2022年12月31日
「番外 千葉県の古墳」シリーズの一時中断について
12月25日におっさんの地元の豊橋で、「三ツ山古墳」の現地説明会がありました。
また、本格的な冬のシーズンが到来する直前の12月上旬に、関東地方北部の未訪問古墳や消滅大型古墳を日帰り(0泊3日)で訪問しました。
そのため、「番外 千葉県の古墳」シリーズを一時中断して、それらの古墳を優先して紹介していきたいと思います。
また、本格的な冬のシーズンが到来する直前の12月上旬に、関東地方北部の未訪問古墳や消滅大型古墳を日帰り(0泊3日)で訪問しました。
そのため、「番外 千葉県の古墳」シリーズを一時中断して、それらの古墳を優先して紹介していきたいと思います。
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2022年12月29日
番外 千葉県の古墳⑦ 前原古墳群(1号墳・2号墳) 我孫子市 いずれも方墳 いずれも辺約15m
水神山古墳(ランキング832位)を訪問した際、説明板にこの古墳群のことが記されており、立ち寄ったものです。
HP.「あびこ電脳考古博物館」の「前原古墳群」の項目で、「我孫子市の西部、眼下に手賀沼を望む台地の縁辺に位置しています。 2009年(平成21年)に確認調査が行われ、一辺役(おっさん註 ママ、「約」の誤り)15メートルの2基の方墳が確認されました。墳丘は削平されており、周溝だけが確認できました。 周溝の中から出土した土器から3世紀後半に築造されたと考えられ、現在、我孫子市内で最も古い古墳です。」と記されています。
余談ですが、上記のように、墳丘が削平されており、周溝だけが確認された状態で、どうして「方墳」と断定したのでしょうか。一般的に「方形周溝墓」は弥生時代の墓制と言われていますが、大分県宇佐市の赤塚古墳(ランキング1284位)に隣接する方形周溝墓群は、古墳時代前期の築造と考えられているので、単純に弥生時代は「方形周溝墓」、古墳時代は「方墳」とはならないような気がしますが・・・。2019年5月22日のブログ、「1284-4 赤塚古墳のおまけの「方形周溝墓群」」で同じ趣旨のことを書いています。
我孫子市教委の説明板。
遠景。右が1号墳、左が2号墳。
以上2015年6月撮影。
HP.「あびこ電脳考古博物館」の「前原古墳群」の項目で、「我孫子市の西部、眼下に手賀沼を望む台地の縁辺に位置しています。 2009年(平成21年)に確認調査が行われ、一辺役(おっさん註 ママ、「約」の誤り)15メートルの2基の方墳が確認されました。墳丘は削平されており、周溝だけが確認できました。 周溝の中から出土した土器から3世紀後半に築造されたと考えられ、現在、我孫子市内で最も古い古墳です。」と記されています。
余談ですが、上記のように、墳丘が削平されており、周溝だけが確認された状態で、どうして「方墳」と断定したのでしょうか。一般的に「方形周溝墓」は弥生時代の墓制と言われていますが、大分県宇佐市の赤塚古墳(ランキング1284位)に隣接する方形周溝墓群は、古墳時代前期の築造と考えられているので、単純に弥生時代は「方形周溝墓」、古墳時代は「方墳」とはならないような気がしますが・・・。2019年5月22日のブログ、「1284-4 赤塚古墳のおまけの「方形周溝墓群」」で同じ趣旨のことを書いています。
我孫子市教委の説明板。
遠景。右が1号墳、左が2号墳。
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2022年12月27日
番外 千葉県の古墳⑥ー6 公津原39号墳[公津原古墳群天王・舟塚支群] 成田市 方墳 辺36m
公津原古墳群の中では、西端に位置する古墳です。麻賀多(まがた)神社の境内にあり、「伊都許利命(いつこりのみこと)」の墳墓と伝承されている古墳です。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「公津原39号墳【千葉県成田市】」(2020/01/15)の項目で、「上の画像は公津原古墳群中の天王・舟塚古墳群に属する1基、公津原39号墳を撮影したものです。一辺35×36m、高さ5mほどの方墳。」と記されています。
また、同ブログで、「こちらは墳丘西側に半分露出した状態で残る箱式石棺。文久4年(1864)に大木の根元から発見されたと伝わるもの(別の古墳から出土したものをこの場所に移した可能性あり)で、手前の側壁は長さ2.1m、厚さ16cmと大きく、蓋石には2枚の石材が用いられています。 この石棺から出土したと伝わる大刀、小札、鉄鏃、滑石製模造品、金環、土玉が神社に伝わっています。」、「その脇には、同じく別の古墳から出土した可能性のある石材が2枚置かれています。」と記されているので、「おまけ」という位置付けで絵を掲載しました。
