2020年06月16日

開店していますが、休業のお知らせ。

 消滅古墳も含めて、全長60m以上の大型古墳の全国制覇をめざしてブログを始めました。
 しかし、群馬県の小角田前1・2号墳、藤阿久大塚古墳など多数、茨城県の黄金塚古墳・三ツ塚古墳や香川県の稲荷山北端古墳も未訪問です。また、直接訪問できず「遠景」のみの古墳や、本当に該当する古墳か否か不明確な絵もあります。さらに、今後大型古墳が新たに発見される可能性もあります。また、最初に取り上げた古墳の中には、発掘調査などで墳丘データが変更された古墳もあります。
 最近は、「番外」として主として飛鳥時代の終末期古墳を取り上げてお茶を濁してきましたが、ネタもなくなってきました。他地域の小型古墳の絵も若干ありますが、「大型古墳集成」という「看板に偽りあり」となってしまいます。また、「地元の古墳を軽視しとるだらー」。という天の声もあります。

 そこで暫く充電期間をいただき、従来のブログの訂正などに取り組みたいと思います。大型古墳については訪問次第掲載します。また、豊橋市内の古墳について、「看板」の付け替え作業も検討・準備中です。古墳探訪ベストシーズンの冬季以降に開業できればと思います。
  


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2020年06月15日

番外 艸墓(くさはか)古墳 奈良県桜井市 方墳 辺28m 

 下記のHP.にあるように文殊院東古墳の約200m東に位置しています。この古墳から約400m南に前期の超大型古墳のメスリ山古墳(ランキング15位)があります。文殊院からこの艸墓古墳に至るには、やや分かりにくいとブログ等で書かれていますが、シカやカモシカましてやクマに出会うことはなく、山道で遭難することもないので、安心して迷うことができます。「迷ったら、不安で安心できんだらー」。        
 古墳は、国の史跡に指定されています。
 桜井市観光協会のHP.の「艸墓古墳」の項目で、「桜井市谷の住宅街の中に残された古墳で、安陪文殊院の直ぐ近くにあります。墳形は方墳(南北28m、東西22m、高さ8m)で東南に開口しています。墳丘斜面に玉石の露出箇所あり葺石の可能性もあります。 埋葬施設は花崗岩を用いた両袖式横穴式(全長13.2m)で、玄室部は長さ4.4m、幅2.7m、高さ2m。羨道部は長さ8.8m、玄門幅1.9m、高さ約1.5mで、玄室の側壁と天井石の間隙に漆喰が残っています。石棺は竜山石製の刳抜式家型石棺で6個の縄掛突起を持っています。正式な発掘調査はされておらず出土遺物は不明ですが、築造時期は石室や石棺の様式から7世紀前半と思われます。」と記されています。ただし、桜井市のHP.の「桜井市観光情報サイト さくらい」の「艸墓古墳(カラト古墳) (くさはか古墳)」の項目では、「年代 7世紀中頃」としています。
 おっさんが古墳や石室を訪問したのは、7年程前のことです。その後、修復工事のため石室内見学は禁止されていましたが、2019年10月末から見学が可能になったそうです。「メデタシ、メデタシ」。


