2020年08月23日
新規掲載はしばらくお休みします。
中・西毛地域の大型古墳のネタがなくなりました。東毛地域の未掲載の大型古墳訪問ができ次第、再開したいと思います。ただし、「コロナ自粛」もあり、訪問予定は未定です。それまでは、今まで掲載した内容の訂正・追加をチマチマとやっていければと思っています。
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2020年08月22日
補遺[1021-7-1] 下谷A号墳のおまけの「鶴巻古墳(東村8号墳)」 群馬県伊勢崎市 造り出し付円墳 径34m
下谷A号墳(東村22号墳)の訪問途中に、墳丘が整備されている古墳を見つけました。最初、円墳と思って絵を撮っていましたが、北西側に造り出しのある円墳でした。伊勢崎市教育委員会の新説明板では、「北西方向に小さな造り出しがある、帆立貝形の古墳であることが判明しました」と表示してありましたが、この規模の造り出しならば、「帆立貝形前方後円墳」より「造り出し付円墳」が妥当だと思いました。下記の伊勢崎市のHP.でも後者の「造り出しのある円墳」という表現が見られます。
伊勢崎市のHP.の「鶴巻古墳」の項目で、「この古墳は、6世紀末に築造された。直径34メートルあり、西に短い造り出しのある円墳である。榛名山二ツ岳の噴火による角閃石安山岩と凝灰質砂岩を使用した優美な横穴式石室をもつ。墳丘には円筒埴輪が80センチメートル間隔で配列されていた。石室内からは刀子(とうす)、金銅製耳環(じかん)、馬具などが出土した。平成8年に復元整備を行った。」と記されています。古墳は、伊勢崎市の史跡に指定され、史跡公園として保存されています。
余談ですが、古墳研究者のバイブル的存在の『前方後円墳集成』では、「〈墳丘〉 帆立貝形前方後円墳(前方部長が後円部径の4分の1以上で2分の1未満のものを目安とする。前方部長が同じく4分の1未満の場合は、造出付き円墳として扱い、対象外とする)」と定義しています。(近藤義郎編『前方後円墳集成 中部編』 p.17)
旧説明版。伊勢崎市教委の新説明板。