「公津原古墳群」を構成する古墳のひとつとして、千葉県の史跡に指定されています。
余談ですが、「麻賀多(まがた)神社」という名称で、「勾玉(まがたま)」をイメージしてしまいました。公津原古墳群の3支群の中で、北部に位置する「八代台支群」に「玉造」という地名があり、調べてみたらなんと古墳時代前期から中期にかけての「八代玉造遺跡」がありました。ただし、この遺跡は「勾玉」ではなく「管玉」の生産遺跡でした。「残念だらー」。
標識。
成田市教委・麻賀多神社の説明板。
標柱。
石柱。
墳頂。
墳丘の一部。南から。
ほぼ全景。西から。
おまけ
標識と石材(蓋石か)。

標識と石棺。
以上2015年6月撮影。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「公津原39号墳【千葉県成田市】」(2020/01/15)の項目で、「上の画像は公津原古墳群中の天王・舟塚古墳群に属する1基、公津原39号墳を撮影したものです。一辺35×36m、高さ5mほどの方墳。」と記されています。
また、同ブログで、「こちらは墳丘西側に半分露出した状態で残る箱式石棺。文久4年(1864)に大木の根元から発見されたと伝わるもの(別の古墳から出土したものをこの場所に移した可能性あり)で、手前の側壁は長さ2.1m、厚さ16cmと大きく、蓋石には2枚の石材が用いられています。 この石棺から出土したと伝わる大刀、小札、鉄鏃、滑石製模造品、金環、土玉が神社に伝わっています。」、「その脇には、同じく別の古墳から出土した可能性のある石材が2枚置かれています。」と記されているので、「おまけ」という位置付けで絵を掲載しました。
「公津原古墳群」を構成する古墳のひとつとして、千葉県の史跡に指定されています。
余談ですが、「麻賀多(まがた)神社」という名称で、「勾玉(まがたま)」をイメージしてしまいました。公津原古墳群の3支群の中で、北部に位置する「八代台支群」に「玉造」という地名があり、調べてみたらなんと古墳時代前期から中期にかけての「八代玉造遺跡」がありました。ただし、この遺跡は「勾玉」ではなく「管玉」の生産遺跡でした。「残念だらー」。
標識。
成田市教委・麻賀多神社の説明板。
標柱。
石柱。
墳頂。
墳丘の一部。南から。
ほぼ全景。西から。
おまけ
標識と石材(蓋石か)。
標識と石棺。
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2022年12月25日
番外 千葉県の古墳⑥ー5 公津原16号墳(石塚古墳)[公津原古墳群天王・舟塚支群] 成田市 現存35m
前項の公津原9号墳と同じく天王・舟塚支群に属する古墳です。ただし、9号墳や船塚古墳(ランキング498位)の位置している「赤坂公園」内にはなく、そこから道路をはさんで、約250m北北西の集合住宅内に整備・保存されています。この古墳の東側に隣接して、12号墳から15号墳(いずれも円墳)がありますが、当時「前方後円墳フェチ」のおっさんは見逃していました。「もったいないだらー」。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「石塚古墳‐公津原10号墳‐公津原11号墳【千葉県成田市】」(2020/01/20)の項目で、「こちら(おっさん註 石塚古墳(公津原16号墳)のこと)は全長33m、高さ3m(成田市史では全長40m、高さ4m、前方部幅18m)の前方後円墳です。」と記されています。
また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「石塚古墳(天王・船塚16号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現存35m 後円部:高(おっさん註 ママ、径の誤りか)現存21m 前方部:幅現存17m 特記事項 県史跡(公津原古墳群)」と記されています。
ここでは、33m<35m<40mの間をとって「現存35m」としました。
また、上記のように、「公津原古墳群」を構成する古墳のひとつとして、千葉県の史跡に指定されています。
標識。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。
以上2015年6月撮影。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「石塚古墳‐公津原10号墳‐公津原11号墳【千葉県成田市】」(2020/01/20)の項目で、「こちら(おっさん註 石塚古墳(公津原16号墳)のこと)は全長33m、高さ3m(成田市史では全長40m、高さ4m、前方部幅18m)の前方後円墳です。」と記されています。
