2023年04月30日

補遺[1227-31] 三ノ分目(さんのわけめ)1号墳[豊浦古墳群] 香取市 (伝)60~70m

 「消滅古墳」です。三ノ分目大塚山古墳から、国道をはさんで約50m北に位置していました。
 一年ほど前に、香取市内の「城山古墳群」を訪問しました。その編集中に下記のデータベースに掲載されていた1号墳の存在に気づき、墳長60m以上のランキング古墳であることに愕然としました。三ノ分目大塚山古墳は、2度訪問していましたが、「指呼の間」にあるこの1号墳は見逃していたからです。「あとの祭りだらー」。
 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「三ノ分目1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:(伝)60~70m 特記事項【その他】1948年頃に消滅。」と記されています。
 ここでは、墳長60mとしてランキングしました。


 前方部左隅から後円部跡付近か。


 くびれ部跡付近か。三ノ分目186付近。


 三ノ分目大塚山古墳の後円部から見る跡地。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月28日

番外 千葉県の古墳㉔ 根戸船戸2号墳 我孫子市 22m

 古墳は日立精機2号墳から約400m南南西の「根戸古墳公園」内に保存されています。ただし、遊具も設置されている公園なので、標柱や説明板がなければ、遊び場としての築山と思っても不思議ではありませんでした。
 南側には手賀沼があり、古墳の被葬者は手賀沼の水運を支配した人物であったかもしれないと思いました。
 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「根戸船戸2号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:22m 後円部:径12m 高1.6m 前方部:幅14m 高1.6m 特記事項【その他】墳丘に若干の崩れはあるものの完存。しかし中央部に設けられた石室にあたる部分が陥没。」と記されています。
 

 標柱。我孫子市の説明板。


 後円部右側。左側。

 前方部右側。左側。


 後円部墳頂。


 ほぼ全景。右手前が前方部、左奥が後円部。

 全景(横から)。右が前方部、左が後円部。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月26日

番外 千葉県の古墳㉓ー2 日立精機2号墳 我孫子市 30m

 この2号墳は、1号墳跡の約300m南東に位置しており、「我孫子古墳公園」内に、整備・保存されています。公園内には、説明板や1/20復元模型が設置され、「日立精機株式会社跡地」銘の記念碑も建てられていて、古墳名の由来も容易に想像できます。
 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「日立精機2号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:30m 後円部:径18m 高2.5m 前方部:幅21m 長14m 高2.8~2.9m 特記事項【周濠】あり(相似形)。」と記されています。
 古墳は、我孫子市の史跡に指定されています。
 余談ですが、早朝の6時台にウロウロしていたので、公園内を横切って駅に向かう学生や会社員に「不審者」と思われていたようです。


 公園の案内板。

 記念碑(「日立精機株式会社跡地」)。

 我孫子市教委の説明板。

 1/20復元模型。


 後円部右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。


 中央が石室跡。


 全景。手前が前方部、奥が後円部。

 全景。手前が前方部、奥が後円部。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月24日

番外 千葉県の古墳㉓ー1 日立精機1号墳 我孫子市 前方後方墳 45m

 消滅古墳です。現在は、高層マンションの敷地内となっているので、「不審者」のおっさんは立ち入ることができませんでした。
 前方後方墳は、東日本の前期古墳によくみられる墳形です。ただし、この古墳は例外的に、下記のデータベースで「10後半以降」と示されているように、後期末以降に築造されたと考えられています。池上悟さんは、「図7 南関東の古墳編年」の中で、この古墳を11期と図示しており、終末期に位置づけています。(「九関東 【関東南部】」p.454、広瀬和夫・和田晴吾編 『講座日本の考古学7 古墳時代上』所収)
 ちなみに、千葉県で日立精機1号墳とほぼ同じ時期に築造された前方後方墳として、市原市の六孫王原古墳(2019年3月13日のブログで紹介)があり、規模もほぼ同じです。
 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「日立精機1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:45m 後円(ママ)部:径(ママ)18m 高2.5m 前方部:幅23m 長27m 高2m 時期 10後半以降 特記事項【周濠】あり(形態不明、全周か)。」と記されています。
 余談ですが、前にも書いたことがありますが「○○期」は、古墳研究のバイブル的存在『前方後円墳集成』で示された時期区分(編年)で、1~4期前半が古墳時代前期、4期後半~8期が中期、9・10期が後期とおっさんは理解しています。
 広瀬和雄さんは、上記『講座』の「序」の中で、「この講座では各地の古墳を12期に編年している。1期から10期は、『前方後円墳集成』編年(広瀬和雄 一九九二年「前方後円墳の畿内編年」 近藤義郎編『前方後円墳集成』近畿編、山川出版社)の1~10期に並行し、4期は和田編年(和田晴吾 一九八七年「古墳時代の時期区分をめぐって」 『考古学研究』第三四巻第二号)の4・5期に並行する。11期は陶邑編年のTK217並行期とし、12期はそれ以降とする」(序ⅹⅴⅰ)と述べています。


 跡地付近。我孫子2丁目‐5付近。


 跡地付近。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月22日

番外 千葉県の古墳㉒ー3 中高根6号墳[中高根古墳群] 市原市 円墳 径18m

 前回の4号墳から約40m北の駐車場内に残されている古墳です。下記のブログでも書かれていますが、コンクリートブロックで囲まれた墳丘は、一見方墳にみえますが、円墳が後世に改変されて現在の形になったようです。
 4号墳の項目でも触れましたが、この6号墳の墳頂にも、数基の石碑が建立されていました。中高根古墳群で4号墳と6号墳のみが現存しているのは、地域の人々の信仰心が、古墳を破壊から救ったと妄想してしまいました。
 ふっき~さんのブログ「古墳探訪記」の「千葉県市原市光風台 中高根6号墳」(2020年07月21日)の項目で、「駐車場の真ん中に保存されています 直径約18メートル、高さ約2メートルの円墳。ブロックに囲まれているので、現状は方墳です。」と記されています。