石室入口。石室の説明版。

墳頂。
全景。
全景。手前が造り出し。
全景(横から)。左が造り出し。
以上2020年7月撮影。
伊勢崎市のHP.の「鶴巻古墳」の項目で、「この古墳は、6世紀末に築造された。直径34メートルあり、西に短い造り出しのある円墳である。榛名山二ツ岳の噴火による角閃石安山岩と凝灰質砂岩を使用した優美な横穴式石室をもつ。墳丘には円筒埴輪が80センチメートル間隔で配列されていた。石室内からは刀子(とうす)、金銅製耳環(じかん)、馬具などが出土した。平成8年に復元整備を行った。」と記されています。古墳は、伊勢崎市の史跡に指定され、史跡公園として保存されています。
余談ですが、古墳研究者のバイブル的存在の『前方後円墳集成』では、「〈墳丘〉 帆立貝形前方後円墳(前方部長が後円部径の4分の1以上で2分の1未満のものを目安とする。前方部長が同じく4分の1未満の場合は、造出付き円墳として扱い、対象外とする)」と定義しています。(近藤義郎編『前方後円墳集成 中部編』 p.17)
旧説明版。伊勢崎市教委の新説明板。
石室入口。石室の説明版。
墳頂。
全景。
全景。手前が造り出し。
全景(横から)。左が造り出し。
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2020年08月21日
補遺[1021-7] 下谷A号墳(東村22号墳) 群馬県伊勢崎市 (57→63)m
消滅古墳です。奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「下谷A号墳(佐波・東村22号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:57m 後円部:径34m 高6m 前方部:幅30m 長現存26m 高6m 特記事項【その他】消滅。」と記されています。ただし、HP.「全国遺跡報告総覧」の「下谷A墳群」の項目で、「遺跡概要 遺跡所在地 群馬県伊勢崎市東小保方町3887-2、3887-6、3894-3 特記事項 墳丘を失った全長63mの後期前方後円墳『下谷A号墳』の周溝部分の調査。古墳築造に関係する作業路等を検出。噴(ママ)丘部分は昭和29年に群馬大学によって調査されており、その成果を合わせて検討することで、今回正確な規模・墳丘形態を明らかにすることができた。」とまとめられています。そのため、ここでは、全長63mの前方後円墳とします。
また、「マッピングぐんま」では、上記データベースの地図上の位置には古墳はなく、その約1km南の位置に「東村22号墳」がありました。いずれにしても、下谷A号墳と思って撮った絵はA号墳ではなく、「マッピングぐんま」によると、東村15~17号墳跡でした。いつか、再訪してリベンジしたいと思います。
東村15号墳跡。北から。東小保方町3809付近。
左端の林が東村16号墳跡。
東村17号墳跡。南から。東小保方町3809付近。
以上2020年7月撮影。
追記
2020年10月19日のブログに、「追加の補遺[1021-7] 下谷A号墳(東村22号墳)」として、該当する古墳の絵を掲載しています。
また、「マッピングぐんま」では、上記データベースの地図上の位置には古墳はなく、その約1km南の位置に「東村22号墳」がありました。いずれにしても、下谷A号墳と思って撮った絵はA号墳ではなく、「マッピングぐんま」によると、東村15~17号墳跡でした。いつか、再訪してリベンジしたいと思います。
東村15号墳跡。北から。東小保方町3809付近。
左端の林が東村16号墳跡。
東村17号墳跡。南から。東小保方町3809付近。
追記
2020年10月19日のブログに、「追加の補遺[1021-7] 下谷A号墳(東村22号墳)」として、該当する古墳の絵を掲載しています。
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2020年08月20日
補遺[978-3] 采女村30号墳(血止塚古墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m
消滅古墳です。奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「采女村30号墳(血止塚古墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円墳長:64m 後円部:径40m 高4.2m 前方部:幅45m 高2.7m 特記事項【その他】墳丘湮滅。」と記されています。
当初、渕名神社の北西部に後円部の端がかかると思って絵を撮っていましたが、上記データベースの地図上の位置を再確認したところ、想定していた場所より100m程北西にズレていました。そのため、撮った絵はボツにしました。後日、リベンジしたいと思っています。ただし、渕名神社の絵は本物なので、それだけは掲載します。「なんか、セコイじゃん」。
約100m南に、後円部の跡地が確認できる上淵名雙児山古墳(采女村11号墳)(ランキング[433-3]位)がありました。
渕名神社の社殿。
左の森が渕名神社。北から。
以上2020年7月撮影。
追記
2020年10月20日のブログに、「追加の補遺[976-1] 采女村30号墳(血止塚古墳)」として、訂正した新しい絵を掲載しています。
当初、渕名神社の北西部に後円部の端がかかると思って絵を撮っていましたが、上記データベースの地図上の位置を再確認したところ、想定していた場所より100m程北西にズレていました。そのため、撮った絵はボツにしました。後日、リベンジしたいと思っています。ただし、渕名神社の絵は本物なので、それだけは掲載します。「なんか、セコイじゃん」。
約100m南に、後円部の跡地が確認できる上淵名雙児山古墳(采女村11号墳)(ランキング[433-3]位)がありました。
渕名神社の社殿。
左の森が渕名神社。北から。
追記
2020年10月20日のブログに、「追加の補遺[976-1] 采女村30号墳(血止塚古墳)」として、訂正した新しい絵を掲載しています。
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2020年08月19日
補遺[316-6] 采女村3号墳 群馬県伊勢崎市 円墳 (径100m以上)
HP.「古墳マップ」の「采女村3号墳」の項目で、「紹介文 龍昌院裏に所在。直径100m以上の円墳とされるが、墓地などにより削平されている。 別名:須久茂塚古墳」と記されています。また、「マッピングぐんま」の該当する場所には、「伊与久・須久茂塚遺跡、 所在地 伊勢崎市境伊与久町1535他、 時代 古墳、 種別 古墳」と記されていました。ここでは、直径100mの規模の古墳として書いていきます。
4日前の「雷電山古墳(荒砥村92号墳)」の項目でも書きましたが、直径100mの規模の円墳とするなら、富雄丸山古墳、さきたま丸墓山古墳に次ぐ、3番目に大きな規模の円墳ということになります。丸墓山古墳ほどの高さは感じませんでしたが、確かに墳丘規模の巨大さを感じました。この古墳が、円墳ランキングから除外されている理由は定かではありませんが、伊勢崎市あるいは群馬県として積極的な情報の発信を望みたいものです。
余談ですが、墳丘の南側の中腹付近に、大谷吉継の孫「大谷隆昌」一族の墓があり、思わず絵を撮ってしまいました。
「龍昌院」の門柱。
2つで全景。右側。左側。東から。境伊与久1535-20付近。

