2022年02月28日
番外 白山5号墳 愛知県大口町 円墳 径20m
古墳は、弥生時代の墓地として確認された「白山ふれあいの森」エリアの北側に位置し、墳頂には祠が建立されています。
『大口町史』によると、「第五号墳は、白山神社の奥まった林の中にあって、直径約二十メートル、高さ約二.五メートルほどの円墳である。(中略)古墳の上部は、径七メートルほどの円形に削平されて、金比羅権現の社が建ち南斜面に切石の階段がある。」(p.117)と述べられています。
「仁所野遺跡」として、大口町の史跡に指定されています。
余談ですが、6号墳は直径10mほどの円墳だったようですが、現在は住宅地となって消失しています。7号墳に関する資料は見当たりませんでした。
全景(南から)。
全景(北から)。
全景(東から)。
墳頂。
以上2022年1月撮影。
全景(南から)。
全景(北から)。
以上2013年6月撮影。
『大口町史』によると、「第五号墳は、白山神社の奥まった林の中にあって、直径約二十メートル、高さ約二.五メートルほどの円墳である。(中略)古墳の上部は、径七メートルほどの円形に削平されて、金比羅権現の社が建ち南斜面に切石の階段がある。」(p.117)と述べられています。
「仁所野遺跡」として、大口町の史跡に指定されています。
余談ですが、6号墳は直径10mほどの円墳だったようですが、現在は住宅地となって消失しています。7号墳に関する資料は見当たりませんでした。
全景(南から)。
全景(北から)。
全景(東から)。
墳頂。
全景(南から)。
全景(北から)。
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2022年02月26日
番外 第一号方形周溝墓(旧白山3号墳)・第二号方形周溝墓(旧白山4号墳) 愛知県大口町
前回の方形台状墓と同じく、従来古墳とみなされていましたが、弥生時代後期の方形周溝墓であることが確認されています。
第1号方形周溝墓は、「白山ふれあいの森」の北端、第2号墓はその南西側に位置しています。ただし、台状墓と異なり、あまり高さが感じられないのでうっかり見逃してしまいがちです。おっさんも、最初の訪問時、絵は撮っていませんでした。「ダメじゃん」。
宮腰健司さんは、「74 仁所野遺跡」の項目で、「第1号方形周溝墓は、40~130cmの高まりを呈しており、墳丘の東側で検出された幅約80cm・深さ60cmの溝を基準にすると、一辺約12mの大きさとなる。」、「第2号方形周溝墓は、30~110cmの高まりをもち、東西の一辺が約7m、南北辺はそれよりも長いと想定されるので、長方形を呈すると考えられる。」「第2号方形周溝墓より出土した土器群は、終末期廻間Ⅰ式期のまとまりをもった良好な資料となっている。これらの土器群は、甕が見られず、壺・台付無頸壺・直口壺・高坏・鉢・器台で構成され、底部・体部に穿孔された土器が目立つなど、祭祀に関わる土器群の特徴を備えている。」(『愛知県史 資料編2 考古2 弥生』p.162)と述べています。
「仁所野遺跡」として、大口町の史跡に指定されています。
第1号方形周溝墓。
第2号方形周溝墓。
以上2022年1月撮影。
第1号方形周溝墓は、「白山ふれあいの森」の北端、第2号墓はその南西側に位置しています。ただし、台状墓と異なり、あまり高さが感じられないのでうっかり見逃してしまいがちです。おっさんも、最初の訪問時、絵は撮っていませんでした。「ダメじゃん」。
宮腰健司さんは、「74 仁所野遺跡」の項目で、「第1号方形周溝墓は、40~130cmの高まりを呈しており、墳丘の東側で検出された幅約80cm・深さ60cmの溝を基準にすると、一辺約12mの大きさとなる。」、「第2号方形周溝墓は、30~110cmの高まりをもち、東西の一辺が約7m、南北辺はそれよりも長いと想定されるので、長方形を呈すると考えられる。」「第2号方形周溝墓より出土した土器群は、終末期廻間Ⅰ式期のまとまりをもった良好な資料となっている。これらの土器群は、甕が見られず、壺・台付無頸壺・直口壺・高坏・鉢・器台で構成され、底部・体部に穿孔された土器が目立つなど、祭祀に関わる土器群の特徴を備えている。」(『愛知県史 資料編2 考古2 弥生』p.162)と述べています。
「仁所野遺跡」として、大口町の史跡に指定されています。
第1号方形周溝墓。
第2号方形周溝墓。
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2022年02月24日
番外 第一号方形台状墓(旧白山2号墳) 愛知県大口町 13×12m
従来古墳と考えられていましたが、発掘調査の結果、弥生時代後期の方形台状墓であることが確認されました。現在は、「白山ふれあいの森」の中で保存されています。ただ、ふれあいの森の周囲はフェンスで囲まれており、時間外では立ち入ることができません。再訪時は、祝日のため、フェンスの外側からしか絵を撮ることができませんでした。そのため、昔の絵も載せました。「昔の絵の方がいいじゃん」。
