2019年06月30日

追加172 玉山古墳 福島県いわき市 114m以上

 この玉山古墳は、ランキング172位として2018年3月12日のブログで紹介しています。
 古墳は、常磐自動車道「いわき四倉」IC.の約1km南の金光寺の裏山に位置しています。木柱と説明板は、県道41号線に面した金光寺境内に設置されています。もう一つの説明板は、いわき市立大野第一小学校に通じる道を西に向かい山道の南側、古墳のある林の中に立てられています。古墳の南側は墓地となっており、墳丘の裾部分は削られていますが、大きな墳丘は残されています。ただし、古墳探訪オフシーズンの6月だったので、草木が繁茂して墳形ははっきりしませんでした。福島県の史跡に指定されています。
 説明板では、「全長は約112メートル」、「墳丘の全長は一〇八~一一八m」と記されていますが、いわき市教育委員会・財団法人いわき市教育文化事業団の『玉山古墳 平成18年度 範囲確認調査 現地説明会資料』(平成18年7月15日)では、「最大の成果は、玉山古墳の大きさが長さ114m以上であることが確実なものとなったことです。東北地方の古墳の中で、雷神山古墳(宮城県名取市)、亀ヶ森古墳(福島県会津坂下町)に次いで3番目の大きさであることが確定したことになります。さらに、後円部の直径や前方部の幅が北側に大きく広がることもわかりました。(中略) 古墳の墳丘に葺石が確かめられたことも成果の一つです。拳大から人頭大までの大小様々な河原石が利用されています。これらの石は、仁井田川や周辺の台地から運ばれたものと考えられます。(中略)また、後円部のテラスからみつかった小穴は、古墳の周りに木柱を立て鳥形や傘形の木製品が取り付けられたあとだと考えられます。古墳に死者を葬る時に行われた祭りに使われたものと推定されています。このことが確かめられれば、東北地方では初めての発見となる貴重な例となります。古墳の造られた年代は、出土した土器(土師器・はじき)の特徴から4世紀後半と考えられます。」と述べられています。

 木柱。説明板2つ、前者はいわき市教委。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 後円部墳頂。


 前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


 前方部端全景。西から。


 3つで全景(横から)。後円部。くびれ部。前方部。南から。


 やや全景(横から)。北西から。


 遠景。南から。
            以上2019年6月撮影。  


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2019年06月29日

塚前古墳のおまけの「甲塚古墳」 福島県いわき市 円墳 径37m

 石碑と標柱。いわき市教委の説明板。


 墳頂。


 全景。西から。


 全景。南から。
            以上2019年6月撮影。  


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2019年06月29日

補遺[166~356] 塚前古墳 福島県いわき市 推定95~120m

 「福島大学 行政政策学類」のHP.の「いわき市塚前古墳古墳の測量調査の大きな成果ー考古学研究室ー」(2017年05月30日)の項目で、「いわき市小名浜林城字塚前の塚前古墳は、2016年秋にいわき市教育委員会が行た(ママ)発掘調査によって6世紀中ごろの築造であることが判明していましたが、この調査が古墳周囲のごく一部分にとどまり、その正確な規模や墳形については、よくわかっていませんでした。 考古学研究室の新たな調査の結果、この古墳は前方後円墳で、全長が95~120メートル、後円部直径53メートル、前方部長54~70メートル、前方部幅45~65メートルと推定されることが分かりました。」と記されています。青木敬さんも、「最近も、福島県いわき市塚前古墳(前方後円墳、推定墳丘長九五~一二〇メートル)で土嚢・土塊積み技術が確認され、六世紀の東北地方最大の前方後円墳にも採用されていたことが判明した(略)。」(『土木技術の古代史』 p.83)と述べています。
 従来、東北地方で100m超級の古墳として、雷神山古墳(ランキング58位)・亀ケ森古墳(ランキング129位)・会津大塚山古墳(ランキング185位)・玉山古墳(ランキング172位)・遠見塚古墳(ランキング216位)の5基が知られていましたが、最近ではこの塚前古墳や山形県南陽市の(仮称)南森古墳(ランキング[62]位)が100m超級であるという指摘がなされています。
 新聞報道で、この古墳の存在を知った時から、いつか現地へという思いが募っていました。ただし、実際に訪問してみると道路で後円部の前方部側は削られ、南側は病院の駐車場の工事中で、いびつな楕円形の後円部が残っているのみでした。それでも完全に削平されて跡形もないケースがあることを考えれば、地権者に感謝しなければならないでしょう。前方部の跡地は住宅地になっていますが、周辺よりわずかに高くなっており、墳形をイメージすることができました。
 古墳は、国道6号線常磐バイパスの「林城」交差点の約200m北東に位置しています。約7km北東に国の史跡に指定されている甲塚古墳があります。