また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「石塚古墳(天王・船塚16号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現存35m 後円部:高(おっさん註 ママ、径の誤りか)現存21m 前方部:幅現存17m 特記事項 県史跡(公津原古墳群)」と記されています。
ここでは、33m<35m<40mの間をとって「現存35m」としました。
また、上記のように、「公津原古墳群」を構成する古墳のひとつとして、千葉県の史跡に指定されています。
標識。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
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2022年12月23日
番外 千葉県の古墳⑥ー4 公津原9号墳[公津原古墳群天王・舟塚支群] 成田市 円墳 径13m
公津原古墳群の中央部に位置する天王・舟塚支群に属する古墳です。この古墳は、公津原古墳群中で最大規模の前方後方墳(長方形墳という説もある)である船塚古墳(公津原8号墳)(ランキング498位)と同じ「赤坂公園」内に位置している円墳です。
10年ほど前に、初めて公津原古墳群の船塚古墳を訪問した際に立ち寄り、絵を撮ったものです。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「船塚古墳‐公津原9号墳【千葉県成田市】」(2020/01/22)の項目で、「こちらは船塚古墳と同じ公園内に保存された径13m、高さ2mの円墳です。公園として整備されてはいますが、後世の改変によって大きく周囲が削られているようです。」と記されています。
標識。
全景。
全景。
以上2012年3月撮影。
10年ほど前に、初めて公津原古墳群の船塚古墳を訪問した際に立ち寄り、絵を撮ったものです。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「船塚古墳‐公津原9号墳【千葉県成田市】」(2020/01/22)の項目で、「こちらは船塚古墳と同じ公園内に保存された径13m、高さ2mの円墳です。公園として整備されてはいますが、後世の改変によって大きく周囲が削られているようです。」と記されています。
標識。
全景。
全景。
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2022年12月21日
番外 千葉県の古墳⑥ー3 公津原3号墳(瓢塚古墳)[公津原古墳群瓢塚支群] 成田市 現存52m
この古墳は、前回の公津原1号墳と同じく、公津原古墳群瓢塚支群に属しており、支群中規模最大で、唯一の前方後円墳です。
当初、「番外 千葉県の古墳⑥ー2」として書いていくつもりでしたが、標識では、「全長 65m 高さ 3m」と記されていたので、「補遺[948-8]」と書き改めました。
ところが、ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「瓢塚古墳‐公津原1号墳‐2号墳【千葉県成田市】」(2020/01/24)の項目で、「規模について、現地の看板では「全長65m、高さ3m」と記載されていますが、成田市史では「全長35m、後円部径20m、高さ6m、前方部幅15m、高さ4m」とされており、資料によって大きくバラついています。」と記されており、再検討を余儀なくされました。
ランキングの参考にさせてもらったHP.『古墳探訪』(残念ながら、現在見ることができません。)では、65mの古墳としては掲載されていませんでした。また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「郷部瓢塚古墳(瓢塚5号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現存52m 後円部:径30m 前方部:長現存21m 特記事項【周濠】相似形。【その他】他に円墳4基で群を構成。県史跡(公津原古墳群)」と記されていました。
後者の「瓢塚5号墳」=前者の「瓢塚古墳」=標識の「公津原3号墳(瓢塚古墳)」と理解して、後者の「墳長:現存52m」説を採りました。そのため、結果的にタイトルは、「番外 千葉県の古墳⑥ー2」としました。「あな、ややこしや」。
標識。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