 標柱。桜井市教委の説明板。


 石室入口。

 石室内部の石棺。


 ほぼ全景。

 ほぼ全景。
              以上2013年3月撮影。  


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2020年06月14日

番外 文殊院東(閼伽井)古墳 奈良県桜井市 円墳 径20m

 下記のHP.でも記されているように、特別史跡である西古墳と比べてマイナーな東古墳ですが、奈良県の史跡に指定されています。また、石室入口から棺を納めた玄室に至る羨道部分に井戸があり、この水を仏前に供する(「閼伽」(あか)というそうです)ことから閼伽井古墳とも呼ばれています。脱線しますが、墓参りの時に墓石にお供えする無色の水も「あか」なのでしょうか。「変なこと言っとってはアカんだらー」。
 余談ですが、人物や物をかたちどった形象埴輪の中に、導水埴輪と呼ばれる埴輪が囲形埴輪・家形埴輪とセットで大型古墳から出土する場合があります。奈良県御所市の南郷大東遺跡などでは、導水施設と考えられる木製品や柱跡も見つかっています。想像を逞しくすれば、大型古墳に埋葬されるような大王や地域の有力者は、一般人が立ち入れない小屋の中で、カミに捧げる聖水を採取する秘儀を夜間に行っていたと妄想を広げてしまいます。時期は異なりますが、この東古墳でもその名残りが閼伽井として後世に残されたのでしょうか。
 桜井市観光協会のHP.の「文殊院東古墳(桜井市阿部)」の項目で、「国特別史跡の文殊院西古墳の東50mに位置する古墳ですが文殊院西古墳の陰に隠れ、素通りされることが多い古墳ですが、この古墳も堂々の県史跡。  墳丘は円墳又は方墳と思われますが詳しい調査は行われていないので規模は明らかではありません。横穴式石室は両袖式で全長が13m。玄室長4.7m、幅2.3~2.7m、高さ2.6m。羨道部は長さが8.3m、幅1.8~2m、高さ1.5mを測り南南西に開口しています。 玄室部はほとんど加工されていない自然石、羨道部は切石の花崗岩が使われているのが特徴で、石室の石材が自然石から切石に変化して行く過渡期の古墳と言えるでしょう。  また、この古墳は石室の羨道部に井戸があるところから閼伽井窟と呼ばれ,古くから信仰の対象とされてきました。現在石室内には入れませんが開口部から、およその雰囲気は感じ取ることができるでしょう。  出土遺物は不明ですが石室の形状より築造年代は7世紀前半と思われ当地の大豪族であった安倍氏一族の墳墓の可能性があります。」と記されています。


 説明板。


 石室入口。


 遠景。
              以上2013年3月撮影。  


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2020年06月13日

番外 文殊院西古墳 奈良県桜井市 円墳 径30m

 文殊院の境内、本堂の南東に位置している古墳です。境内の東方にもう一基古墳があり、前者が文殊院西古墳、後者が文殊塚東古墳とよばれています。この西古墳は、石室(玄室)の石組みが精緻なことで知られており、その見事さは奈良県明日香村の岩屋山古墳と双璧と言えるでしょうか。古墳は、「動産」ならば国宝に匹敵する、国の特別史跡に指定されています。また、この文殊院は、阿部倉梯麻呂が安倍氏の氏寺として飛鳥時代に建立した「安倍山崇敬寺」(安倍寺)が起源だそうです。
 桜井市観光協会のHP.の「文殊院西古墳(桜井市阿部)」の項目で、「日本三文殊のひとつ安倍文殊院の境内にある古墳時代終末期を代表する切石つくりの国特別史跡指定の古墳です「さくらい100選」には安倍文殊院として選ばれています。墳形は円墳又は方墳で本来は30m前後の墳丘規模と思われます。石室は両袖式横穴式(全長12.4m)で南に開口しています。長方形の切石(花崗岩製)を横積みし上の石の目地が下石の中央に来るように均等に割付られ天井石は1石で羨道部は板石を4枚並べ天井石は3枚構造です。 終末期古墳の頂点に立つ技術は石材と石材の隙間がない事でもわかり予備知識なしでこの中に入ると古墳だと判らないほど洗練された精美な古墳です。玄室長は5.1m、幅2.9m、高さ2.7mで羨道長は7.3m、幅2.3m、高さ1.8mで早くから開口していたようで棺や出土遺物は知られていません。築造年代は石室の構造からみて古墳時代の終末期にあたる7世紀中頃と推定されており被葬者は当時この地の有力者であった阿倍倉梯麻呂の墓説が有力です。」と記されています。


