2018年01月31日

14 市庭古墳 奈良県奈良市 253m

 宮内庁は、平城天皇の陵としています。平城天皇は、平安京に遷都した桓武天皇の子で、桓武天皇の次に天皇になった人物です。アレレレ、平安時代の人の墓が古墳なの?名探偵コナン君、この難問を解いてください。


 後円部全景。東から。当初、円墳と考えられていましたが、平城京の発掘調査で前方部が見つかり前方後円墳であることが判明しました。平城京建設の際、前方部を破壊したそうです。天皇の宮城を造るために、ご先祖の墓を破壊してしまうとは「ど悪いー」。

 前方部跡から後円部。南から。絵の左右にある植樹が建物の柱があったところ。

 遠景。手前は平城京大極殿。南から。
  


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2018年01月31日

13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市 270(260・255)m→推定270~280m

 宮内庁は「宇和奈辺陵墓参考地」に指定しています。
            2008年10月撮影。

 全景。右が後円部、左が前方部。南東から。中央の白いところに関西本線が通っています。

 手前が前方部端、左奥が後円部です。南から。
            以上2014年5月撮影。



      追記

 「『ウワナベ』全長280メートル」の見出しの中で、「奈良県立橿原考古学研究所と奈良市教委は20日、同市法華寺町の大型前方後円墳『ウワナベ古墳(5世紀前半)の発掘調査で、規模が従来の想定より一回り大きく、全長が270~280メートルと推定されると発表した。同古墳を含む市北部の『佐紀古墳群』では五社神古墳(全長267メートル)を上回り、最大規模となる。」、「発表によると、後円部の周濠の北東と東で葺石の先に墳丘の裾を示す基底石が並んでいるのが見つかり、従来の裾より半径が約10メートル広がることが判明。ウワナベ古墳はこれまで、測量図から全長255メートルと全国13番目の規模とされてきたが、12番目になることがわかった。」と記されています。(毎日新聞(2020年11月21日(土)の記事より)。  


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2018年01月30日

12 五社神古墳 奈良県奈良市 275(約267)m

 宮内庁は、神功皇后の陵としています。皇后の称号が明文化されたのは大宝律令の制定以降とのことなので、01で述べた「天皇」の原則から考えれば、神功「皇后」とすべきです。ただ、このブログは「○○帝国大学教授」や「××県埋文センター主任調査員」のような専門家でない豊橋のおっさんのブログなので、「厳密さ」より「面倒くささ」を優先して今後「天皇」や「皇后」の「 」はやめにします。さらに言い訳をすれば、「仁徳」や「神功」といった称号は、その人物の死後奈良時代に命名された諡(おくりな)ということなので、原則にしたがったら「神功」「皇后」となり訳が分からなくなってしまうからです。

 制札。
            2008年10月撮影。

 全景。右が前方部。左奥が後円部。西から。
            2014年5月撮影。

 前方部端。東から。
            2015年12月撮影。  続きを読む


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2018年01月30日

11 箸墓(箸中山)古墳 奈良県桜井市 280m

 これは、「どメジャー」な古墳です。多くの研究者は、この古墳の築造をもって古墳時代が始まると考えメルクマールとなる古墳です。ただし、この古墳より古いと考えられる「古墳」は古墳時代の古墳ではなくなり、そのため「墳丘墓」と呼びましょうという人もいます。しかし、箸墓古墳の近くにある纏向石塚や勝山などは、りっぱな「古墳」なので古墳時代をもう少し早くしましょうと考える人もいて訳がわからなくなってしまいます。豊橋のおっさんは、時代の定義はきちんと定めながらも、ちょうど時代の変わり目の時は「両性具有」もありだと思っています。「旧石器時代の磨製石器や土器」・「縄文時代の水田」などのように。排除の論理は、どこそこの都知事で十分です。そもそも、今まで土器の違いで時代区分していたものを、古墳というお墓で区分しようとすることに誤差が生じるのはしかたないだらー ということです。                 さてさて、この古墳の被葬者ですが、岸本直文さんは、「卑弥呼は二四七年頃に没し、初代の倭国王墓、巨大な前方後円墳である箸墓古墳に葬られた。」(『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』P.2)と言い切っています。はっきり物を言わない研究者が多い中で「どすごい」発言です。ただし、箸墓古墳の被葬者が卑弥呼である決定的な証拠はまだなく、特殊器台の出土や同じタイプの土器のおこげがC14年代測定で3世紀中頃と結果が出た状況証拠はあるようですが。発掘調査をして、はっきりさせりん ということです。宮内庁は「やまとととひももそひめ」と舌をかみそうな人物の墓と治定しています。


 制札。
 
           
 前方部左隅から後円部を見る
            以上2008年9月撮影。

 全景。右が前方部、左が後円部。北から。
            2013年11月撮影。

 これも全景。右が後円部、左が前方部。南から。
            2015年10月撮影。  続きを読む


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2018年01月30日

09 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市 290→300m

 宮内庁の立札の撮影を忘れていました。これで勘弁してください。
 堺市・堺市教委の説明板。
            2008年10月撮影。

 全景。右が前方部端、左奥が後円部。北西から。 
 1月26日のブログで紹介した久世さんは、その著書で「最も美しい前方後円墳」と述べています。P.116~117にこの絵と同じ写真が掲載されています。


