2019年09月28日
補遺[1312-3] 東山古墳 大阪府藤井寺市 方墳 辺50→(57)m
ランキングの参考にさせていただいているHP.『古墳探訪』では一辺50mの方墳と記されていたので、ランキング外としてきました。ただし、藤井寺市のHP.の「古市古墳群紹介」の「方墳」の中の「73 東山」の項目で、「一辺(メートル):57 所在地(市):藤井寺:(略)」と記されていましたので、掲載します。
久世仁士さんも、「東西五七メートル、南北五四メートル、高さ七メートルで、北側に存在したアリ山古墳と堀を共有しています。アリ山古墳よりひとまわり大きい方墳です。 埋葬施設は不明ですが、二〇一四年に範囲確認調査が行われ、周堀と埴輪列が確認されています。円筒埴輪や朝顔形埴輪をはじめ、衣蓋、草摺、家形の形象埴輪も出土しました。墳丘は二段築成です。築造されたのは五世紀前半で、アリ山古墳と同じく誉田山古墳(おっさん註 誉田御廟山古墳のこと)の陪塚と考えられます。」(『世界遺産 百舌鳥・古市古墳群をあるく』 p.78)と述べています。
この古墳は、誉田御廟山古墳(ランキング2位)の二重周濠の西側外堤に接するように築造されています。国道170号線の「野中東」交差点の約50m北東にあり、古墳の北側に「田辺脳神経外科病院」があります。訪問時、墳丘の一部にブルーシートが被せられ発掘調査中でしたが、上記の久世さんの文章によると範囲確認調査だったようです。この調査で墳丘規模が確定したものと思われます。
2014年に「古市古墳群」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に追加指定されています。また、2019年7月に世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産のひとつとなっています。
墳頂2つ。

墳丘の発掘調査。

全景。北西から。
全景。西から。
以上2014年6月撮影。
久世仁士さんも、「東西五七メートル、南北五四メートル、高さ七メートルで、北側に存在したアリ山古墳と堀を共有しています。アリ山古墳よりひとまわり大きい方墳です。 埋葬施設は不明ですが、二〇一四年に範囲確認調査が行われ、周堀と埴輪列が確認されています。円筒埴輪や朝顔形埴輪をはじめ、衣蓋、草摺、家形の形象埴輪も出土しました。墳丘は二段築成です。築造されたのは五世紀前半で、アリ山古墳と同じく誉田山古墳(おっさん註 誉田御廟山古墳のこと)の陪塚と考えられます。」(『世界遺産 百舌鳥・古市古墳群をあるく』 p.78)と述べています。
この古墳は、誉田御廟山古墳(ランキング2位)の二重周濠の西側外堤に接するように築造されています。国道170号線の「野中東」交差点の約50m北東にあり、古墳の北側に「田辺脳神経外科病院」があります。訪問時、墳丘の一部にブルーシートが被せられ発掘調査中でしたが、上記の久世さんの文章によると範囲確認調査だったようです。この調査で墳丘規模が確定したものと思われます。
2014年に「古市古墳群」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に追加指定されています。また、2019年7月に世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産のひとつとなっています。
墳頂2つ。
墳丘の発掘調査。
全景。北西から。
全景。西から。
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2019年09月26日
補遺[824-15-1] 八高古墳のおまけの「八高2号墳(剣ケ森古墳)」 愛知県名古屋市 円墳 径30m
前項の八高古墳(ランキング[824-15]位)でも紹介しましたが、服部哲也さんは、「また本墳(おっさん註 八高古墳のこと)の北150mには直径30mの円墳の八高2号墳が、(中略)位置している。」(「121 八高古墳」 p.391 『愛知県史 資料編3 考古3 古墳』所収)と述べています。この古墳の築造時期が不明なので、確定的ではありませんが、八高古墳の陪冢的存在かもしれません。
余談ですが、実行委の説明板にある「第八高学校在之地」石碑や「八高青春像」の絵はありません。関係者の皆さん申し訳ありません。また、前項の名古屋市教委の説明板では、「北八十メートル程の所にもう一基円墳が残っている。」と記されており、「80m≒150m」ということでしょうか。「細かな事は多少の誤差でいいだらー」。
八高八十年祭実行委の説明板。
全景。南から。
全景。南東から。
全景。東から。
以上2014年4月撮影。
余談ですが、実行委の説明板にある「第八高学校在之地」石碑や「八高青春像」の絵はありません。関係者の皆さん申し訳ありません。また、前項の名古屋市教委の説明板では、「北八十メートル程の所にもう一基円墳が残っている。」と記されており、「80m≒150m」ということでしょうか。「細かな事は多少の誤差でいいだらー」。
八高八十年祭実行委の説明板。
