2022年04月29日
番外 茨城県の古墳⑪ー2 牛伏古墳群第5号墳 水戸市 円墳 径28m
この古墳も、「くれふしの里古墳公園」内で、整備・保存されています。円墳は円形の標識、前方後円墳には前方後円形の標識が設置され、公園管理者のセンスの良さを感じることができました。
標識によると、「径:28m」の円墳です。
標識。
全景。
全景。
以上2015年6月撮影。
標識。
全景。
以上2012年4月撮影。
標識によると、「径:28m」の円墳です。
標識。
全景。
全景。
標識。
全景。
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08:08
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2022年04月27日
番外 茨城県の古墳⑪ー1 牛伏古墳群第1号墳 水戸市 28m
「牛伏古墳群」の主墳的存在のお富士様古墳(第17号墳)(ランキング1139位)や古墳群の中では比較的大きな規模の第2号墳~第4号墳については、2019年2月5日のブログで紹介しています。ここでは、それ以外の古墳を紹介します。また、最初の訪問時の絵の画質が粗かったので、再訪しています。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「牛伏1号墳(牛伏3号墳〈仮称〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:復元28m 後円部:径16m 前方部:幅8以上 長8m 特記事項【その他】墳丘南東側一部削平。」と記されています。
古墳群は、「くれふしの里古墳公園」として整備・保存されています。公園内には、「はに丸タワー」というモニュメントが作られています。
内原町教委の説明板。
標識。
全景。右が後円部、左が前方部。北から。
以上2015年6月撮影。
はに丸タワー。
標識。
やや全景。右手前が後円部、左奥が前方部。
以上2012年4月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「牛伏1号墳(牛伏3号墳〈仮称〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:復元28m 後円部:径16m 前方部:幅8以上 長8m 特記事項【その他】墳丘南東側一部削平。」と記されています。
古墳群は、「くれふしの里古墳公園」として整備・保存されています。公園内には、「はに丸タワー」というモニュメントが作られています。
内原町教委の説明板。
標識。
全景。右が後円部、左が前方部。北から。
はに丸タワー。
標識。
やや全景。右手前が後円部、左奥が前方部。
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2022年04月26日
番外 茨城県の古墳 再々開
途中で、「番外 宮城県の古墳」シリーズを追加して、脱線してしまいましたが、次回から本来の「番外 茨城県の古墳」シリーズを再び、「再開」します。
また、4月上旬に訪問した茨城県の古墳も整理がつき次第、追加掲載していきたいと思います。
また、4月上旬に訪問した茨城県の古墳も整理がつき次第、追加掲載していきたいと思います。
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2022年04月25日
番外 宮城県の古墳⑭ 名生舘官衙遺跡 大崎市
名生舘官衙遺跡は、奈良から平安時代にかけて存在した官衙(役所)遺跡です。そのうち、城内地区には、役所の中心施設である政庁が置かれていたそうで、国の史跡に指定されています。前項の氷室B古墳は、約1km南西に位置しています。
この遺跡は、古墳ではありませんが、この地には古墳時代中期の竪穴住居跡が23軒確認されているそうです。また、住居跡から続縄文文化を特徴づける黒曜石も出土し、古墳文化と続縄文文化の結節点を示す場所であるそうです。
岩手県奥州市の中半入遺跡からも同様の黒曜石が出土しており、この遺跡に居住した人々は最北の地に築かれた前方後円墳として著名な角塚古墳(2019年5月30日のブログ「1292-1 念南寺古墳のおまけの「角塚(つのづか)古墳」に掲載)を築いた可能性が指摘されています。
大崎市教育委員会 文化財課の方からいただいた資料「名生舘官衙遺跡」(『古川市史 第6巻 資料Ⅰ 考古』所収、p.214)では、「遺跡(おっさん註 名生舘官衙遺跡のこと)の南西1kmに古墳時代前期の集落である高幌遺跡がある。」と述べられています。おっさんは、同時代・同地域の氷室B古墳を築造した集団の集落が高幌遺跡であるという妄想が広がってしまいました。
余談ですが、角塚古墳のある岩手県奥州市が古墳文化最北の地というイメージが強いですが、この古墳は「一発屋」みたいな例外的存在であるそうです。継続的な古墳文化北端の地としては、むしろ大崎平野のある宮城県大崎市や加美町・色麻町が該当するようです。最南端の前方後円墳である花牟礼古墳(ランキング737位)が築造されている鹿児島県肝付町の塚崎古墳群も、継続性が見られる点で大崎平野と共通点があると思いました。
