2018年06月21日

580→[1227] 新皇塚古墳 千葉県市原市 前方後方墳 80→60m

 台地の先端部分に位置し、調査時は前方部と後方部の一部が削平され、方墳状態だったそうです。この古墳の名称は、「新皇」と称して関東を支配した平将門の墓という伝説からつけられています。また、墳丘上には将門を供養する宝篋印塔が建てられていましたが、現在は上総国分寺跡に移動しているそうです。訪問時、古墳の跡地は住宅団地になっていると思い込んで絵を撮っていましたが、その足元が跡地付近であったようです。
 周辺には、北野天神山(菊間権現山)古墳(ランキング438位)や菊間東関山古墳・菊間姫宮古墳などがあり、菊間古墳群を構成していました。


 跡地付近から団地を見る。
580→[1227] 新皇塚古墳 千葉県市原市 前方後方墳 80→60m


 団地の左側の先にある高台が古墳跡地。「見えんじゃん」。
580→[1227] 新皇塚古墳 千葉県市原市 前方後方墳 80→60m


 絵の右側の先が古墳跡地。「これも見えんじゃん」。
580→[1227] 新皇塚古墳 千葉県市原市 前方後方墳 80→60m
            以上2015年6月撮影。


     追記

 ランキングの参考にさせていただいたHP.『古墳探訪』(残念ながら、現在このHP.は閉鎖され、おっさんの手元にはそのコピーしかありません)では、「新皇塚古墳 前方後方墳 4世紀後半 千葉県市原市菊間北野 80m」と記されていました。
 ただし、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「新皇塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方? 墳長:推定60m 後円(ママ)部:径(ママ)40m 高7.1m 特記事項【周濠】あり(幅9m、深さ0.6~0.7m)。【その他】前方部は調査時に遺存していなかったが、地元住民の証言と周濠の状況などから前方後方墳と推定。」と記されています。
 そのため、タイトルを「580→[1227] 80→60m」と変更しました。 



Posted by じこま at 11:33│Comments(0)
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