全景。南から。
全景。南東から。
全景。東から。
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2019年09月24日
補遺[824-15] 八高古墳 愛知県名古屋市 70m
この八高古墳は、ランキングの参考にさせていただいている『古墳探訪』の個別の項目では掲載されていましたが、100基単位の規模順位に欠落していましたので、このブログでの掲載を失念していました。「言い訳はやめりん」。
古墳は、名古屋市立大学の滝子キャンパス東門入口付近に現存しています。ただし、下記のように前方部の一部が削られています。
服部哲也さんは、「古墳は中位段丘である千種・瑞穂台地の西側縁辺に立地する。標高は約12mである。本墳は旧制第八高等学校内(現:市立大学構内)に所在したためこの名がついた。また、本墳の北150mには直径30mの円墳の八高2号墳が、南400mには全長約90mの前方後円墳の高田古墳が位置している。(中略) 前方部を南西に向ける前方後円墳であるが、現在前方部は大きく削りとられ、後円部もかなり墳丘が崩れている。現存長は約50m、高さ約6mであるが、本来は全長約70mの規模が推定される。」(「121 八高古墳」 p.391 『愛知県史 資料編3 考古3 古墳』所収)と述べています。また、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「八高古墳」の項目でも、「墳丘 形状:前方後円 墳長:70m 後円部:径35m 高9m 前方部:幅28m 高5以上」と記されています。
名古屋市教委の説明板。
大学構内の地図(部分拡大)。
後円部右側。左側。

前方部。
後円部近景。北から。東から。

後円部端全景。南東から。
やや全景。右が後円部、左が前方部。南から。
以上2014年4月撮影。
古墳は、名古屋市立大学の滝子キャンパス東門入口付近に現存しています。ただし、下記のように前方部の一部が削られています。
服部哲也さんは、「古墳は中位段丘である千種・瑞穂台地の西側縁辺に立地する。標高は約12mである。本墳は旧制第八高等学校内(現:市立大学構内)に所在したためこの名がついた。また、本墳の北150mには直径30mの円墳の八高2号墳が、南400mには全長約90mの前方後円墳の高田古墳が位置している。(中略) 前方部を南西に向ける前方後円墳であるが、現在前方部は大きく削りとられ、後円部もかなり墳丘が崩れている。現存長は約50m、高さ約6mであるが、本来は全長約70mの規模が推定される。」(「121 八高古墳」 p.391 『愛知県史 資料編3 考古3 古墳』所収)と述べています。また、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「八高古墳」の項目でも、「墳丘 形状:前方後円 墳長:70m 後円部:径35m 高9m 前方部:幅28m 高5以上」と記されています。
名古屋市教委の説明板。
大学構内の地図(部分拡大)。
後円部右側。左側。
前方部。
後円部近景。北から。東から。
後円部端全景。南東から。
やや全景。右が後円部、左が前方部。南から。
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2019年09月18日
補遺[948-1] 宮後(みやうしろ)南大塚古墳 愛知県江南市 65?(40~50)m
消滅古墳です。現在は、江南市立古知野中学校と名鉄犬山線の間にある住宅地となっています。
赤塚次郎さんは、「宮後南大塚古墳」の項目で、「江南市宮後町王塚に所在した古墳で、明治四十二年古知野東高校建設に伴う土取りにより鏡が出土し、さらに、昭和九年ごろの古知野東高校改築により完全に封土が消失した。なお字名には『南大塚』と『北大塚』という小字が残る。宮後南大塚古墳は前方後円墳との推測があり、後円部の径が二〇メートル高さ三メートルという記録もある。後円径が二〇メートル級とすれば墳長は四〇から五〇メートル前後を想定できるかもしれない。」(『江南市史 本文編』 p.51)と述べています。
一方で、伊藤秋男さんは地籍図の分析を通じて「南に後円部を置く全長六五メートルの前方後円墳だったと思われる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』 p.105)と述べています。ここでは、一応65mの前方後円墳としてランキングしていきます。
また、『江南市史 資料四 文化編』には、「大塚遺跡(おっさん註 古墳のことだと思われる)の地積所有の古田勝義氏の話によれば、塚にはもと松・杉・あべまき(ほうす)が生えていて中央の松のあたりから火の玉が出たことがあり、南の方の杉の根元より鏡が出土した。後、供養のためその場所へ地蔵石像を建てたが、土地改良後、北東へ移した。現在も子どもの夜泣きや万病には霊験があるというので信仰を集めているとのことである。」(pp.69~70)との記述がありました。訪問時、御利益を求めて地蔵さんを探しましたが、見つけることができませんでした。当分の間、医療費の削減は難しそうです。