追記
河野一隆さんは、「このうち特筆されるのが、中期後半に宮城県湯の倉産出の黒曜石製石器の広汎な流通である。岩手県角塚古墳と中半入遺跡、宮城県念南寺古墳と名生舘遺跡・壇の越遺跡など、続縄文土器や多量の黒曜石製石器を出土する遺跡が、規格的な前方後円墳の築造地区周辺で知られている。」(「古墳時代における境界」p.133、岸本直文編『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』所収)と述べています。
大崎市教委の説明板。
城内地区全景。
古墳時代の集落跡付近。
以上2022年3月撮影。
この遺跡は、古墳ではありませんが、この地には古墳時代中期の竪穴住居跡が23軒確認されているそうです。また、住居跡から続縄文文化を特徴づける黒曜石も出土し、古墳文化と続縄文文化の結節点を示す場所であるそうです。
岩手県奥州市の中半入遺跡からも同様の黒曜石が出土しており、この遺跡に居住した人々は最北の地に築かれた前方後円墳として著名な角塚古墳(2019年5月30日のブログ「1292-1 念南寺古墳のおまけの「角塚(つのづか)古墳」に掲載)を築いた可能性が指摘されています。
大崎市教育委員会 文化財課の方からいただいた資料「名生舘官衙遺跡」(『古川市史 第6巻 資料Ⅰ 考古』所収、p.214)では、「遺跡(おっさん註 名生舘官衙遺跡のこと)の南西1kmに古墳時代前期の集落である高幌遺跡がある。」と述べられています。おっさんは、同時代・同地域の氷室B古墳を築造した集団の集落が高幌遺跡であるという妄想が広がってしまいました。
余談ですが、角塚古墳のある岩手県奥州市が古墳文化最北の地というイメージが強いですが、この古墳は「一発屋」みたいな例外的存在であるそうです。継続的な古墳文化北端の地としては、むしろ大崎平野のある宮城県大崎市や加美町・色麻町が該当するようです。最南端の前方後円墳である花牟礼古墳(ランキング737位)が築造されている鹿児島県肝付町の塚崎古墳群も、継続性が見られる点で大崎平野と共通点があると思いました。
追記
河野一隆さんは、「このうち特筆されるのが、中期後半に宮城県湯の倉産出の黒曜石製石器の広汎な流通である。岩手県角塚古墳と中半入遺跡、宮城県念南寺古墳と名生舘遺跡・壇の越遺跡など、続縄文土器や多量の黒曜石製石器を出土する遺跡が、規格的な前方後円墳の築造地区周辺で知られている。」(「古墳時代における境界」p.133、岸本直文編『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』所収)と述べています。
大崎市教委の説明板。
城内地区全景。
古墳時代の集落跡付近。
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2022年04月23日
番外 宮城県の古墳⑬ 氷室B古墳 大崎市 前方後方墳 40または32m
前回、前方後方墳としては2番目に北限に位置する熊野堂古墳を紹介しましたが、この氷室B古墳が最北の地に築かれた前方後方墳です。
氷室薬師村上寺を目印にして、そこから幅が車一台分ほどの舗装されていない道を、少しずつ上っていき、墓地や鉄塔を東側に見ながら進むと「氷室前方後方墳」と書かれた標柱があります。そこが目的地です。ただし、藪が激しく墳丘奥まで立ち入ることができませんでした。また、標柱がなければ、この古墳の存在に気づくことができませんでした。
駐車スペースがないので、南側の畠の空き地に止めさせてもらいました。全景の絵は、その付近から撮ったものです。移動時、道路を走ってくる車に衝突しそうになりました。地元の人は、横から車が出てくると思っていなかったようです。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「氷室B古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:40m 後円(ママ)部:径(ママ)23×26m 高4m 特記事項【その他】前方部前端が道路で、後方部南約半分が土取りで削平。」と記されています。
また、青塚古墳の際にお世話になった、大崎市教育委員会 文化財課の方からいただいた資料では、「1号墳は現況で全長32mの前方後方墳である。前方部の大きさは土取りのため不明であるが、高さは1mである。後方部は一辺24m、高さ4mで、東側にテラス状の平坦面が認められる。前方部と後方部の比高差が3mと、後方部に比べて前方部が平坦で低いという特徴を持つ。(中略)1号墳は古墳時代前期における古墳文化北辺域の前方後方墳の一つである。」(「氷室B古墳群」pp.122~123、『古川市史 第6巻 資料Ⅰ 考古』所収)と述べられています。
約2km南西に熊野堂古墳が位置しています。
標柱表。2つで裏。