後円部墳頂。
前方部から後円部。
ほぼ全景。手前が前方部、左奥が後円部。
全景。手前が前方部、右奥が後円部。

やや全景(横から)。右が後円部、左が前方部。南東から。「木の枝が邪魔じゃん」。
以上2015年6月撮影。
当初、「番外 千葉県の古墳⑥ー2」として書いていくつもりでしたが、標識では、「全長 65m 高さ 3m」と記されていたので、「補遺[948-8]」と書き改めました。
ところが、ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「瓢塚古墳‐公津原1号墳‐2号墳【千葉県成田市】」(2020/01/24)の項目で、「規模について、現地の看板では「全長65m、高さ3m」と記載されていますが、成田市史では「全長35m、後円部径20m、高さ6m、前方部幅15m、高さ4m」とされており、資料によって大きくバラついています。」と記されており、再検討を余儀なくされました。
ランキングの参考にさせてもらったHP.『古墳探訪』(残念ながら、現在見ることができません。)では、65mの古墳としては掲載されていませんでした。また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「郷部瓢塚古墳(瓢塚5号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現存52m 後円部:径30m 前方部:長現存21m 特記事項【周濠】相似形。【その他】他に円墳4基で群を構成。県史跡(公津原古墳群)」と記されていました。
後者の「瓢塚5号墳」=前者の「瓢塚古墳」=標識の「公津原3号墳(瓢塚古墳)」と理解して、後者の「墳長:現存52m」説を採りました。そのため、結果的にタイトルは、「番外 千葉県の古墳⑥ー2」としました。「あな、ややこしや」。
標識。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
後円部墳頂。
前方部から後円部。
ほぼ全景。手前が前方部、左奥が後円部。
全景。手前が前方部、右奥が後円部。
やや全景(横から)。右が後円部、左が前方部。南東から。「木の枝が邪魔じゃん」。
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2022年12月19日
番外 千葉県の古墳⑥ー2 公津原1号墳[公津原古墳群瓢塚支群] 成田市 円墳 径25m
この古墳は、前回の瓢塚41号墳と同じく、公津原古墳群で南部に位置する瓢塚支群に属しています。古墳は、「向谷津児童公園」に2~4号墳とともに整備・保存されています。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「瓢塚古墳‐公津原1号墳‐2号墳【千葉県成田市】」(2020/01/24)の項目で、「公津原1号墳は公津原3号墳の南側に存在している径25m、高さ2mの円墳です。当古墳群の現存する古墳の中では最も南に位置している墳丘となります。」と記されています。
「公津原古墳群」を構成する古墳として、千葉県の史跡に指定されています。
標識。
全景。南東から。
全景。南南西から。
以上2015年6月撮影。
ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「瓢塚古墳‐公津原1号墳‐2号墳【千葉県成田市】」(2020/01/24)の項目で、「公津原1号墳は公津原3号墳の南側に存在している径25m、高さ2mの円墳です。当古墳群の現存する古墳の中では最も南に位置している墳丘となります。」と記されています。
「公津原古墳群」を構成する古墳として、千葉県の史跡に指定されています。
標識。
全景。南東から。
全景。南南西から。
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2022年12月17日
番外 千葉県の古墳⑥ー1 瓢塚41号墳[公津原古墳群瓢塚支群] 成田市→栄町 方墳 17.2×20m
下記のように、この古墳は、成田市の瓢塚古墳群(公津原古墳群の支群の一つ)のうちの1基だったそうです。墳丘は消失しましたが、石室部分は、栄町の「房総のむら」に移築・復元されています。前回の龍角寺108号墳石室の隣に位置しています。そのため、タイトルでは、「成田市→栄町」としました。
説明板では、「この古墳は、瓢塚古墳群48基のうちの1基で、開墾などで削られていましたが、昭和45年5月に発掘調査した結果、東西辺17.2m、南北辺20mの方墳でした。」と記されています。
説明板。
石室。
以上2012年3月撮影。