墳頂から見る。右側。左側。西から。

墳頂。
近景。南西から。
墳丘上の大谷隆昌の墓。
墓所入口。
右から2つ目が隆昌の墓石。
以上2020年7月撮影。
4日前の「雷電山古墳(荒砥村92号墳)」の項目でも書きましたが、直径100mの規模の円墳とするなら、富雄丸山古墳、さきたま丸墓山古墳に次ぐ、3番目に大きな規模の円墳ということになります。丸墓山古墳ほどの高さは感じませんでしたが、確かに墳丘規模の巨大さを感じました。この古墳が、円墳ランキングから除外されている理由は定かではありませんが、伊勢崎市あるいは群馬県として積極的な情報の発信を望みたいものです。
余談ですが、墳丘の南側の中腹付近に、大谷吉継の孫「大谷隆昌」一族の墓があり、思わず絵を撮ってしまいました。
「龍昌院」の門柱。
2つで全景。右側。左側。東から。境伊与久1535-20付近。
墳頂から見る。右側。左側。西から。
墳頂。
近景。南西から。
墳丘上の大谷隆昌の墓。
墓所入口。
右から2つ目が隆昌の墓石。
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2020年08月18日
補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳〈綜覧〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:63.6m 後円部:径33.3m 高6.1m 前方部:幅28.8m 高4.5m 特記事項【周濠】あり。【その他】墳丘湮滅。 立地 丘陵中腹 標高 73m」と記されています。また、白石太一郎さんも、「伊勢崎市東方から東村にかけての殖蓮古墳群には荷鞍山古墳(同80メートル)、八寸雷電山古墳(同65メートル)、旧殖蓮村222号墳(同64メートル)、蛇塚古墳(同60メートル)などが、(中略)ある。(「関東の後期大型前方後円墳」p.21『国立歴史民俗博物館研究報告 第44集(1992)』所収)と述べています。ただし、上記「データベース」の「雷電山古墳(蛇塚古墳・殖蓮村299号墳〈綜覧〉)」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:56m」と記され、蛇塚古墳は雷電山古墳の別名で60(57)m未満の古墳となっていました。
脱線しましたが、この古墳に関する位置情報は上記「データベース」しか確認できず、しかも「立地 丘陵中腹」とあったので??でした。後日確認したところ、この「八寸(はちす)権現山」は、標高91mの群馬県で最小の山ということでした。そのため、絵を撮った跡地付近は「標高73mの丘陵中腹」でも矛盾はありませんでした。ここでは、グーグルアースの上空からの画像を参考に、前方部を西にむける前方後円墳と勝手に解釈して絵を撮りました。
余談ですが、古墳跡地の南方に小山(おっさん註 これが「八寸権現山」)があり、全景の絵を撮ろうとして上って行ったら、山頂付近に「権現山遺跡」の説明板がありました。あの岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんが、その後発見した旧石器時代の遺跡でした。偶然とはいえ、ビックリしました。中学時代に相沢さんの『岩宿の発見』を読み、一人の「好古学者」が当時の「考古学者」の常識を覆した記録として、一方で一人の青年の寂しい人生の労苦に共感した記憶がよみがえってきました。また、小山を降り鳥居をくぐって道路を横断した所に石碑が建てられており、よく見てみると「埴輪翳類出土之碑」とありました。この地で、貴人に差す日傘である翳(きぬがさ)形埴輪が出土していたということで二度ビックリしました。余談の余談ですが、伊勢崎市にある「相川考古館」が所蔵し、国の重要文化財に指定されている「正装男子立像」埴輪もこの付近で出土しているそうです。
後円部右側跡付近か。左側跡付近か。