全景(横から)。中央奥が後方部、左奥が前方部跡。南から。
前方部跡から後方部。西から。
以上2022年3月撮影。
氷室薬師村上寺を目印にして、そこから幅が車一台分ほどの舗装されていない道を、少しずつ上っていき、墓地や鉄塔を東側に見ながら進むと「氷室前方後方墳」と書かれた標柱があります。そこが目的地です。ただし、藪が激しく墳丘奥まで立ち入ることができませんでした。また、標柱がなければ、この古墳の存在に気づくことができませんでした。
駐車スペースがないので、南側の畠の空き地に止めさせてもらいました。全景の絵は、その付近から撮ったものです。移動時、道路を走ってくる車に衝突しそうになりました。地元の人は、横から車が出てくると思っていなかったようです。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「氷室B古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:40m 後円(ママ)部:径(ママ)23×26m 高4m 特記事項【その他】前方部前端が道路で、後方部南約半分が土取りで削平。」と記されています。
また、青塚古墳の際にお世話になった、大崎市教育委員会 文化財課の方からいただいた資料では、「1号墳は現況で全長32mの前方後方墳である。前方部の大きさは土取りのため不明であるが、高さは1mである。後方部は一辺24m、高さ4mで、東側にテラス状の平坦面が認められる。前方部と後方部の比高差が3mと、後方部に比べて前方部が平坦で低いという特徴を持つ。(中略)1号墳は古墳時代前期における古墳文化北辺域の前方後方墳の一つである。」(「氷室B古墳群」pp.122~123、『古川市史 第6巻 資料Ⅰ 考古』所収)と述べられています。
約2km南西に熊野堂古墳が位置しています。
標柱表。2つで裏。
全景(横から)。中央奥が後方部、左奥が前方部跡。南から。
前方部跡から後方部。西から。
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2022年04月21日
番外 宮城県の古墳⑫ 熊野堂遺跡(熊野堂古墳) 加美町 前方後方墳 36m
熊野堂古墳は、古墳時代から奈良・平安時代にかけての複合遺跡である熊野堂遺跡内にある前方後方墳です。下の絵のように、加美町教育委員会の標柱が立てられているので、遺跡の所在はすぐにわかりました。ただし、林の中に入って、熊野堂古墳を探しましたが、見つけることができませんでした。一応、それらしき高まりのある場所の絵を撮りましたが、全く自信はありません。「降水確率」ならぬ「誤画像確率」は、99%以上だと思います。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「熊野堂古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:36m 後円(ママ)部:径(ママ)20m 前方部:幅13m 長12m 特記事項【周濠】あり。」と記されています。
余談ですが、おっさんの理解が正しければ、前方後方墳としては2番目の「北限の地」に位置している古墳と思われます。
熊野堂遺跡の標柱。表。裏。