宮腰健司さんは、「74 仁所野遺跡」(『愛知県史 資料編2 考古2 弥生』)の中で、「調査の結果、これまで第3号墳が第1号方形周溝墓(略)、第4号墳が第2号方形周溝墓(略)、第2号墳が方形台状墓(略)とされた。(中略)方形台状墓は、基盤を削り出して、南北約13m・東西約12mの長方形に作られており、東と西ではそれぞれ幅約2m・深さ約60cm・断面U字形の周溝が検出されている。」(p.162)と述べています。
「おおぐちデジタルミュージアム」の「町の文化財」の「仁所野遺跡」の項目で、「仁所野遺跡は、白山神社(下小口一丁目)の境内地であり、境内には7基の古墳があって白山古墳群と称され、昭和35年6月8日大口町指定文化財第1号となった。しかし、野外施設(白山ふれあいの森)の着工に伴い調査が行われ、その結果、弥生時代の墓制である方形周溝墓が発見され、弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡であることが確認された。よって昭和60年に仁所野遺跡として、改めて文化財の指定をされた。」と記されています。
上記のように、「仁所野遺跡」として、大口町の史跡に指定されています。
全景。西から。
2022年1月撮影。
石柱。
全景。
以上2013年6月撮影。
宮腰健司さんは、「74 仁所野遺跡」(『愛知県史 資料編2 考古2 弥生』)の中で、「調査の結果、これまで第3号墳が第1号方形周溝墓(略)、第4号墳が第2号方形周溝墓(略)、第2号墳が方形台状墓(略)とされた。(中略)方形台状墓は、基盤を削り出して、南北約13m・東西約12mの長方形に作られており、東と西ではそれぞれ幅約2m・深さ約60cm・断面U字形の周溝が検出されている。」(p.162)と述べています。
「おおぐちデジタルミュージアム」の「町の文化財」の「仁所野遺跡」の項目で、「仁所野遺跡は、白山神社(下小口一丁目)の境内地であり、境内には7基の古墳があって白山古墳群と称され、昭和35年6月8日大口町指定文化財第1号となった。しかし、野外施設(白山ふれあいの森)の着工に伴い調査が行われ、その結果、弥生時代の墓制である方形周溝墓が発見され、弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡であることが確認された。よって昭和60年に仁所野遺跡として、改めて文化財の指定をされた。」と記されています。
上記のように、「仁所野遺跡」として、大口町の史跡に指定されています。
全景。西から。
石柱。
全景。
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2022年02月22日
番外 白山1号墳 愛知県大口町 前方後方墳 49m
昨年7月に掲載した「前方後方墳シリーズ」で紹介したいと考えていた古墳です。8年ほど前に訪問していましたが、前方後方墳らしい絵がなかったので、保留していました。今年の元旦に、ようやく再訪することができました。ただし、古墳は白山神社の社地となっているので、初詣の方々に迷惑をかけないよう注意して絵を撮りました。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「白山1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:49m 後円部:径25×33m 高4.1m 前方部:幅18m 高1.6m」と記されています。
この古墳は、愛知県内で最古級の古墳とされています。中井正幸さんも、編年1期(おっさん註 古墳時代前期初頭)と図示しています。「図3 東海西部における主要古墳の変遷(1)」(「六 東海 【東海西部】」p.324、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)
また、北側に隣接した「白山ふれあいの森」には弥生時代後期の方形周溝墓・方形台状墓があり、弥生時代から古墳時代にかけての墓制の変遷を確認することができます。
古墳などは、「仁所野遺跡」という名称で、大口町の史跡に指定されています。以前は、「白山古墳群」という名称でしたが、弥生時代の墓地も含まれているということで、名称変更されています。
余談ですが、下記の絵の説明で、「前方部右側から後方部」・「前方部左隅から後方部」という表現がありますが、「側から」は墳丘外の地表面から、「隅から」は墳丘上から撮った絵という意味で使用しています。ただし、おっさん自身も混乱して逆の意味で書いてしまっている箇所もあるかもしれません。
石柱。
後方部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後方部。前方部右側から後方部。前方部左隅から後方部。


前方部端全景。後方部端全景。

全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
以上2022年1月撮影。
後方部端ほぼ全景。