説明板では、「この古墳は、瓢塚古墳群48基のうちの1基で、開墾などで削られていましたが、昭和45年5月に発掘調査した結果、東西辺17.2m、南北辺20mの方墳でした。」と記されています。
説明板。
石室。
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2022年12月15日
番外 千葉県の古墳⑤ー3 龍角寺108号墳[龍角寺古墳群] 栄町 方墳 辺17m
この古墳は、すでに墳丘部分が消失し、石室部分のみが「房総のむら」に残されています。
栄町教育委員会のHP.の「龍角寺古墳群一覧表 遺跡番号77 平成20年3月現在」の項目で、「番号 K108、墳形 方墳、一辺長 17、高さ1.3、埴輪の有無 無、埋葬施設 切石積 板石組横穴式石室、備考 煙滅7世紀第3」と記されています。
「龍角寺古墳群・岩屋古墳」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
説明板。
石室。
以上2012年3月撮影。
栄町教育委員会のHP.の「龍角寺古墳群一覧表 遺跡番号77 平成20年3月現在」の項目で、「番号 K108、墳形 方墳、一辺長 17、高さ1.3、埴輪の有無 無、埋葬施設 切石積 板石組横穴式石室、備考 煙滅7世紀第3」と記されています。
「龍角寺古墳群・岩屋古墳」を構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
説明板。
石室。
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2022年12月13日
番外 千葉県の古墳⑤ー2 龍角寺101号墳[龍角寺古墳群] 成田市 31m
前回、ケチなおっさんの情けない話を書きましたが、この古墳が目当てで「房総のむら」有料エリアに入りました。古墳の墳丘上には、復原された形象埴輪が並べられ、「絵になる」古墳というのがその理由でした。「下の絵は、ちっとも映えてないじゃん」。
「栄町教育委員会のHP.の「龍角寺古墳群一覧表 遺跡番号77 平成20年3月現在」の項目で、「番号 K101、墳形 円墳から前方後円墳へ改変、全長 30・5、高さ3・6、埴輪の有無 形象埴輪多量、埋葬施設 第1木棺直葬・第3箱形石棺・第4箱式石棺、備考 二重周溝 6世紀前半から末葉・風土記の丘調査」と記されています。
また、奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」にある「千葉県成田市所在竜角寺古墳群第101号古墳発掘調査報告書」の「所収遺跡 遺跡概要 特記事項」では、「二重周溝と造り出し付きの中堤を設けた円墳として築造された後、前方部が付加されて帆立貝形前方後円墳に改造されていた。当初円墳の墳丘規模で径24.1mである。4か所の主体部を持ち、墳丘には埴輪を有する。形象埴輪と円筒埴輪があり、形象埴輪には人物、動物および家がある。」と記されています。
ここでは、前者で示された改変後の帆立貝形前方後円墳としての墳丘データを採用しました。
「龍角寺古墳群・岩屋古墳」構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
案内板。説明版。

人物埴輪部分。
ほぼ全景。
以上2012年3月撮影。
「栄町教育委員会のHP.の「龍角寺古墳群一覧表 遺跡番号77 平成20年3月現在」の項目で、「番号 K101、墳形 円墳から前方後円墳へ改変、全長 30・5、高さ3・6、埴輪の有無 形象埴輪多量、埋葬施設 第1木棺直葬・第3箱形石棺・第4箱式石棺、備考 二重周溝 6世紀前半から末葉・風土記の丘調査」と記されています。
また、奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」にある「千葉県成田市所在竜角寺古墳群第101号古墳発掘調査報告書」の「所収遺跡 遺跡概要 特記事項」では、「二重周溝と造り出し付きの中堤を設けた円墳として築造された後、前方部が付加されて帆立貝形前方後円墳に改造されていた。当初円墳の墳丘規模で径24.1mである。4か所の主体部を持ち、墳丘には埴輪を有する。形象埴輪と円筒埴輪があり、形象埴輪には人物、動物および家がある。」と記されています。
ここでは、前者で示された改変後の帆立貝形前方後円墳としての墳丘データを採用しました。
「龍角寺古墳群・岩屋古墳」構成する古墳のひとつとして、国の史跡に指定されています。
案内板。説明版。
人物埴輪部分。
ほぼ全景。
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