跡地付近。東から。
宮後町王塚193付近。
跡地付近。東から。
宮後町王塚177付近。
跡地付近。西から。
宮後町王塚195付近。 以上2019年9月撮影。
赤塚次郎さんは、「宮後南大塚古墳」の項目で、「江南市宮後町王塚に所在した古墳で、明治四十二年古知野東高校建設に伴う土取りにより鏡が出土し、さらに、昭和九年ごろの古知野東高校改築により完全に封土が消失した。なお字名には『南大塚』と『北大塚』という小字が残る。宮後南大塚古墳は前方後円墳との推測があり、後円部の径が二〇メートル高さ三メートルという記録もある。後円径が二〇メートル級とすれば墳長は四〇から五〇メートル前後を想定できるかもしれない。」(『江南市史 本文編』 p.51)と述べています。
一方で、伊藤秋男さんは地籍図の分析を通じて「南に後円部を置く全長六五メートルの前方後円墳だったと思われる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』 p.105)と述べています。ここでは、一応65mの前方後円墳としてランキングしていきます。
また、『江南市史 資料四 文化編』には、「大塚遺跡(おっさん註 古墳のことだと思われる)の地積所有の古田勝義氏の話によれば、塚にはもと松・杉・あべまき(ほうす)が生えていて中央の松のあたりから火の玉が出たことがあり、南の方の杉の根元より鏡が出土した。後、供養のためその場所へ地蔵石像を建てたが、土地改良後、北東へ移した。現在も子どもの夜泣きや万病には霊験があるというので信仰を集めているとのことである。」(pp.69~70)との記述がありました。訪問時、御利益を求めて地蔵さんを探しましたが、見つけることができませんでした。当分の間、医療費の削減は難しそうです。
跡地付近。東から。
跡地付近。東から。
跡地付近。西から。
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2019年09月17日
補遺[356-3] 前野大塚古墳 愛知県江南市 復元95m
消滅古墳です。現在は、工場が建設されその敷地となっています。伊藤秋男さんは、地籍図の分析を通じて、「字大塚とそれにつながる字寺野西の一部の地籍は、他の字のそれとは顕著に不整合な形状を示している。恐らくかつて存在した大型前方後円墳の形状の影響を受けたものと思われる。(中略)北に後円部を置く全長九五メートルほどの前方後円墳を復元できる。遺跡台帳では『円墳』としているが、再考が必要。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』 p.105)と述べています。
また、『江南市史 資料四 文化編』では、「大塚遺跡は前野豊和産業の南隣、旧柳街通の西側にある。一帯の畑地で高めの地である。この地積は明治期の地籍図によれば、六角不整形の畑地で、戦前までは青年団の試作地になっていて、中央に自然石が立っていた。昭和三十七年土地改良の結果、南側に道路が付き、自然石は道路添い(ママ)へ移され合わせて記念の小碑が建てられた。 なお、幕末のころであろうか、大塚開墾のとき須恵器が大量に出土したが、村民は後難を恐れ天満社々殿北側へ埋めたという説がある。 碑文(表)大塚遺跡 (裏)昭和三十七年四月建之」(p.76)と述べられています。
小碑。
前野町東69-1。
跡地付近。
跡地付近。
前野町東1付近。 以上2019年9月撮影。
また、『江南市史 資料四 文化編』では、「大塚遺跡は前野豊和産業の南隣、旧柳街通の西側にある。一帯の畑地で高めの地である。この地積は明治期の地籍図によれば、六角不整形の畑地で、戦前までは青年団の試作地になっていて、中央に自然石が立っていた。昭和三十七年土地改良の結果、南側に道路が付き、自然石は道路添い(ママ)へ移され合わせて記念の小碑が建てられた。 なお、幕末のころであろうか、大塚開墾のとき須恵器が大量に出土したが、村民は後難を恐れ天満社々殿北側へ埋めたという説がある。 碑文(表)大塚遺跡 (裏)昭和三十七年四月建之」(p.76)と述べられています。
小碑。
跡地付近。
跡地付近。
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2019年09月16日
補遺 「南時之島古墳」 愛知県一宮市
前項の時之島南墓地古墳(ランキング[1227-16]位)と同様に、伊藤秋男さんが指摘している消滅「古墳」です。ただ、古墳であることを否定するような記述もあり、「古墳」としてランキングの順位や墳長は示してありません。