遺跡遠景。
後方部右側?。左側?。

前方部右側?。左側?。

後方部墳頂?
前方部から後方部?。
以上2022年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「熊野堂古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:36m 後円(ママ)部:径(ママ)20m 前方部:幅13m 長12m 特記事項【周濠】あり。」と記されています。
余談ですが、おっさんの理解が正しければ、前方後方墳としては2番目の「北限の地」に位置している古墳と思われます。
熊野堂遺跡の標柱。表。裏。
遺跡遠景。
後方部右側?。左側?。
前方部右側?。左側?。
後方部墳頂?
前方部から後方部?。
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2022年04月19日
番外 宮城県の古墳⑪ 伊勢堂古墳 大崎市 不詳m
前項の青塚古墳から約200m北西に位置しています。ただし、小高い高まりが見られるものの、現状では、とても古墳には見えません。
『大和國古墳墓取調室』に掲載されている「伊勢堂古墳」の画像では、小さな社が映っていましたが、訪問時その存在は確認できませんでした。数年後には、消失の恐れも予想されます。古墳の「絶滅危惧種」的存在と言えるでしょうか。
墳形は前方後円墳とされていますが、規模については不詳です。
残存部。南西から。
残存部。北西から。
以上2022年3月撮影。
『大和國古墳墓取調室』に掲載されている「伊勢堂古墳」の画像では、小さな社が映っていましたが、訪問時その存在は確認できませんでした。数年後には、消失の恐れも予想されます。古墳の「絶滅危惧種」的存在と言えるでしょうか。
墳形は前方後円墳とされていますが、規模については不詳です。
残存部。南西から。
残存部。北西から。
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2022年04月17日
追加290 青塚古墳 宮城県古川市 約100m→推定90m
大崎平野周辺の古墳探訪をしていたので、少し足を延ばして再訪しました。下記のように、円墳状の巨大な墳丘が、神社の境内として残されています。ただし、周溝跡と考えられている前方部跡東隣の土地は、住宅建設が進められており、墳形を確定する再調査の機会が失われることを危惧しました。
大崎市教育委員会文化財課が2022年に発行した「市指定史跡 青塚古墳 古墳時代前期最北の前方後円墳」では、「現在、前方部は宅地化され残存していませんが、昭和55年(1980)に旧古川市教育委員会が行った調査では、古墳の周囲から幅30~40m、深さ20~30cm程の溝跡(周溝)が確認されており、全長90m、後円部径55~60mの前方後円墳と推定されています。」と述べられています。
ただし、辻秀人さんは、この古墳を円墳として図示(「十 東北南部」p.480、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)しており、円墳と考えている専門家もいるようです。
前回のブログ(2018年4月6日掲載)と同様に、ここでは大崎市の公式見解を尊重し、「前方後円墳」として書いていきますが・・・。「役所の権威に弱いだらー」。
また、前回は、ランキングの参考にさせていただいたHP.『古墳探訪』(おっさん註 現在は、何故か閲覧できなくなっています。このHP.との出会いがなければ、墳長60m以上の古墳の全国制覇という狂気じみた行動はなかったです。「世の中に絶えて古墳のなかりせば、冬の心はのどけからまし」) により、墳長を「約100m」としましたが、今回は上記大崎市の資料により「推定90m」としました。
古墳は市の史跡に指定されています。余談ですが、2006年の市町村合併により、古川市から大崎市に名称変更されましたが、説明板は古川市のままでした。
別件ですが、おっさんの青塚古墳についての質問に対して、資料や私見も添えて真摯な回答をいただいた、大崎市教育委員会 文化財課の担当者の方に感謝申し上げます。どうもありがとうございました。
古川市教委の説明板。
後円部。
周溝跡付近。
前方部跡(画面左端)付近から後円部。
後円部墳頂。
後円部近景。南西から。
後円部遠景。西から。
以上2022年3月撮影。
大崎市教育委員会文化財課が2022年に発行した「市指定史跡 青塚古墳 古墳時代前期最北の前方後円墳」では、「現在、前方部は宅地化され残存していませんが、昭和55年(1980)に旧古川市教育委員会が行った調査では、古墳の周囲から幅30~40m、深さ20~30cm程の溝跡(周溝)が確認されており、全長90m、後円部径55~60mの前方後円墳と推定されています。」と述べられています。
ただし、辻秀人さんは、この古墳を円墳として図示(「十 東北南部」p.480、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)しており、円墳と考えている専門家もいるようです。
前回のブログ(2018年4月6日掲載)と同様に、ここでは大崎市の公式見解を尊重し、「前方後円墳」として書いていきますが・・・。「役所の権威に弱いだらー」。
また、前回は、ランキングの参考にさせていただいたHP.『古墳探訪』(おっさん註 現在は、何故か閲覧できなくなっています。このHP.との出会いがなければ、墳長60m以上の古墳の全国制覇という狂気じみた行動はなかったです。「世の中に絶えて古墳のなかりせば、冬の心はのどけからまし」) により、墳長を「約100m」としましたが、今回は上記大崎市の資料により「推定90m」としました。
古墳は市の史跡に指定されています。余談ですが、2006年の市町村合併により、古川市から大崎市に名称変更されましたが、説明板は古川市のままでした。
別件ですが、おっさんの青塚古墳についての質問に対して、資料や私見も添えて真摯な回答をいただいた、大崎市教育委員会 文化財課の担当者の方に感謝申し上げます。どうもありがとうございました。
古川市教委の説明板。
後円部。
周溝跡付近。
前方部跡(画面左端)付近から後円部。
後円部墳頂。
後円部近景。南西から。
後円部遠景。西から。
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2022年04月15日
追加1292 念南寺(ねやじ)古墳 宮城県色麻町 57→(56)m
前項の熊野神社古墳リベンジの足慣らしとして約5年ぶりに訪問しました。二度目で、しかも案内板が充実しているので、迷うことなく古墳にたどり着くことができました。ただし、前回の方が、いい絵が撮れたと思っています。
周辺の円墳群を探しましたが、直ぐに見つけられず、心は熊野神社古墳に向かっていたので、諦めました。
この古墳の詳細については、2019年5月30日のブログで紹介しています。そちらをご覧ください。「手抜きだらー」。
説明板。
案内板。
後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