前方部跡付近か。前方部跡付近?の「豊城北児童遊園地」。

後円部端右側跡付近か。左側跡付近か。

跡地付近の「埴輪翳類出土之碑」。拡大。

伊勢崎市教委の「権現山遺跡」の説明板。
以上2020年7月撮影。
脱線しましたが、この古墳に関する位置情報は上記「データベース」しか確認できず、しかも「立地 丘陵中腹」とあったので??でした。後日確認したところ、この「八寸(はちす)権現山」は、標高91mの群馬県で最小の山ということでした。そのため、絵を撮った跡地付近は「標高73mの丘陵中腹」でも矛盾はありませんでした。ここでは、グーグルアースの上空からの画像を参考に、前方部を西にむける前方後円墳と勝手に解釈して絵を撮りました。
余談ですが、古墳跡地の南方に小山(おっさん註 これが「八寸権現山」)があり、全景の絵を撮ろうとして上って行ったら、山頂付近に「権現山遺跡」の説明板がありました。あの岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんが、その後発見した旧石器時代の遺跡でした。偶然とはいえ、ビックリしました。中学時代に相沢さんの『岩宿の発見』を読み、一人の「好古学者」が当時の「考古学者」の常識を覆した記録として、一方で一人の青年の寂しい人生の労苦に共感した記憶がよみがえってきました。また、小山を降り鳥居をくぐって道路を横断した所に石碑が建てられており、よく見てみると「埴輪翳類出土之碑」とありました。この地で、貴人に差す日傘である翳(きぬがさ)形埴輪が出土していたということで二度ビックリしました。余談の余談ですが、伊勢崎市にある「相川考古館」が所蔵し、国の重要文化財に指定されている「正装男子立像」埴輪もこの付近で出土しているそうです。
後円部右側跡付近か。左側跡付近か。
前方部跡付近か。前方部跡付近?の「豊城北児童遊園地」。
後円部端右側跡付近か。左側跡付近か。
跡地付近の「埴輪翳類出土之碑」。拡大。
伊勢崎市教委の「権現山遺跡」の説明板。
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2020年08月17日
補遺[1075] 赤堀村244号墳 群馬県伊勢崎市 35→(61)m
ランキングの参考にさせていただいているHP.「古墳探訪」の「赤堀村244号墳」の項目では、全長34.5mとなっていたので未訪問でした。ただし、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「赤堀村244号墳〈綜覧〉」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60.6m 後円部:高6.1m 前方部:高5.2m 特記事項【周濠】あり。」と記されていたので訪問しました。
上記「データベース」の地図上の位置には、「北関東物流 群馬センター」の倉庫が立ち並び、消滅古墳でした。ただし、「マッピングぐんま」では、該当する場所に古墳の存在は確認できませんでした。ここでは、墳長61mの前方後円墳が存在していたという前提で絵を撮りました。
約700m南西に赤堀茶臼山古墳(ランキング1023位)があります。
跡地付近。南から。赤堀今井町2丁目ー1021-2。
跡地付近。東から。
跡地付近。南西から。
以上2020年7月撮影。
上記「データベース」の地図上の位置には、「北関東物流 群馬センター」の倉庫が立ち並び、消滅古墳でした。ただし、「マッピングぐんま」では、該当する場所に古墳の存在は確認できませんでした。ここでは、墳長61mの前方後円墳が存在していたという前提で絵を撮りました。
約700m南西に赤堀茶臼山古墳(ランキング1023位)があります。
跡地付近。南から。赤堀今井町2丁目ー1021-2。
跡地付近。東から。
跡地付近。南西から。
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2020年08月16日
追加1023 赤堀茶臼山古墳(赤堀村260号墳) 群馬県伊勢崎市 62m
前回訪問した時の絵がイマイチだったので、5年半ぶりに再訪しました。前原豊さんは、「赤堀茶臼山古墳は大室古墳群の前二子・中二子・後二子古墳の三基の前方後円墳よりも古く、五世紀中葉の古墳である。かつて帆立貝式古墳とよばれていたが、再調査の結果、墳丘長六二・一メートル、前方部が長さ十八メートルとやや短い前方後円墳であることがわかった。」(『東国大豪族の威勢 大室古墳群[群馬]』p.87)と述べています。ここでは、前回の項目を訂正して、ランキングの参考にさせていただいているHP.「古墳探訪」どおり、全長62mとします。
説明版に、「茶臼山往時を伝える家型(ママ)埴輪」とあるように、8棟の家形埴輪の出土で著名な古墳です。古墳は、2004年に伊勢崎市の史跡に指定されています。
当初は、後円部の東側に前方部があると思って、薮の部分が前方部と思い込んで絵を撮りました。しかし、後日確認したところ前方部は西側に位置していました。そのため、前方部のみの絵はありません。
赤堀村役場経済課の説明版。案内板。

