2021年03月31日

追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m

 古墳は、造山古墳の前方部西側の約50m西に築造されています。造山古墳群の中では、唯一の方墳です。
 西田和浩さんは、「この成果(おっさん註 2015年度に実施された発掘調査)から、第二古墳の構造がみえてきた。墳形は従来の推測どおり方墳で、葺石と周溝をもち一辺が三〇メートルほどになることがわかった。第二古墳はこれまで一辺二〇メートルの方墳とされてきたが、発掘によって一まわり大きいことが確認できた。」(『吉備の超巨大古墳 造山古墳群』pp.26~27)と述べています。
 また、同上書では、「第二古墳は五世紀中ごろの築造で、五世紀初頭につくられた造山古墳と同時期ではなく、陪塚とは考えにくい。」(p.11)と記しています。
 ただし、岡山市教育委員会が2000年に発行した報告書『造山2号古墳』では、「第2号古墳は、調査結果や周辺の観察から一辺40m程度の二段築成の古墳と考えられる。」(p.29)と記されていました。
 古墳は、国の史跡に指定されています。


 説明板。説明板の一部拡大。
追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m
追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m


 残存部全景。南東から。
追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m

 残存部全景。南から。
追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m

 全景。南から。
追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m
            以上2021年2月撮影。


 旧説明板。
追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m
            「切れてるじゃん」。

 残存部全景。南東から。
追加671-2 千足古墳のおまけの「造山第2古墳」 岡山県岡山市 方墳 辺30(40)m
            以上2014年3月撮影。



Posted by じこま at 08:08│Comments(5)
この記事へのコメント
岡山 吉備の国ですね。
先日、NHKのEテレで 箸墓古墳と全国の前方後円墳のつながりが語られていました。吉備の古墳から出土している長い筒状の土器(墳丘の上で、祭祀に使った?)が見つかった、土器の形や文様も吉備で出土しているものと同じというだけでなく、「土」が吉備の土だったというようなことだったと思います(記憶で書いているので すみません) じこまさん、古墳関係の本をたくさん、お読みのようですから、すでに、ご存知のことかと思います。岡山の前方後円墳の記事だったので、先日のEテレを思い出しました。
Posted by かんちゃん at 2021年03月31日 10:16
 コメントありがとうございます。
 吉備と讃岐の古墳見学を日帰りで行ってきました。
 先日のEテレの番組見てました。途中の日本地図の画面で、東海・関東地方が方墳マークになっており、前方後方形ではないことに違和感を感じましたが・・・。
 前方後円墳が、西日本の各地(北部九州・イヅモ・キビ(瀬戸内)・近畿)の要素を取り入れて成立したことを、寺沢薫さんが『王権誕生』で【前方後円墳への過程】(p.265)としてうまくまとめています。また、「ヤマト王権の前方後円墳の誕生は『定型化』した箸墓古墳以前の『纏向型』にさかのぼり、その原型はキビに求めざるをえないのである。」(p.260)と独自の見解を述べています。
 埴輪のルーツが、弥生時代後期の吉備地方でに発達した特殊器台・特殊壺であることを論証したのが、近藤義郎・春成秀爾さんの論文「埴輪の起源」だったと思います。読んだことはありませんが・・・。近藤さんの一般的な解説書を目にした時は、「どすごい」発見と思いました。
 脱線しますが、おっさん的に戦後の考古学(弥生時代・古墳時代)の画期的な論文として、上記のほかに、小林行雄さんの、三角縁神獣鏡の同笵関係から邪馬台国の所在地論争に言及した「古墳の発生の歴史的意義」(『古墳時代の研究』所収)、佐原真さんの題名は忘れましたが、銅鐸の鈕の変化によってその新旧を明らかにした論文(『世界考古学体系』第?巻所収)、そして直接読んだことはありませんが、赤塚次郎さんの「東海系のトレース」だと思っています。
Posted by じこまじこま at 2021年03月31日 13:52
 コメントの補足です。佐原さんの論文は、『世界考古学体系』第2巻 弥生時代に掲載されていました。その後、『銅鐸の考古学』の中で、「銅鐸の鋳造」と題して、その論文(初出1960年、補遺1987年)が再録されているようです。
 石橋茂登さんは、その『銅鐸の考古学』の書評の中で、「佐原真の銅鐸研究を学史に残るものとした論文である。(中略)本論文をもって銅鐸研究は新しい段階に突入したと言って過言ではない、銅鐸研究史上最も重要な論文の一つである。」(『人文社会科学研究 第17号』p.332)と述べており、おっさんの主張を支持する人がいました。メデタシメデタシ。
 小林さんの論文については、否定する人を探すのが難しいと思いますが・・・。
 赤塚さんの論文は、その主旨しか目にしていませんが、マイナーな前方後方形墳丘墓(前方後方墳)や「飾られぬ土器」であるS字状口縁台付甕に着目して、伊勢湾岸地域をそのルーツとして、列島各地(主として東日本)への拡散現象を「東海系のトレース」と称して邪馬台国論争に一石を投じたと理解しています。
Posted by じこまじこま at 2021年04月01日 22:09
 コメントの追加です。箸墓古墳から、宮内庁書陵部が「発掘調査」して出土した特殊器台の胎土分析の結果、吉備地方の土を使用していたという件ですが、
初期のS字状口縁台付甕(S字甕)の胎土分析を行った結果興味深い結果が出ています。
 赤塚次郎さんは、「伊勢湾沿岸部の遺跡からほぼ普遍的に出土するS字甕には、必ず雲出川の砂粒を混和材として粘土と混ぜて土器をつくっていることが明らかとなった。厳密に言うと、二・三世紀中頃までのS字甕「A・B」類と呼んでいるものが中心ではある。粘土に含まれているものは、角閃石・黒雲母・ザクロ石の三つの鉱物を主体とする。いずれにしろ邪馬台国時代のS字甕はほぼこの厳格な約束事が伊勢湾沿岸部の部族社会にきちんと守られつづけたことは間違いない――。(中略)つまり、S字甕本体の製作に使用する砂粒は「雲出川」から採集したモノを使うが、後で付加する補充技法はその製作地の砂粒を使っているのだ。まさに製作地を示す指紋のように。」(『幻の王国・狗奴国を旅する』 pp.101~102)と述べています。
 また、雲出川流域には、向山古墳・錆山古墳・筒野古墳・西山古墳といった古墳時代前期の前方後方墳が築かれています。偶然の一致にしては・・・。「ビンゴだらー」。

   が必要であった。ではなぜ雲出の砂粒なのか。
Posted by じこまじこま at 2021年04月04日 11:58
 前のコメントの最後の文は、赤塚さんの本から引用しようとして、消し忘れました。148ページにも同様の内容をさらにふくらませた文章がありましたが、長くなるので削除しようと思いましたが・・・。
Posted by じこまじこま at 2021年04月04日 12:08
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