伊藤秋男さんは、「一九六六年の夏頃まで西大海道の集落の北側に接して東西に長い、一見前方後円墳のような形をした山が実在した。高さは、数メートル以上はあったと思われる。その後、この山は取り除かれ、県営『南時之島住宅』が建てられた。(中略)墳丘が取り除かれる直前に一宮市教育委員会が調査を試みたが、遺物は何ひとつとして発見されなかったという伝承がある。しかし、地籍図を参照するかぎり、ここに全長六〇メートル前後の前方後円墳が実在したものと思われる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』 p.53)と述べています。ただし、同書の別の個所で、「一宮時之島(略)の県営住宅地内に昭和四一年頃まで実在した前方後円形の山も送流砂堆(おっさん註 自然の営力に由来する砂の堆積)の一つだった可能性が高い。」(p.190)とも述べており、矛盾する記述が見られます。現在「跡地」は、住宅地となっており古墳の痕跡は全く見られません。おっさん的には、古墳であるという見解を肯定する材料がありません。
約400m北に時之島南墓地古墳があります。
「跡地」付近。その拡大部分。南東から。
時之島八竜6-34付近。
「跡地付近。」南西から。
時之島八竜6-42付近。
「跡地付近。」東から。
時之島八竜6-33付近。 以上2019年9月撮影。
伊藤秋男さんは、「一九六六年の夏頃まで西大海道の集落の北側に接して東西に長い、一見前方後円墳のような形をした山が実在した。高さは、数メートル以上はあったと思われる。その後、この山は取り除かれ、県営『南時之島住宅』が建てられた。(中略)墳丘が取り除かれる直前に一宮市教育委員会が調査を試みたが、遺物は何ひとつとして発見されなかったという伝承がある。しかし、地籍図を参照するかぎり、ここに全長六〇メートル前後の前方後円墳が実在したものと思われる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』 p.53)と述べています。ただし、同書の別の個所で、「一宮時之島(略)の県営住宅地内に昭和四一年頃まで実在した前方後円形の山も送流砂堆(おっさん註 自然の営力に由来する砂の堆積)の一つだった可能性が高い。」(p.190)とも述べており、矛盾する記述が見られます。現在「跡地」は、住宅地となっており古墳の痕跡は全く見られません。おっさん的には、古墳であるという見解を肯定する材料がありません。
約400m北に時之島南墓地古墳があります。
「跡地」付近。その拡大部分。南東から。
「跡地付近。」南西から。
「跡地付近。」東から。
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2019年09月15日
補遺[1227-16] 時之島南墓地古墳 愛知県一宮市 60m前後
墓地古墳です。後述のように、伊藤秋男さんが古墳の可能性を指摘しています。
伊藤秋男さんは、「この集落(おっさん註 時之島集落)を背にして南を望むと、今日、墓地として利用されている東西に細長い高台が見える。これがもともと古墳であったことはほぼ間違いないと思う。現在の形状は、地籍図(略)の上にもよく残されている。 墓地は東西約七〇メートル、東幅一二メートル、西幅二八メートルの長方形に近いが、西北辺は丸く円弧を描いている。西北隅の所がもっとも高く、水田面から二・五メートル、東辺のところは約一・五メートルとやや低い。おそらく全長六〇メートル前後の前方後円墳が引きならされたものと考えられる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』pp.52~53)と述べています。
現地を訪問した時に典型的な墓地古墳と思いました。墓地の北側は一直線状ですが、南側は西の部分が丸く出っ張っており後円部の様子がうかがえました。東端の墓地入口付近に丸い石製の盤が設置され、「弘化四」という文字が見えたので、遅くても江戸時代後半(1840年代)には墓地として利用されていたと思われます。
墓地内の石製盤。盤上にある銘の拡大部分。
「弘化四丁未八月 丹羽郡 東時之嶋村中」と読める。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。東から。
前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。

全景。右奥が後円部、左手前が前方部。
左端の家が時之島二本松22-1。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。北から。
以上2019年9月撮影。
伊藤秋男さんは、「この集落(おっさん註 時之島集落)を背にして南を望むと、今日、墓地として利用されている東西に細長い高台が見える。これがもともと古墳であったことはほぼ間違いないと思う。現在の形状は、地籍図(略)の上にもよく残されている。 墓地は東西約七〇メートル、東幅一二メートル、西幅二八メートルの長方形に近いが、西北辺は丸く円弧を描いている。西北隅の所がもっとも高く、水田面から二・五メートル、東辺のところは約一・五メートルとやや低い。おそらく全長六〇メートル前後の前方後円墳が引きならされたものと考えられる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』pp.52~53)と述べています。