 2012年に宮内庁と堺市が同時調査をしています。宮内庁が管理する墳丘1段目の端を護岸工事の名目で、堺市は周濠の中(宮内庁管理外)を。合同調査でなかったのは残念ですが、関係者の努力には敬意を表します。ただ、ひとつの古墳の発掘調査を二つの行政機関が実施したことに対して、橋本前大阪府知事から「役所の縄張り主義、縦割り行政の弊害」といわれそうですが、、、。宮内庁の調査箇所は学会代表者に公開され、堺市の調査箇所は一般公開(いわゆる現説、正しくは現地説明会)されたそうです。豊橋のおっさんも行きたかったのですが、都合が悪く、、、残念。
 


   追記(2022年9月30日)

 文化庁編『発掘された日本列島 2020 新発見考古速報』の「二サンザイ古墳」の項目で、内本勝彦さんは、「調査の結果、①墳長は300.3メートル②築造時期は5世紀中葉③墳丘第1斜面の葺石は葺かれていないか、葺かれていても極めてまばらで、古墳造りの省力化が始まっていたこと④内濠内から埴輪のほか、蓋の立ち飾り・翳形木製品・笠形木製品・槽・鋤など多くの木製品が見つかり、墳丘や堤の上には埴輪とともに木製立物が立て並べられ、木製品を使った祭祀が行われていたことーなどが明らかになりました。 中でも特筆すべきは、内濠で7列の柱穴が見つかり、内濠に木橋が架けられていたことが判明したことです。(後略)」(pp.11~12)と記しています。  


Posted by じこま at 13:37Comments(0)

2018年01月29日

08 仲津山古墳 大阪府藤井寺市 290(300)m

 宮内庁の立札
            2008年11月撮影。

 前方部前面の拝所
            2013年12月撮影。

 鍋塚古墳からみる後円部端全景。
            2014年1月撮影。


    追記

 2019年10月31日のブログに、「追加08 仲津山古墳」として新しい絵を掲載しています。  


Posted by じこま at 14:25Comments(0)

2018年01月29日

07 渋谷向山古墳 奈良県天理市 300m

 天理市教委の説明板。
 

 全景。右が後円部、左が前方部。南側の珠城山古墳群付近から撮影。山から平野にむかう扇状地に位置していることを強調した一枚。
            以上2013年11月撮影。

 制札。
            2008年10月撮影。

 現在宮内庁は、景行「天皇」の陵として治定しています。幕末のある時期には、この古墳の北隣りにある行燈山古墳が景行「天皇」陵とされていたそうです。ああややこしや。  


Posted by じこま at 14:10Comments(0)

2018年01月29日

06 五條野丸山古墳 奈良県橿原市 320(318・約310)m

 後円部墳頂付近のみ陵墓参考地になっています。この古墳は当初円墳と考えられていたためです。

 制札。
            2008年10月撮影。 
 
 後円部墳頂付近です。
 
 
 陵墓参考地を除く墳丘全体は、国指定史跡となっています。
 
 前方部右隅から後円部
            以上2014年6月撮影。 

 全景。右が前方部、左が後円部。
            2015年10月撮影。  


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2018年01月29日

05 河内大塚山古墳 大阪府松原市 335m

 宮内庁が「大塚陵墓参考地」としている古墳です。陵墓参考地とは、天皇や皇后などの皇族の墓と考えられるが、誰が葬られているかさすがの宮内庁も特定できない所です。ちなみに、宮内庁の定義によると「陵墓」とは「陵」が天皇や皇后、天皇の母ちゃん、祖母ちゃんを葬った所、「墓」はその他の皇族を葬った所だそうです。従って、豊橋のおっさんのご先祖様の墓は、宮内庁の定義では「墓」ではないという事になります。あららら。 
 また、宮内庁は奈良県広陵町にある新山古墳も「大塚陵墓参考地」と命名しており、レレレのレとなってしまいました。                        
  
 古墳周辺は、住宅地が立て込んでおり全体を撮影できる場所が見つけられませんでした。そのため、しょぼい絵です。いつかリベンジを。手前が前方部の左隅、奥が後円部の一部です。            

 前方部の端です。研究者によると、築造途中で何故かストップされた未完の古墳だそうです。そのためか?、大正時代まで墳丘内に家家があり村が形成されていました。


  追記

 上の絵は2008年10月撮影。下の2枚は2013年12月撮影。
 2019年10月29日のブログに、「追加05 河内大塚山古墳」として新しい絵を掲載しています。  


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2018年01月28日

04 造山古墳 岡山県岡山市 360m

 日本で最大の古墳です。トランプ大統領でなくてもフェイクニュースと言われそうですが。これは、ファクトです。ただし、条件付きですが。これまでに紹介した古墳は、宮内庁が「陵墓」に指定して立ち入りは禁止されています。しかし、この古墳は豊橋のおっさんでも、新城のお母さんでも、豊川のお姉さんでも、田原のお坊ちゃまでも墳丘に立ち入ることができます。その点で日本最大なのです。下の絵は、後円部から前方部を見下ろしたものです。
 説明板にも「自由に立ち入りできる古墳としては全国一の規模」との記述あり。
 石棺も放置状態。おさわりもできちゃいます。
 全景。右が前方部、左が後円部。
            上3枚は2014年3月撮影。下は2017年1月撮影。


    追記

 2019年10月23日のブログに、「追加04 造山古墳」として新しい絵を掲載しています。その際に、墳長を360mから350mに訂正しています。


    追記の追記

 2021年3月25日のブログに、「追加の追加04 造山古墳」として新しい絵を掲載しています。  


Posted by じこま at 08:15Comments(0)