 立札。説明版。


 石室入口。

 石室内部。内部の石組部分。


 墳丘上部。


 ほぼ全景。

 ほぼ全景。
              以上2013年3月撮影。  


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2020年06月12日

番外→補遺[1227-20] 牧野(ばくや)古墳 奈良県広陵町 円墳 径55(48~60)m

 ランキングの参考にさせてもらっているHP.「古墳探訪」では、径55mの円墳と記載してありましたが、下記の広陵町のHP.では直径約60mとなっています。また、河上邦彦さんは、「丘陵中央の巨大横穴式石室・牧野古墳 馬見丘陵中央部の丘陵の尾根端を利用して築かれた、いわゆる山寄せの円墳である(略)。直径約六〇メートル、しかし後背部の切り通しでみれば四八メートル、高さ約一二メートルの三段築成である。墳丘には埴輪があったが現位置を保つものはなかった。」(『大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』 p.73)と述べています。西側の東屋からは円墳らしさは感じられず、北東側の公園からは円形の三段目しか見えず、とても60m規模の古墳には思えませんでした。しかし、ここでは径60mの円墳としてランキングします。
 古墳は、馬見古墳群の中央(巣山)支群の西端付近に位置しています。築山古墳(ランキング27位)・巣山古墳(ランキング28位)・新木山古墳(ランキング36位)・川合大塚山古墳(ランキング40位)といった200m級の巨大古墳が存在する馬見古墳群の中では、牧野古墳は小さな存在です。ただし、古墳時代後期(『前方後円墳集成』の9期・10期)に限定すれば、馬見古墳群で最大規模の古墳となります。       
 牧野古墳は、国の史跡に指定され、「牧野史跡公園」として整備されています。事前連絡すれば、巨大な玄室内部の見学ができるそうです。ただ、おっさんは他の巨大古墳の訪問を優先して、いつもこの古墳見学は日没近くになってしまい、薄暗い石室入口の絵しか撮っていませんでした。「サラ金や古墳訪問は、計画的にだらー」。
 広陵町のHP.の「観光 古墳」の中の「牧野(ばくや)古墳 (国指定史跡)」の項目で、「丘陵の奥部にある直径約60メートルの大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、二段目に横穴式石室が開口している。玄室(げんしつ)の長さ6.7メートル、幅3.3メートル、高さ4.5メートル、羨道(せんどう)の長さ10.4メートル、幅1.8メートルで、全長17.1メートルを測る大型石室である。玄室内には奥壁に沿って横向きに刳抜(くりぬき)式の家形石棺が安置され、その手前には組み合わせ式の家形石棺が置かれていたと考えられている。(中略) 古墳時代後期末葉の古墳で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の成相墓(ならいのはか)の可能性が高い。」と記されています。
 白石太一郎さんも、「牧野古墳が『延喜式』にみえる押坂彦人大兄皇子(敏達の息子、舒明の父)の成相墓の蓋然性が大きく、」(『古墳とヤマト政権』 p.187)と述べています。そして、森浩一さんも、「考古学では、広陵町にある牧野古墳を当てる説が有力である。巨石で構築した横穴式石室が開口した古墳(円墳か)で、石室には二つの石棺があり、玄室の石棺は竜山石を用いた家形石棺で成相墓の可能性は高い」(『天皇陵古墳への招待』 p.239)と述べています。


 広陵町教委の説明板。


 石室入口。


 墳丘上部(三段目)。東から。


 やや全景。
            以上2013年11月撮影。

 
 公園の説明板。


 石室入口。


 全景。
              以上2012年3月撮影。  


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2020年06月11日

番外 与楽(ようらく)カンジョ古墳 奈良県高取町 方墳 辺36m

 「与楽古墳群」を構成する古墳のひとつとして、2013年に国の史跡に指定されています。訪問時、石室内への立入が禁止されていたのでよくわかりませんでしたが、玄室の高さは、約5.3mもあり、あの石舞台古墳の4.7mを超えて奈良県では最大だそうです。ちなみに、玄室の高さ日本一が熊本県氷川町の大野窟古墳(ランキング[139]位)の6.5m、二位が和歌山県和歌山市の天王塚古墳(ランキング469位)の5.9mです。両古墳の石室(玄室)内の絵については、2018年3月6日のブログ、「[139] 大野窟古墳」・「1番があれば2番がある」の中で紹介しています。
 奈良県 高取町教育委員会の「高取 埋蔵文化財(埋文) 散策マップ 第二版」の「16. 国指定史跡 与楽カンジョ古墳」の項目で、「大字与楽にある与楽カンジョ古墳は一辺36m墳丘の南裾から高さ11mの方墳である。墳丘南面に石室玄室は長さ6m幅3.8m高さ5.3mを測る。(中略)カンジョ古墳は玄室の平面規模に比べ天井までが高いドーム型の石室で、高さでは奈良県で一番である。古墳の築造は7世紀前半と考えられる。また、羨道閉塞石の下から8世紀初頭の須恵器坏が出土した。カンジョ古墳を含め与楽古墳群は石室形態や出土遺物から渡来系氏族東漢氏と考えられている。」と記されています。