現地を訪問した時に典型的な墓地古墳と思いました。墓地の北側は一直線状ですが、南側は西の部分が丸く出っ張っており後円部の様子がうかがえました。東端の墓地入口付近に丸い石製の盤が設置され、「弘化四」という文字が見えたので、遅くても江戸時代後半(1840年代)には墓地として利用されていたと思われます。
墓地内の石製盤。盤上にある銘の拡大部分。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。東から。
前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
全景。右奥が後円部、左手前が前方部。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。北から。
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2019年09月14日
補遺 「勝川大塚古墳」 愛知県春日井市
消滅「古墳」です。後述しますが、古墳の可能性を否定する見解もありますので、ここではランキングの順位や墳長は示してありません。
財団法人 愛知県埋蔵文化財センターの『町田遺跡』では、「62A・B両区の遺構検出時や条里制遺構耕作土内より約500点の多量の埴輪片が出土した。調査区では、この埴輪が樹立していたと考えられる古墳や遺構は確認されなかったが、西側に所在が推定されている勝川大塚古墳(前方後円墳)の埴輪の可能性が強いと考えられる。」(p.27)と述べています。大下武さんも、「勝川大塚古墳については、愛知県埋蔵文化財センターが当該地を調査され、その報告では前方後円墳を想定されている。やや問題があるが、古墳の存在した可能性は認めて良いかと思われる。現状では墳形・規模とも不明で、周濠は伴わない可能性が強い。」(「味美二子山古墳の時代(1) -尾張の段丘・丘陵地帯の古墳分布論ー」p.5 『味美二子山古墳の時代 第一分冊』所収)と述べています。そして、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「勝川大塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:80? 特記事項【その他】滅失。」と記されています。
ただし、伊藤秋男さんは、「以上のような理由(おっさん註 ①周溝遺構がない②埴輪片は客土による混入③地籍図上では「前方後円」形をしているが周溝情報が欠ける④地域の古墳は段丘上にあり、立地条件が異なる)により、『勝川大塚古墳』が古墳である確率は、極めて低いと言わざるを得ない。もう少し踏み込んで、ここでは『古墳の存在はあり得ない』と断言しておきたい。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.77)とその存在を強く否定しています。
約200m南にオシメンド森古墳がありました。
「跡地」付近。東から。
勝川町10丁目7-10付近。
「跡地」付近。東から。
右の橋脚は名古屋第二環状自動車道。
「跡地」付近。南西から。
勝川町10丁目7付近。 以上2019年9月撮影。
財団法人 愛知県埋蔵文化財センターの『町田遺跡』では、「62A・B両区の遺構検出時や条里制遺構耕作土内より約500点の多量の埴輪片が出土した。調査区では、この埴輪が樹立していたと考えられる古墳や遺構は確認されなかったが、西側に所在が推定されている勝川大塚古墳(前方後円墳)の埴輪の可能性が強いと考えられる。」(p.27)と述べています。大下武さんも、「勝川大塚古墳については、愛知県埋蔵文化財センターが当該地を調査され、その報告では前方後円墳を想定されている。やや問題があるが、古墳の存在した可能性は認めて良いかと思われる。現状では墳形・規模とも不明で、周濠は伴わない可能性が強い。」(「味美二子山古墳の時代(1) -尾張の段丘・丘陵地帯の古墳分布論ー」p.5 『味美二子山古墳の時代 第一分冊』所収)と述べています。そして、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「勝川大塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:80? 特記事項【その他】滅失。」と記されています。
ただし、伊藤秋男さんは、「以上のような理由(おっさん註 ①周溝遺構がない②埴輪片は客土による混入③地籍図上では「前方後円」形をしているが周溝情報が欠ける④地域の古墳は段丘上にあり、立地条件が異なる)により、『勝川大塚古墳』が古墳である確率は、極めて低いと言わざるを得ない。もう少し踏み込んで、ここでは『古墳の存在はあり得ない』と断言しておきたい。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.77)とその存在を強く否定しています。
約200m南にオシメンド森古墳がありました。
「跡地」付近。東から。
「跡地」付近。東から。
「跡地」付近。南西から。