 後円部残存部中央。右側。左側。

 前方部右側跡。左側跡。


 後円部残存部墳頂。墳頂の祠。

 後円部残存部端全景。


 前方部左隅跡から後円部残存部。


 全景(横から)。右が前方部跡、左が後円部残存部。
            以上2019年6月撮影。  


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2019年06月28日

一応ランキングはこれで終了します 

 全長60m以上の大型古墳を集成し、ついでに57m以上の古墳も掲載するという目標をほぼ達成することができたので、56m未満の古墳については、気力・体力・金力・パソコン力の限界を感じランキングとしての掲載は終了します。ただし、未訪問古墳や絵がイマイチで再訪した古墳については、「追加・補遺」として掲載を続けたいと思っています。今まで御覧頂き、コメントをくださった皆さんありがとうございました。 
 ついでに、古墳探訪のお供として、掲載した絵の99パーセント以上を撮影したガラケーありがとう。

                          
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2019年06月28日

[1312-2-2] 堂ノ森古墳のおまけの「本屋敷1号墳」 福島県浪江町 前方後方墳 37m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「本屋敷1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:36.5m 後円(ママ)部:径(ママ)東辺17.6×北辺21m 高3.3m 前方部:幅現存8.5m 長14m 高1.27m 特記事項【周濠】あり(不整形、全周せず)。」と記されています。また、東北学院大学の辻秀人さんらの『福島県双葉郡浪江町 狐塚古墳測量調査報告』では、「狐塚古墳の所在する丘陵上には多くの古墳・集落遺跡が知られており、狐塚古墳の西約2kmに本屋敷古墳群がある。本屋敷古墳群は伊藤玄三氏を中心とする法政大学考古学研究室により3年間にわたって発掘調査され(伊藤玄三他 1985)、前方後方墳と方墳で構成される古墳時代前期の古墳群と中期の円墳の様相が明らかにされた。古墳群の主墳、本屋敷1号墳は現在のところ東北地方最古段階の古墳の一つと考えられている。」(p.4)と述べられています。
 オフシーズンの6月に訪問したため、薮で前方後方の墳形を確認することは全くできませんでした。ただし、後方部墳頂付近は薮が少なく、墳丘の高まりを感じることができました。