 奈良県教委の説明板。注意書き。


 石室入口。


 全景。
              以上2011年5月撮影。  


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2020年06月10日

番外 真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳 奈良県明日香村 円墳 径約40m

 この古墳は2011年と15年の2回訪問していましたが、石室に向かう通路が閉鎖されており、離れた場所から「全景」の絵を撮っただけでした。玄室の床面積は見瀬(五条野)丸山古墳(ランキング6位)の34㎡に次ぎ、石舞台古墳の27㎡を上回る28㎡と言われる石室内を見学したかったですが・・・。「まゆみちゃんに嫌われとるだらー」。
 2008年に明日香村教育委員会が発行した『明日香村の文化財⑩ 真弓鑵子塚古墳』の中で、「3.まとめ 今回の調査は真弓鑵子塚古墳の本格的な調査となり、以下、調査結果をまとめると①墳丘は北西に延びる丘陵を大規模に造成して築かれた直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳です。②埋葬施設は石英閃緑岩の巨石を使用した穹窿状の横穴式石室です。③築造年代については石室内から出土した土器などから6世紀中頃と考えられます。④墳丘と石室部分には南海地震の影響と考えられる亀裂や大規模な地滑りも明らかとなりました。」と述べられています。
 上記のように、築造時期は6世紀中頃ということで飛鳥時代の終末期古墳ではなく、古墳時代後期の古墳になります。また、数回追葬されていたことが、出土品から明らかになっているそうです。


 標柱。明日香村の説明板。


 全景。
            以上2015年10月撮影。


 旧説明板。

 閉鎖された入口。注意書き。


 全景。
              以上2011年4月撮影。  


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2020年06月09日

番外 岩屋山古墳 奈良県明日香村 方墳 辺54→(40)m

 横穴式石室の石組の美しさは見事という他はありません。下記のように、この古墳の石室の石組構造が基準となって「岩屋山式」と呼ばれているのも納得できます。また、ムネサカ1号墳(ランキング1107位)の石室も同一規格とありますが、1号墳の訪問時懐中電灯を持っておらず、石室内は真っ暗闇で確認できませんでした。「ダメじゃん、もったいないだらー」。                      
 古墳は、国の史跡に指定されています。
 明日香村のHP.の「岩屋山古墳」の項目で、「今回は、岩屋山古墳について紹介したいと思います。  岩屋山古墳は大字越に所在する終末期古墳です。 周辺には牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳、マルコ山古墳等、多くの後・終末期古墳が点在しています。 明治時代にはイギリス人のウイリアム・ゴーランドが来村し、岩屋山古墳の石室を調査して「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」と『日本のドルメンと埋葬墳』の中で紹介しています。 昭和53年には史跡環境整備事業に伴う発掘調査が橿原考古学研究所によって実施されています。調査の結果、墳丘は1辺約40m、高さ約12mの2段築成の方墳で墳丘は版築で築かれており、下段テラス面には礫敷が施されていることが明らかとなりました。埋葬施設については石英閃緑岩(通称、飛鳥石)の切石を用いた南に開口する両袖式の横穴式石室です。規模は全長17.78m、玄室長4.86m、幅約1.8m、高さ約3mで羨道長約13m、幅約2m、高さ約2mを測ります。壁面構成については玄室が2石積みで奥壁上下各1石、側石上段各2石、下段各3石で羨道部分は玄門側が1石積みで羨門側が2石積みとなっています。天井石については玄室1石、羨道5石で構成されています。こういった構造をした石室は岩屋山式と呼ばれており、奈良県内では小谷古墳(橿原市)や峯塚古墳(天理市)等でも確認されています。特にムネサカ一号墳(桜井市)の石室は岩屋山古墳と同じ設計図(規格)をもとに築造されたと考えられており両者の関係が注目されています。(中略) 石室内からは土師器・須恵器・瓦器・陶磁器・古銭等が出土しており、築造年代については7世紀前半頃と考えられます。被葬者については斉明天皇や吉備姫王等が候補として挙げられています。」と記されています。
 白石太一郎さんは、「奈良県明日香村越岩屋山古墳は、墳丘の西半分は遺存しないが、わたくしは八角墳の可能性が強く、女帝で重祚した皇極・斉明の墓である可能性が高いと考えている。」(『古墳とヤマト政権』 p.194)と述べています。ただし、越塚御門古墳が発見された現在、牽牛子塚古墳が斉明大王墓の可能性が高いと考えられていることは、すでに5月22日のブログで紹介しました。斉明大王の初葬墓が岩屋山古墳で、改葬墓が牽牛子塚古墳と考えれば話が変わりますが・・・。