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2019年09月13日
補遺[1227-15] オシメンド森古墳 愛知県春日井市 60?(60~70)m
消滅古墳です。大下武さんは、「『オシメンドの森』については、明治21年の地形図『名古屋近傍図』(第三師団参謀部)にも「社」の記号とO印があり、位置は合致する。天保村絵図にも『神明森』とあり、先述の市史記載出土品(「須恵質円筒埴輪・須恵器」)などから、古墳であった可能性は高いと見てよいだろう。勝川地区で最も庄内川に近い位置にあるが、村絵図・明治21年の地形図でも自然堤防の高まりを読みとることができる。地籍図の形からは前方部を西に向けた長さ60~70mの前方後円形が伺える。」(「味美二子山古墳の時代(1) -尾張の段丘・丘陵地帯の古墳分布論ー」p.60 『味美二子山古墳の時代 第一分冊』所収)と述べています。また、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「オシメンド森古墳」の項目でも、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60? 特記事項【その他】滅失。」と記されています。
ただし、伊藤秋男さんは、「現在、工場と住宅が立ち並び昔の面影はない。遺物が発見されていても、客土が頻繁に行われた場所のため検討が必要である。地籍図(略)の情報だけからここに古墳を推定することには、大きな危険が伴うように思う。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』 p.78)と否定的な見解を述べています。ここでは、全長60mの前方後円墳としてランキングを示していきます。
約1km西に味鋺長塚古墳があります。跡地はJR中央本線(中央西線)の東側にありますが、西側の長塚公園には遊具が設置されている高まりがありますが、人工的な「築山」のようです。
跡地付近(道路の左が前方部?)。東から。
左端の建物が森山町65。中央の橋脚はJR中央本線(中央西線)。
跡地付近(前方部端?)。北から。
森山町69付近。
跡地に近接している長塚公園。
長塚公園内の古墳と紛らわしい高まり2つ。
以上2019年9月撮影。
ただし、伊藤秋男さんは、「現在、工場と住宅が立ち並び昔の面影はない。遺物が発見されていても、客土が頻繁に行われた場所のため検討が必要である。地籍図(略)の情報だけからここに古墳を推定することには、大きな危険が伴うように思う。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』 p.78)と否定的な見解を述べています。ここでは、全長60mの前方後円墳としてランキングを示していきます。
約1km西に味鋺長塚古墳があります。跡地はJR中央本線(中央西線)の東側にありますが、西側の長塚公園には遊具が設置されている高まりがありますが、人工的な「築山」のようです。
跡地付近(道路の左が前方部?)。東から。
跡地付近(前方部端?)。北から。
跡地に近接している長塚公園。
長塚公園内の古墳と紛らわしい高まり2つ。
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2019年09月11日
補遺[824-14] 味鋺長塚古墳 愛知県名古屋市 推定70m
消滅古墳です。前項の味鋺大塚古墳でも、大下武さんの論文を引用して、味鋺長塚古墳を「墳長70m前後の前方後円墳」と紹介しました。さらに、大下さんは「註11 味鋺古墳群について」の中で、明治時代の地籍図の検討をふまえて、「墳丘長さ70m余の前方部を西に向けた前方後円墳形を想像することが出来る。」と結論づけています。(「味美二子山古墳の時代(1)」p.68 『味美二子山古墳の時代 第一分冊』所収)
ただし、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「味鋺長塚古墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60? 特記事項【その他】滅失。」と記されています。
約250m西に味鋺大塚古墳がありました。
跡地付近。北から。
北区東味鋺3丁目727付近。
跡地付近。南から。
北区東味鋺3丁目738付近。
跡地付近。北東から。
左の集合住宅が3丁目1319。 以上2019年9月撮影。
ただし、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「味鋺長塚古墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:60? 特記事項【その他】滅失。」と記されています。
約250m西に味鋺大塚古墳がありました。
跡地付近。北から。
跡地付近。南から。
跡地付近。北東から。
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