 後方部右側。左側。
                                           「薮ばっかじゃん」。 
 前方部右側。左側。


 後方部墳頂。


 遠景。
            以上2019年6月撮影。  


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2019年06月27日

[1312-2-1] 堂ノ森古墳のおまけの「狐塚古墳」 福島県浪江町 46m

 東北学院大学の辻秀人さんらによる『福島県双葉郡浪江町 狐塚古墳測量調査報告』によると、「測量調査の結果、狐塚古墳は丘陵頂部の地形を利用して築かれた東北地方においては比較的大型の前方後円墳であることが判明した。古墳は前方部を東に東西方向を主軸として築造されている。全長約46 m、後円部直径26.5m、後円部比高約4m、前方部長さ26 m前後、前方部前端15 m前後、前方部比高1.25m を測る。全体の形状は後円部に比較して前方部の幅がせまく、細長い点に特徴がある。浪江町内では同じ丘陵の東側にある堂の森古墳(福島県立博物館 1987)に次ぐ規模である。 古墳の北側にはかつて畑が造成されていたため、墳丘北側は後円部北東部からくびれ部、前方部にかけて一部削られており、前方部では削られた土が古墳墳丘に盛られているために本来の姿を保っていない。また、後円部墳丘平坦面の南側には大きなくぼみがあり、掘削された痕跡と見られた。その他の部分はほぼ損傷はなく、保存良好である。」(p.11)と述べられています。また、上記報告書では、鹿屋敷遺跡についても、「狐塚古墳の西側から北西にかけて、段丘上の平坦面に鹿屋敷遺跡が広がる。遺跡の中心部が1986年に発掘調査が実施され、古墳時代から奈良・平安時代に及ぶ多数の竪穴住居跡等が検出された(浪江町教育委員会 1988)。また、町道に関わる調査の発掘区では、古墳時代の住居跡や古式土師器などが出土した(浪江町教育委員会 1997)。その他に早期末葉、弥生時代中期の資料が認められる。鹿屋敷遺跡は、この地域の中心的な大規模集落であり、古墳時代にも多くの竪穴住居が分布している。狐塚古墳、安養院古墳群、堂の森古墳はこの集落を営んだ勢力によって築造された可能性が高い。」(p.4)と述べられています。

 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 後円部墳頂。

 後円部端全景。


 前方部から後円部。前方部右隅から後円部。



  おまけのおまけ 鹿屋敷遺跡の発掘調査

 説明板。


 調査地。
            以上2019年6月撮影。  


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2019年06月27日

[1312-2] 堂ノ森古墳 福島県浪江町 51・(57)m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「堂の森古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:57.1m 後円部:径36.4m 高5m 前方部:幅14.2m 長20.7m 高2m 特記事項【周濠】あり(墳丘外縁に周濠状の落ち込み)。」と記されています。ただし、東北学院大学の辻秀人さんらの『福島県双葉郡浪江町 狐塚古墳測量調査報告』では、「堂の森古墳は狐塚古墳の西約600m、北幾世橋字堂の森に位置する。狐塚古墳と同じ段丘上にある。全長は51.1 m、後円部墳丘直径36.4 m、前方部長さ20.7 mを測る大型前方後円墳である(福島県立博物館 1987)。未調査であるため、築造時期等詳細は不明である。後円部に比較して前方部が小さい特徴があり、中期の古墳である可能性が高いと考えられる。」(p.4)と述べられています。全長(墳長)が「57.1」mか「51.1」mかで、ランキングに入れるか否か迷うところですが、「でかい」と感じたので掲載しました。「非科学的だらー」。
 古墳は諸戸川河口付近の北側の丘陵地に位置しています。浪江浄化センターの敷地内に古墳の標柱が立てられています。ただ、この東側には大きな崖がありここから上っていくことは断念しました。浄化センターの南の道を東に進み、「棚塩霊園入口」の標識のある道を北に上がると、すぐに西側にむかう階段があります。階段を上がって、林の中を浄化センターのある西方向にひたすら進むと大きな墳丘が見えてきます。訪問時、下草が生えて墳形はややわかりにくかったですが、その大きさは十分に感じることができました。
 約600m東に狐塚古墳、約1km西に本屋敷古墳があります。
 余談ですが、常磐自動車道の「浪江」IC.付近の国道114号線以西には、「帰還困難区域」が未だに設定され、自動車道への二輪車の乗り入れは禁止されていました。また、常磐自動車道の脇には、放射線量を示す表示板(モニタリングポスト)が設置されており、大熊町内のモニタリングポストでは2マイクロシーベルト/時以上の数値を示していました。東日本大震災の復興のニュースは時々目にしますが、原発事故については8年以上経っても復興以前の状況であることを実感した次第です。