 石柱。明日香村の説明板。


 石室入口。石室内部。玄室。


 ほぼ全景。
            以上2015年10月撮影。


 石室入口。玄室。


 墳頂。墳頂から見下ろす。

 ほぼ全景。
              以上2011年5月撮影。  


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2020年06月08日

番外 伊勢塚古墳 群馬県藤岡市 八角墳 27m

 「八角墳」の第四弾です。墳丘は、一段目が八角形、上段が円形をしているそうです。おっさんは、説明板をよく読まず、円墳と思い込んでいました。その筋の人にとっては、墳形よりも石室内部の側壁の文様が特徴的で有名なようです。七輿山古墳(ランキング79位)訪問のついでに立ち寄ったため、懐中電灯は持たずに、肝心の側壁の絵は撮っていませんでした。「オー マイゴッド」。
 藤岡市のHP.の「伊勢塚古墳」の項目で、「伊勢塚古墳は、藤岡駅の北西約4kmに所在します。この古墳の周囲には、国指定史跡七輿山古墳、県指定史跡皇子塚古墳、国指定史跡白石稲荷山古墳等が存在し、白石古墳群を形成しています。伊勢塚古墳は、七輿山古墳の北400mの平坦地に造られた径27.2mの円墳あるいは不正八角形墳と考えられます。昭和62年から3回にわたる範囲確認調査により、墳丘は4段に造られた古墳で、特に、3段目は最上段の葺石を積み上げてから、その外側に河原石を敷き詰めて造りだした段築面であることがわかりました。出土遺物に円筒埴輪・人物埴輪・盾形埴輪があり、6世紀末ごろに造られたと推定されます。 伊勢塚古墳の特徴は、模様積石室と呼ばれる石室にあります。この石室は胴張形の平面形で、所々にやや大型の自然石を配しその周辺に細長い結晶片石を差し込んで飛白模様にしている点に特徴があります。 こうした模様積の石室を持つ古墳は、藤岡市域から埼玉県児玉郡周辺に見られます。これらの古墳の築造は、6世紀後半に出現し、7世紀代まで継続して造られています。その中でも伊勢塚古墳の石室は特に秀でています。 」と記されています。


 石柱。群馬県教委・藤岡市教委の説明板。


 石室入口。石室羨道。


 全景。南西から。


 全景。南から。
            以上2016年11月撮影。


 石室入口。石室内部(奥壁)。
                   以上2009年7月撮影。  


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2020年06月07日

番外 三津屋古墳 群馬県吉岡町 八角墳 24m

 「八角墳」の第三弾です。一般的な古墳を見慣れていると、まるで未確認飛行物体が地上に降りてきたような姿で、奇異な感じを受けます。ただし、昼間は石室入口の鍵は開けられており、コンクリートの室内には、土層や残された石室の一部が展示されています。
 群馬県吉岡町のHP.の「三津屋古墳」の項目で、「全国でも珍しい天皇陵に類する八角形の古墳 墳丘は二段構築から成る八角墳である。八角墳は7世紀中葉以後の主に天皇陵に採用された形式といわれ、全国でも10例程が知られるにすぎない極めて珍しいものである。本古墳は葺石や墳丘の陵角が良好に残り、立体的にその存在が確かめられた唯一の例として全国から注目を浴びている。 現在古墳は本来の姿に復元整備され、史跡公園として一般に公開されている。」と記されています。
 古墳は、群馬県の史跡に指定されています。


 案内板。群馬県教委・吉岡町教委の説明板2つ。


 石室入口。石室内部。


 墳丘近景2つ。


 ほぼ全景。2つ。
              以上2011年10月撮影。  


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