後円部墳頂の社殿跡。
後円部墳頂脇の石碑。
3つで全景(横から)。前方部。くびれ部。後円部。


隣接地に移築された社殿。
以上2020年3月撮影。
周辺の円墳群を探しましたが、直ぐに見つけられず、心は熊野神社古墳に向かっていたので、諦めました。
この古墳の詳細については、2019年5月30日のブログで紹介しています。そちらをご覧ください。「手抜きだらー」。
説明板。
案内板。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
後円部墳頂の社殿跡。
後円部墳頂脇の石碑。
3つで全景(横から)。前方部。くびれ部。後円部。
隣接地に移築された社殿。
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2022年04月13日
追加1003 熊野神社古墳 宮城県色麻町 約63m
2018年12月1日のブログで掲載した古墳です。ただし、この時は行く手を藪に阻まれ、古墳にたどり着くことができず、遠景の絵を掲載したのみでした。おっさんにとって、喉仏に突き刺さった鯨骨のような存在で、5年ぶりの再訪でようやくリベンジを果たすことができました。
前回の失敗を反省して、古墳の位置する台地の北側からアタックする予定でしたが、リベンジの思いが強く、前回と同じ南側から入っていきました。やはり、藪が密生していましたが、5月に訪問した前回と異なり少し見通しがききました。小さな谷を下った西側に高まりがあり、上っていくと平坦地があり「熊野神社」と記された石碑が建立されていました。そこが夢にまで見た古墳の後円部でした。
ただし、後円部南側にある4基の円墳を探し、かろうじてそれらしき高まりを1基見つけましたが、他は藪が激しく断念しました。「4基を追うもの1基しか得ず。」
藤原二郎・小野寺智哉・辻秀人・東北学院大学考古学ゼミナールによる「宮城県色麻町熊野神社古墳測量調査報告」によると、「熊野神社古墳の復元値は、全長約63m、後円部直径約37.5m、墳頂平坦面径約14m、後円部の墳麓と墳頂部の比高差は約5m、前方部長約25.5m、前方部前端幅約25mで、前方部の墳麓と墳頂部の比高差は約3mである。」(p.93)と述べられています。
後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。前方部右隅から後円部。

後円部墳頂の石碑。石碑と祠。

後円部墳頂(横から)。
3つで全景(横から)。後円部。くびれ部。前方部。


遠景。
以上2022年3月撮影。
前回の失敗を反省して、古墳の位置する台地の北側からアタックする予定でしたが、リベンジの思いが強く、前回と同じ南側から入っていきました。やはり、藪が密生していましたが、5月に訪問した前回と異なり少し見通しがききました。小さな谷を下った西側に高まりがあり、上っていくと平坦地があり「熊野神社」と記された石碑が建立されていました。そこが夢にまで見た古墳の後円部でした。
ただし、後円部南側にある4基の円墳を探し、かろうじてそれらしき高まりを1基見つけましたが、他は藪が激しく断念しました。「4基を追うもの1基しか得ず。」
藤原二郎・小野寺智哉・辻秀人・東北学院大学考古学ゼミナールによる「宮城県色麻町熊野神社古墳測量調査報告」によると、「熊野神社古墳の復元値は、全長約63m、後円部直径約37.5m、墳頂平坦面径約14m、後円部の墳麓と墳頂部の比高差は約5m、前方部長約25.5m、前方部前端幅約25mで、前方部の墳麓と墳頂部の比高差は約3mである。」(p.93)と述べられています。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。
後円部墳頂の石碑。石碑と祠。
後円部墳頂(横から)。
3つで全景(横から)。後円部。くびれ部。前方部。
遠景。
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