。言い訳になりますが、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「明治村100号墳〈綜覧〉」と「桃井城山頂古墳(明治村119号墳〈綜覧〉)」の地図上の位置が逆になっていたようです。
 現在は、「城山みはらし公園」内で、前方後円形に柵が巡らされて整備され、グーグルアースで上空からの画像を見ると、「ここだ」ということがわかります。ただし、実際の墳丘はほとんど削られ、前方後円形に盛土されているそうです。後円部跡付近には、吉岡町教育委員会による「桃井城」の説明板がありますが、「古墳」の文字は残念ながら見当たりません。「城跡マニア」の方が「古墳マニア」より市民権のある主流派だからでしょうか。古墳が後世に城郭として利用された例は、大阪府高槻市の今城塚古墳(ランキング45位)や宮城県名取市の高舘山古墳(ランキング1167位)など枚挙にいとまがありません。
 全長60mとするデータもありましたが、群馬県教育委員会が発行した『群馬県古墳総覧』では、全長53mと記されているそうです。直接、『総覧』を確認したわけではありませんが、ここでは、番外の53mとします。


 吉岡町教委の「桃井城」の説明板。


 後円部中央跡。右側跡。左側跡。

 前方部右側跡。左側跡。


 前方部跡から後円部跡。後円部墳頂跡。


 全景(横から)。右が前方部跡、左が後円部跡。東から。


 前方部右隅跡から後円部跡。
            以上2020年7月撮影。  


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2020年07月22日

補遺[458-?] 藤塚山古墳(明治村5号墳) 群馬県吉岡町 87m

 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「藤塚山古墳(明治村5号墳〈綜覧〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:87m 後円部:径48m 高7.8m 前方部:幅42m 長24m 高6m 特記事項【その他】1975年、墳丘破壊され湮滅。」と記されています。
 ただし、「マッピングぐんま」では、この地に古墳の表示はなく、群馬県教育委員会が発行した『群馬県古墳総覧』にもこの古墳は掲載されていないようです。
 周囲の農地より少し小高い所に立地していることから、一応古墳跡地であると考えて掲載しました。古墳跡地ではない可能性も十分ありますが、・・・。


 後円部右側跡か、東から。左側跡か、東から。 
            北下311-14付近。

 前方部右側跡か、西から。左側跡か、西から。
            北下311-8付近。

 跡地全景か。右が前方部跡か、左が後円部跡か。南東から。
            以上2020年7月撮影。  


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