 標柱。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 後円部墳頂。


 前方部から後円部、西から。前方部左隅から後円部。


 遠景。
            以上2019年6月撮影。  


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2019年06月26日

[1312-1-1] 夕向原1号墳のおまけの「2号墳・古峯神社古墳」 宮城県村田町及び蔵王町

  ① 夕向原2号墳 円墳 径24m

 全景。2つ。
 



  ② 古峯神社古墳 前方後円墳 39m

 後円部右側。左側。

 前方部右側。左側。


 後円部墳頂。


 前方部から後円部。北東から。
            以上2017年4月撮影。  


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2019年06月26日

[1312ー1] 夕向原(ゆうごっぱら)1号墳 宮城県村田町及び蔵王町 56(57)m

 奈良女子大学の前方後円墳データベースの「夕向原1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:56m 後円部:径38m 高5.5m 前方部:幅23m 長20m 高2.5m 特記事項【周濠】あり(後方部(ママ)後端と前方部前端に)。【その他】1996年発見。」と記されています。ただし、蔵王町の歴史と文化財 公式ホームページ「どきたんドットコム」の「夕向原古墳群 円田・村田盆地境に築かれた前方後円墳」の項目では、「夕向原古墳群は、蔵王町と村田町にまたがる標高約159mの愛宕山丘陵の尾根上に築かれた2基の古墳です。1996年に古川一明・青山博樹氏によって発見され、その後1997年にかけて東北大学の藤沢敦氏らによる測量調査が行なわれました。この結果、本古墳群は全長57m、高さ7.5mの前方後円墳(1号墳)と、直径24m程度、高さ2.5mの円墳(2号墳)からなる古墳群であることが判明しました。 本古墳群ではこれまでに発掘調査は行なわれておらず、遺物も採集されていないため詳細は不明ですが、立地や墳丘の形状などから古墳時代前期末から中期初頭頃(4世紀末~5世紀初頭、約1600年前)の築造と考えられています。」と記されています。 
 古墳は、東北自動車道「村田」IC.の約2km南南西にある村田町と蔵王町の境界付近の山中に位置しています。古墳へは、「蔵王町平沢立目場85」付近から道路の北側にある山道に入りました。山道は地域の人々によって整備されており、道中には古峯神社古墳があり、山頂付近(だったと思う)に夕向原1号墳がありました。この古墳は、実際の墳丘データより高さや全長は小さく感じました。
 約1km東に、方領権現古墳(ランキング960位)があります。

 後円部右側。左側。 

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部、南から。前方部左隅から後円部。


 後円部墳頂。


 全景。右手前が前方部、左奥が後円部。
            以上2017年4月撮影。  


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2019年06月25日

[979-2-2] 不動塚古墳(野2号墳)のおまけの「7号墳・8号墳・9号墳」 岐阜県大野町

 大野町のHP.の「史跡野古墳群」の項目で、「野7号墳 帆立貝形前方後円墳/主軸全長約29m、後円部の直径約22.6m、円部の高さ約4.2m 墳丘から円筒埴輪や朝顔型埴輪、石室より須恵器、管玉、鉄鏃などが出土しています。」、「野8号墳 方墳/辺長約15.8m、高さ約3m」、「野9号墳 帆立貝形前方後円墳/主軸全長約30.5m、後円部の直径約23m、円部の高さ約6m 周壕から円筒埴輪片、須恵器片が出土しています。」と記されています。

 
 「野古墳群」の石碑。案内板。



  ① 7号墳 29m

 木柱。


 全景。北から。


 全景。北北東から。



  ② 8号墳 方墳 辺16m

 全景。北から。



  ③ 9号墳 31m

 木柱。


 後円部端全景。北から。


 前方部から後円部。
            以上2016年5月撮影。  


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