 墳頂。


 全景。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月20日

番外 千葉県の古墳㉒ー2 中高根4号墳[中高根古墳群」 市原市 円墳 径20m

 前回の1号墳から約50m北、「百合ケ丘公民館」の北側に隣接している古墳です。墳頂には、祠が祀られていました。
 ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」の「中高根4号墳ー6号墳【千葉県市原市】」(2021/05/17)の項目で、「中高根古墳群は養老川左岸の台地上、13基からなる古墳群です。ほとんどは宅地造成により消滅していますが、うち2基が住宅地の中に保存されています。 上の画像はこのうちの1基、径20m、高さ3mの円墳である中高根4号墳を撮影したものです。」と記されています。


 墳丘の一部。南から。


 墳頂。


 ほぼ全景。北西から。


 全景。西から。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月18日

番外 千葉県の古墳㉒ー1 中高根1号墳[中高根古墳群] 市原市 55~60m

 「光風台」と呼ばれる台地上に立地していた消滅古墳です。現在は住宅地となっています。
 下記のデータベースによると、「全長55~60m」ということなので後者=「補遺」の可能性も考えられますが、前者も否定できないので、ここでは「番外」としました。
 奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「中高根1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:55~60m 後円部:高5~6m 特記事項【その他】1978年ごろ未調査のまま消滅。」と記されています。


 跡地(後円部)付近。西から。中高根1168-73付近。


 跡地(後円部)付近。南から。中高根1168-73付近。


 跡地(後円部)付近。南から。中高根1168-67付近。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月16日

追加735 大厩(おおまや)二子塚古墳 市原市 71(70)m

 2015年6月以降2度目の訪問となりました。詳細は前回のブログ(2018年8月13日に掲載)で書きましたので割愛しました。
 ただし、そのブログで「標柱」の絵を撮り忘れ、「悔いが残った」ことを書きましたが、今回は見つけることができず、しかたなく杭の絵を撮りました。
 また、訪問時の失敗談も書きましたが、今回もやっちまいました。訪問を終え墳丘から降りる際に、用水路の反対側から駐車スペースに向かいましたが、行けども行けども崖が高くなり、用水を渡ることも容易ではありませんでした。遠回りして、ようやくたどり着きましたがヘトヘトになってしまいました。「古墳に嫌われとるだらー」。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。

 後円部墳頂。


 墳丘上の赤色杭。


 全景。右が前方部、左奥が後円部。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月14日

追加 「番外 稲荷台1号墳 千葉県市原市 円墳 径28m」

 「王賜」銘鉄剣が出土したことで著名な古墳です。築造当時の墳丘は消滅していますが、跡地に、三分の一に縮小復元された「古墳」が残されています。2009年6月以来、2度目の訪問になりました。
 すでに、2021年6月21日のブログで紹介していますので詳細は割愛します。
 ただ、近傍に律令時代の「古東海道」が通っていたと推定されており、「古代東海道ルートの原形は、すでに古墳時代には形成されていたと考えられる。」と須田勉さんは述べています。『ならび建つ国分僧寺・尼寺 上総国分寺』(pp.9~10)


 標柱。

 市教委の説明板の部分拡大。


 三分の一復元古墳全景。
        以上2023年2月撮影。  


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2023年04月12日

番外 千葉県の古墳㉑ー3 神門3号墳[神門古墳群] 市原市 47m以上(54m)

 4号墳と同じく「消滅古墳」で、現在は駐車場になっています。4号墳の約50m北に位置していました。また、北東に隣接して上総国分(僧)寺が建立されており、この地が律令時代にも重要な場所であったと考えられます。
 市原市のHP.の「I’Museum」の「神門古墳群(弥生・古墳)」の項目で、「 国分寺台地区の西縁に築かれた前方後円形の墳墓群です。弥生時代終末期に、5号墳・4号墳・3号墳が順に築造されたと推定されています。いずれも墳丘は高く盛り上げられており、奈良時代に建立された上総国分寺の寺域はこれらをよけて設計されています。 3基のうち、全長が47メートルを超える3号墳(上記の写真)からは鉄槍・鉄剣・ガラス玉など多数の副葬品が出土しており、埋葬施設を埋めたあとの儀式で使われた大量の土器も見つかっています。これらの土器には手焙形土器や櫛描文装飾の壺形土器など弥生時代終末期の東海地方西部以西の特徴を持つ土器が含まれています。近い時期に市内では、神門3号墳と似た丸い墳丘を持つ小田部古墳のような墳墓と、諏訪台33号墳や東間部多15号墳のような前方後方形の墳墓が両方みとめられます。」と記されています。
 また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「神門3号墳」の項目でも、「墳丘 形状:前方後円 墳長:47、5以上 後円部:径34m 高5、1m 前方部:幅12以上 長15以上 特記事項【周濠】あり。」と記されています。
 ただし、田中裕さんは、「養老川流域の神門古墳群には、「纏向型前方後円墳」(寺澤1988)として知られる神門5号墳(43m)・4号墳(46m)・3号墳(54m)が順に築かれた。」(「千葉県域の前期古墳と集落・土器群の動向」p.146、『野本将軍塚古墳と東国の前期古墳』所収)と述べています。そのため、タイトルを「47m以上(54m)」としました。


 跡地付近。東から。
        総社4-8-18付近。

 跡地付近。西から。
        以上2023年2月撮影。  


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