2024年11月20日
番外 愛知県の古墳53 樫尾1号墳 豊田市 円墳 径約10m
古墳は、豊田市博物館の敷地内に移設・復元されています。
説明板では、「野見山町(高橋地区)にあった直径約10mの円墳。」と記されています。
余談ですが、博物館の開館記念展「旅するジョウモンさん」に展示された国宝指定の火焔型土器見たさに訪問しました。世界のトヨタの「城下町」の博物館だけあって建物は立派で、展示された各地域の中期の土器は絢爛豪華でした。また、勝坂式・加曽利E式・大木囲式など昔聞いたことのある型式の土器を実見できたことは貴重な経験でした。ただし、おっさんは弥生前期の遠賀川式土器のシンプルで実用的な「スッピン」さに魅力を感じています。「天邪鬼ダラー」。 なお、展示品の撮影については、許可をもらっています。
余談の余談ですが、この機会に博物館周辺の古墳探訪をしましたので、次回から掲載していきたいと思います。
説明板。
石室入口。
石室内部。
全景。北から。
全景。東から。
おまけ
笹山遺跡出土の火焔型土器(国宝)。 以上2024年11月撮影。
説明板では、「野見山町(高橋地区)にあった直径約10mの円墳。」と記されています。
余談ですが、博物館の開館記念展「旅するジョウモンさん」に展示された国宝指定の火焔型土器見たさに訪問しました。世界のトヨタの「城下町」の博物館だけあって建物は立派で、展示された各地域の中期の土器は絢爛豪華でした。また、勝坂式・加曽利E式・大木囲式など昔聞いたことのある型式の土器を実見できたことは貴重な経験でした。ただし、おっさんは弥生前期の遠賀川式土器のシンプルで実用的な「スッピン」さに魅力を感じています。「天邪鬼ダラー」。 なお、展示品の撮影については、許可をもらっています。
余談の余談ですが、この機会に博物館周辺の古墳探訪をしましたので、次回から掲載していきたいと思います。
説明板。
石室入口。
石室内部。
全景。北から。
全景。東から。
おまけ
笹山遺跡出土の火焔型土器(国宝)。 以上2024年11月撮影。
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2024年11月18日
番外 愛知県の古墳㉟ー3 若宮2号墳[若宮古墳群] 西尾市 円墳 径約20m
前回の1号墳に続いて2号墳です。2号墳は1号墳の北に隣接する円墳です。墳頂には社殿が建立され、その西側斜面に標柱が建てられています。
西島庸介さんは、「1号墳は直径20m前後、高さ2mの円墳とみられる。現状では墳頂に稲荷社が造られている。」(p.504)(「87 若宮古墳群」、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
余談ですが、上記『新編西尾市史 資料編1 考古』に掲載された墳丘測量図(p.506)では、墳丘南側の等高線はかなり乱れていますが、北側は乱れがなく、一見すると東側の社殿部を造出しとする「造出し付円墳」に見えてしまいました。「目の錯覚ダラー」。
標柱「若宮第二古墳」。
墳頂。
墳丘の一部。
全景。南から。 以上2024年7月撮影。
西島庸介さんは、「1号墳は直径20m前後、高さ2mの円墳とみられる。現状では墳頂に稲荷社が造られている。」(p.504)(「87 若宮古墳群」、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
余談ですが、上記『新編西尾市史 資料編1 考古』に掲載された墳丘測量図(p.506)では、墳丘南側の等高線はかなり乱れていますが、北側は乱れがなく、一見すると東側の社殿部を造出しとする「造出し付円墳」に見えてしまいました。「目の錯覚ダラー」。
標柱「若宮第二古墳」。
墳頂。
墳丘の一部。
全景。南から。 以上2024年7月撮影。
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2024年11月16日
番外 愛知県の古墳㉟ー2 若宮1号墳[若宮古墳群] 西尾市 方墳(円墳) 約30×26m
古墳は、岡山丘陵の西端付近に立地する若宮古墳群に属しています。3号墳については、2024年7月31日のブログで紹介していましたが、この1号墳と2号墳は諸事情で掲載を控えていました。自主規制を解禁して掲載しました。
西島庸介さんは、「1号墳は直径26m、高さ3.5mの円墳とみられていたが、昭和63年の吉良町教育委員会の調査によって南北約30m、東西約26m、高さ4mの方墳ないし円墳と報告された。墳形は再測量調査でも確定されていないが、方墳の可能性が残されている。」(p.504)、「1号墳の築造時期については四獣形鏡などから古墳時代前期末葉~中期初頭の4世紀後葉~末葉と推定される。」(「87 若宮古墳群」、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
余談ですが、以前、同じ丘陵上にある善光寺沢南古墳(2024年8月2日に掲載)を紹介しましたが、この1号墳と善光寺沢南古墳とは、はぼ同時期に築造され、同形・同規模の可能性があるようです。
標柱「若宮第一古墳」。
墳頂。
全景。西から。
全景。南から。
全景。東から。 以上2024年7月撮影。