後方部西側側面か。
前方部左隅から後方部。
以上2013年6月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「白山1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:49m 後円部:径25×33m 高4.1m 前方部:幅18m 高1.6m」と記されています。
この古墳は、愛知県内で最古級の古墳とされています。中井正幸さんも、編年1期(おっさん註 古墳時代前期初頭)と図示しています。「図3 東海西部における主要古墳の変遷(1)」(「六 東海 【東海西部】」p.324、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)
また、北側に隣接した「白山ふれあいの森」には弥生時代後期の方形周溝墓・方形台状墓があり、弥生時代から古墳時代にかけての墓制の変遷を確認することができます。
古墳などは、「仁所野遺跡」という名称で、大口町の史跡に指定されています。以前は、「白山古墳群」という名称でしたが、弥生時代の墓地も含まれているということで、名称変更されています。
余談ですが、下記の絵の説明で、「前方部右側から後方部」・「前方部左隅から後方部」という表現がありますが、「側から」は墳丘外の地表面から、「隅から」は墳丘上から撮った絵という意味で使用しています。ただし、おっさん自身も混乱して逆の意味で書いてしまっている箇所もあるかもしれません。
石柱。
後方部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後方部。前方部右側から後方部。前方部左隅から後方部。
前方部端全景。後方部端全景。
全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
後方部端ほぼ全景。
後方部西側側面か。
前方部左隅から後方部。
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2022年02月20日
番外 福島県の古墳⑯ 金山古墳 大玉村 円墳 径30m
福島大学行政政策学類考古学研究室による『庚申壇古墳2 福島県本宮市庚申壇古墳発掘調査報告書』では、「金山古墳は、当古墳(おっさん註 庚申壇古墳のこと)から西に約0.4kmに所在する円墳である。(略)現状では直径約30mであるが、前方後円墳であった可能性も指摘されている。円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪などが採集されており、一部に須恵器の資料が存在する。5世紀後半の築造と考えられる」(p.3)と述べられています。
余談ですが、天王壇古墳と「指呼の間」に位置しているので、当初本宮市の古墳と思い込んでいました。実際には、二子塚古墳と同じ大玉村に所在する古墳でした。昨年12月21日のブログ「番外 福島県の古墳⑦ 二子塚古墳」の次に掲載すべきでした。「覆水盆に返らずだらー」。
余談の余談ですが、福島県内の手持ちの古墳の絵が無くなりましたので、「番外 福島県の古墳」シリーズは終了します。次回は、・・・。
全景。南東から。
全景。北東から。
以上2017年4月撮影。
余談ですが、天王壇古墳と「指呼の間」に位置しているので、当初本宮市の古墳と思い込んでいました。実際には、二子塚古墳と同じ大玉村に所在する古墳でした。昨年12月21日のブログ「番外 福島県の古墳⑦ 二子塚古墳」の次に掲載すべきでした。「覆水盆に返らずだらー」。
余談の余談ですが、福島県内の手持ちの古墳の絵が無くなりましたので、「番外 福島県の古墳」シリーズは終了します。次回は、・・・。
全景。南東から。
全景。北東から。
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2022年02月18日
番外 福島県の古墳⑮ 天王壇古墳 本宮市 円墳 径38m
本宮市教委の説明板によると、墳頂に「牛頭天王」を祀っているので、天王壇古墳と呼ばれているそうです。また、古墳の西側には、「幅5m、長3mの造り出しの方形部」があるそうです。そうすると、庚申壇古墳と同形、ほぼ同規模の造り出し付円墳となります。ただし、「造り出し」の規模がかなり異なりますが・・・。
福島大学行政政策学類考古学研究室による『庚申壇古墳2 福島県本宮市庚申壇古墳発掘調査報告書』では、「天王壇古墳は、庚申壇古墳から西に約0.5kmに所在する直径約38mの造り出し付円墳である(略)。周溝内外から、円筒埴輪・朝顔形埴輪に加え甲冑形、女子、犬形、猪形、鳥形など多くの形象埴輪が出土した(中略)円筒埴輪および出土した須恵器kら5世紀中葉から後半の築造と考えられる」(p.3)と述べられています。
本宮市の史跡に指定されています。また、埴輪などの出土品は、福島県の重要文化財に指定されています。
本宮市教委の説明板。
墳頂。
ほぼ全景。西から。
全景。東から。
以上2017年4月撮影。