後円部中央。右側。左側。


後円部墳頂。
葺石か。
全景。手前が前方部、奥が後円部。
以上2020年7月撮影。
説明版に、「茶臼山往時を伝える家型(ママ)埴輪」とあるように、8棟の家形埴輪の出土で著名な古墳です。古墳は、2004年に伊勢崎市の史跡に指定されています。
当初は、後円部の東側に前方部があると思って、薮の部分が前方部と思い込んで絵を撮りました。しかし、後日確認したところ前方部は西側に位置していました。そのため、前方部のみの絵はありません。
赤堀村役場経済課の説明版。案内板。
後円部中央。右側。左側。
後円部墳頂。
葺石か。
全景。手前が前方部、奥が後円部。
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2020年08月15日
補遺[?] 雷電山古墳(荒砥村92号墳) 群馬県前橋市 円墳 (径99m?)
HP.「古墳マップ」の「雷電山古墳」の項目で、「紹介文 別名:大稲荷古墳。直径99mとされている。 総覧:荒砥村92号墳」と記されています。
直径99mの円墳だとすると、富雄丸山古墳(ランキング462位 [おっさん註 ランキングは近年の発掘調査以前のデータで、HP.「古墳探訪」によるものです])、さきたま丸墓山古墳(ランキング261位)に次ぐ規模の円墳となります。ただし、上記「古墳マップ」以外で「直径99mの円墳」とする資料は見つけられませんでした。また、グーグルアースで上空からの画像を見ると、現状では100m級の円墳には見えませんでした。ここでは、墳長(直径)については保留し、絵のみ掲載します。
約1km南東に「大室公園」があり、公園内には中二子古墳(ランキング201位)・前二子古墳(ランキング363位)・後二子古墳(ランキング494位)などを中心とする大室古墳群が整備・保存されています。
全景。北西から。西大室町369-8付近。
全景。北から。
遠景。南から。
以上2020年7月撮影。
直径99mの円墳だとすると、富雄丸山古墳(ランキング462位 [おっさん註 ランキングは近年の発掘調査以前のデータで、HP.「古墳探訪」によるものです])、さきたま丸墓山古墳(ランキング261位)に次ぐ規模の円墳となります。ただし、上記「古墳マップ」以外で「直径99mの円墳」とする資料は見つけられませんでした。また、グーグルアースで上空からの画像を見ると、現状では100m級の円墳には見えませんでした。ここでは、墳長(直径)については保留し、絵のみ掲載します。
約1km南東に「大室公園」があり、公園内には中二子古墳(ランキング201位)・前二子古墳(ランキング363位)・後二子古墳(ランキング494位)などを中心とする大室古墳群が整備・保存されています。
全景。北西から。西大室町369-8付近。
全景。北から。
遠景。南から。
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2020年08月14日
補遺[?] 上陽村13号墳 群馬県前橋市 (60m?)
消滅古墳です。前橋市教育委員会の『群馬の古墳時代はここから始まった 朝倉・広瀬古墳群』では、地図上に前方後円形の印がついていますが、古墳名は記されていませんでした。ただし、この古墳の左右に上陽村14号墳(金冠塚古墳)、上陽村12号墳が図示されており、上陽村13号墳の蓋然性は高いと思いました。
また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」では、前橋市教育委員会の同上書と同じ位置に、「善養寺東方古墳(上陽村13号墳〈綜覧〉)」の項目があり、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 後円部:径36m 高6m 特記事項【その他】1968年、団地造成のため湮滅。」と記されていました。
「善養寺東方古墳」については、前回の項目で書いたように、こんがらがっていますが、上陽村13号墳という点では一致していると思われます。ここでは、前方部を南に向ける墳長60mの前方後円墳として上陽村13号墳を取り上げていきます。ただし、跡地は団地ではなく住宅地ですが・・・。また、当初は前方部を西に向ける前方後円墳として絵を撮っていたので、いい絵が一枚しか残っていません。「だめだらー」。
道路の奥が前方部跡付近か。南から。中央奥が山王町2-8。
2020年7月撮影。
また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」では、前橋市教育委員会の同上書と同じ位置に、「善養寺東方古墳(上陽村13号墳〈綜覧〉)」の項目があり、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60m 後円部:径36m 高6m 特記事項【その他】1968年、団地造成のため湮滅。」と記されていました。
「善養寺東方古墳」については、前回の項目で書いたように、こんがらがっていますが、上陽村13号墳という点では一致していると思われます。ここでは、前方部を南に向ける墳長60mの前方後円墳として上陽村13号墳を取り上げていきます。ただし、跡地は団地ではなく住宅地ですが・・・。また、当初は前方部を西に向ける前方後円墳として絵を撮っていたので、いい絵が一枚しか残っていません。「だめだらー」。
道路の奥が前方部跡付近か。南から。中央奥が山王町2-8。
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