福島大学行政政策学類考古学研究室による『庚申壇古墳2 福島県本宮市庚申壇古墳発掘調査報告書』では、「天王壇古墳は、庚申壇古墳から西に約0.5kmに所在する直径約38mの造り出し付円墳である(略)。周溝内外から、円筒埴輪・朝顔形埴輪に加え甲冑形、女子、犬形、猪形、鳥形など多くの形象埴輪が出土した(中略)円筒埴輪および出土した須恵器kら5世紀中葉から後半の築造と考えられる」(p.3)と述べられています。
本宮市の史跡に指定されています。また、埴輪などの出土品は、福島県の重要文化財に指定されています。
本宮市教委の説明板。
墳頂。
ほぼ全景。西から。
全景。東から。
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2022年02月16日
番外 福島県の古墳⑭ 庚申壇古墳 本宮市 円墳 径36m
国道4号線の「南ノ内」交差点を南東方向に曲がり、しばらく行くと案内標識があり、左折し林の方に向かうと、本宮市教育委員会の大きな説明板があります。古墳はその林の中にあります。墳頂には、3基の石塔が建立され、そのうちの1基に「庚申供養塔」と彫られた石塔があります。この石塔が、古墳名の由来になっているのかもしれません。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「庚申壇古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:前方部:1段、後円部:2段 墳長:45以上 後円部:径32m 高4.7m 前方部:長13以上 高2以上 特記事項【その他】前方部は先端部が失われている。」と記されています。
ただし、福島大学行政政策学類考古学研究室による『庚申壇古墳2 福島県本宮市庚申壇古墳発掘調査報告書』では、「以上により、古墳各部の規模は以下のとおりに復元できる。すなわち、墳長35.5m、後円部直径32m、前方部長5.4m、前方部前端幅約17m、くびれ部幅約15m、前方部最大高2.0mである。前方部の長さが後円部直径の1/4に満たないことから、現状で本古墳は造り出し付き円墳の範疇にふくまれることになる。」(p.34)と述べられています。したがって、ここでは、円墳(造り出し付円墳)として書いています。
古墳は、本宮市の史跡に指定されています。
本宮市教委の説明板。
円丘部右側。左側。

造り出し右側。左側。

造り出しから円丘部。
墳頂。円丘部端ほぼ全景。

全景。右が円丘部、左が造り出し。北から。
以上2017年4月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「庚申壇古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:前方部:1段、後円部:2段 墳長:45以上 後円部:径32m 高4.7m 前方部:長13以上 高2以上 特記事項【その他】前方部は先端部が失われている。」と記されています。
ただし、福島大学行政政策学類考古学研究室による『庚申壇古墳2 福島県本宮市庚申壇古墳発掘調査報告書』では、「以上により、古墳各部の規模は以下のとおりに復元できる。すなわち、墳長35.5m、後円部直径32m、前方部長5.4m、前方部前端幅約17m、くびれ部幅約15m、前方部最大高2.0mである。前方部の長さが後円部直径の1/4に満たないことから、現状で本古墳は造り出し付き円墳の範疇にふくまれることになる。」(p.34)と述べられています。したがって、ここでは、円墳(造り出し付円墳)として書いています。
古墳は、本宮市の史跡に指定されています。
本宮市教委の説明板。
円丘部右側。左側。
造り出し右側。左側。
造り出しから円丘部。
墳頂。円丘部端ほぼ全景。
全景。右が円丘部、左が造り出し。北から。
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2022年02月14日
番外 福島県の古墳⑬ 下鳥渡八幡塚古墳 福島市 46m
前回の稲荷塚古墳の約300m北に位置する古墳です。ただし、稲荷塚古墳に比べて、残存状態はあまり良くありません。むしろ、駐車場の敷地内で破壊されずに残されたことに、注目すべきかもしれません。
この古墳も、現状では円墳にしか見えませんが、北東に前方部を有する「帆立貝形前方後円墳」ということです。後円部の墳頂部に、祠と石室の蓋石?と思われる石材が残されていました。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「下鳥渡八幡塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円(帆立貝形) 築成:後円部:2段? 墳長:45.5m 後円部:径36m 高現状4.5m 前方部:幅22.8m 長13.2m 特記事項【周濠】あり(前方後円形)。【周堤】不明。」と記されています。
福島信夫ライオンズクラブの説明板。
墳頂。南から。西から。

前方部跡から後円部。北東から。
ほぼ全景。南西から。
全景。北から。
以上2017年4月撮影。
この古墳も、現状では円墳にしか見えませんが、北東に前方部を有する「帆立貝形前方後円墳」ということです。後円部の墳頂部に、祠と石室の蓋石?と思われる石材が残されていました。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「下鳥渡八幡塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円(帆立貝形) 築成:後円部:2段? 墳長:45.5m 後円部:径36m 高現状4.5m 前方部:幅22.8m 長13.2m 特記事項【周濠】あり(前方後円形)。【周堤】不明。」と記されています。
福島信夫ライオンズクラブの説明板。
墳頂。南から。西から。
前方部跡から後円部。北東から。
ほぼ全景。南西から。
全景。北から。
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2022年02月12日
番外 福島県の古墳⑫ 下鳥渡稲荷塚古墳 福島市 53m
現状では円墳にしか見えません。説明板でも、「北にある八幡塚古墳」と「同じく円墳」と書かれているほどです。ただし、下記のように短い前方部を持つ「帆立貝形前方後円墳」のようです。ただし、前方部(張り出し)が10mならば、「42>10×4」ということで『前方後円墳集成』の定義では、「造出付円墳」となってしまいます。わずか、1mの違いが墳形の名称を変えてしまうとは・・・。
余談ですが、説明板の「證據」という文字は「証拠」の旧字体を使用しており、ライオンズクラブの年齢層、もとい学の深さを感じさせるものでした。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「稲荷塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円(帆立貝形?) 墳長:30m 後円部:高4m」と記されています。
また、『古墳マップ』の「稲荷塚古墳」の項目の紹介文では、「直径42mの円墳に11mの張り出しが付く帆立貝式古墳。 周辺で出土した須恵器などから5世紀後半の築造とみられる。」と記されています。ここでは、全長53mの帆立貝形前方後円墳として書いていきます。
標柱。福島信夫ライオンズクラブの説明板。

墳頂の社。
前方部跡から後円部。東から。
全景。北東から。
全景。西から。
以上2017年4月撮影。
余談ですが、説明板の「證據」という文字は「証拠」の旧字体を使用しており、ライオンズクラブの年齢層、もとい学の深さを感じさせるものでした。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「稲荷塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円(帆立貝形?) 墳長:30m 後円部:高4m」と記されています。
また、『古墳マップ』の「稲荷塚古墳」の項目の紹介文では、「直径42mの円墳に11mの張り出しが付く帆立貝式古墳。 周辺で出土した須恵器などから5世紀後半の築造とみられる。」と記されています。ここでは、全長53mの帆立貝形前方後円墳として書いていきます。
標柱。福島信夫ライオンズクラブの説明板。
墳頂の社。
前方部跡から後円部。東から。
全景。北東から。
全景。西から。
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2022年02月10日
番外 福島県の古墳⑪ 高見町A遺跡(古墳時代の集落跡) 南相馬市
新年から中断していましたが、「番外 福島県の古墳」シリーズを再開します。
古墳ではありませんが、「桜井古墳」(ランキング637位、及び追加637位〈2019年7月1日のブログで紹介〉)と関連する可能性のある集落遺跡ということなので、取り上げました。
約200m東に桜井古墳があります。古墳訪問時に、偶然標柱を発見して絵を撮ったものです。確か、この時はナビ無しの車だったので、地図を頼りに走った記憶があります。逆にナビがあったら直接桜井古墳を目指して、この遺跡を見逃していた可能性大です。
標柱(表)。
標柱(裏)。

近景。
以上2012年6月撮影。
古墳ではありませんが、「桜井古墳」(ランキング637位、及び追加637位〈2019年7月1日のブログで紹介〉)と関連する可能性のある集落遺跡ということなので、取り上げました。
約200m東に桜井古墳があります。古墳訪問時に、偶然標柱を発見して絵を撮ったものです。確か、この時はナビ無しの車だったので、地図を頼りに走った記憶があります。逆にナビがあったら直接桜井古墳を目指して、この遺跡を見逃していた可能性大です。
標柱(表)。
標柱(裏)。
近景。
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