西島庸介さんは、「1号墳は直径26m、高さ3.5mの円墳とみられていたが、昭和63年の吉良町教育委員会の調査によって南北約30m、東西約26m、高さ4mの方墳ないし円墳と報告された。墳形は再測量調査でも確定されていないが、方墳の可能性が残されている。」(p.504)、「1号墳の築造時期については四獣形鏡などから古墳時代前期末葉~中期初頭の4世紀後葉~末葉と推定される。」(「87 若宮古墳群」、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
余談ですが、以前、同じ丘陵上にある善光寺沢南古墳(2024年8月2日に掲載)を紹介しましたが、この1号墳と善光寺沢南古墳とは、はぼ同時期に築造され、同形・同規模の可能性があるようです。
標柱「若宮第一古墳」。
墳頂。
全景。西から。
全景。南から。
全景。東から。 以上2024年7月撮影。
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2024年11月14日
番外 岐阜県の古墳⑱ー2 大洞平第2号古墳[大洞平古墳群] 飛騨市 方墳 辺23×26m
この古墳も前回の1号古墳と同じく、訪問の記憶がありません。おっさんは、円墳の1号墳と方墳の2号墳が近接して築造されているのはレアケースだと思いました。
岐阜県のHP.の「大洞平第二号古墳[おおぼらだいらだいにごうこふん]」の項目で、「大洞平第二号古墳は、一号墳の南西約37mの位置にある後期方墳である。基底部前面の長さ23.2m、東側面の長さ26.4m、背面の長さ22.8m、西側面の長さ22.6mで、前面の高さ4.12mである。内部主体は南西に開口した横穴式石室で、石室の全長11.92m、玄室の長さは4.92m、奥壁の幅2.0m、高さ1.92mである。天井は4枚の巨石をもって覆われている。羨道は長さ6.58m、幅1.32m、高さ1.64mである。副葬品については明らかでない。一号墳とならんで、ニツ塚古墳と呼ばれている。」と記されています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、上記のHP.では、「後期方墳」と記されていますが、前方後円墳の築造が終了した7世紀以降に方墳が築造されるケースが多いことから、「終末期の方墳」ではないかと思います。中井正幸さんも、「終末期には飛騨市大洞平2号墳や海具江古墳など一辺二五~三〇メートルの大型方墳が並立し、白鳳期瓦の出土から律令体制や仏教文化の浸透が早かったことを物語る。」(「六 東海 【東海西部】」p.333、広瀬和男・和田晴吾編『講座日本の考古学7 古墳時代上』所収)と述べています。
飛騨市教委の説明板。
石室入口。
全景。南から。
全景。北北東から。 以上2016年11月撮影。
岐阜県のHP.の「大洞平第二号古墳[おおぼらだいらだいにごうこふん]」の項目で、「大洞平第二号古墳は、一号墳の南西約37mの位置にある後期方墳である。基底部前面の長さ23.2m、東側面の長さ26.4m、背面の長さ22.8m、西側面の長さ22.6mで、前面の高さ4.12mである。内部主体は南西に開口した横穴式石室で、石室の全長11.92m、玄室の長さは4.92m、奥壁の幅2.0m、高さ1.92mである。天井は4枚の巨石をもって覆われている。羨道は長さ6.58m、幅1.32m、高さ1.64mである。副葬品については明らかでない。一号墳とならんで、ニツ塚古墳と呼ばれている。」と記されています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、上記のHP.では、「後期方墳」と記されていますが、前方後円墳の築造が終了した7世紀以降に方墳が築造されるケースが多いことから、「終末期の方墳」ではないかと思います。中井正幸さんも、「終末期には飛騨市大洞平2号墳や海具江古墳など一辺二五~三〇メートルの大型方墳が並立し、白鳳期瓦の出土から律令体制や仏教文化の浸透が早かったことを物語る。」(「六 東海 【東海西部】」p.333、広瀬和男・和田晴吾編『講座日本の考古学7 古墳時代上』所収)と述べています。
飛騨市教委の説明板。
石室入口。
全景。南から。
全景。北北東から。 以上2016年11月撮影。
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2024年11月12日
番外 岐阜県の古墳⑱ー1 大洞平第1号古墳[大洞平古墳群] 飛騨市 円墳 径20m
訪問の記憶がない古墳です。同じ古川町にある信包八幡神社古墳(ランキング958位)訪問の際に立ち寄ったものと思われます。
岐阜県のHP.の「大洞平第一号古墳[おおぼらだいらだいいちごうこふん]」の項目で、「大洞平第一号古墳は宮川左岸にある中野地区の後方、山麓斜面に位置する二段築成の円墳である。墳丘の直径約20m、高さは前面で3.4m、後方で5.56mである。内部主体は南東に開口した両袖式の横穴式石室で、その規模は西側で全長11.4mである。玄室の長さは3.9m、幅1.95m、高さ2.15m、入り口付近の幅1.8m、高さ1.58mである。玄室は4枚の天井石で覆われている。羨道は西側で長さ7.1m、幅1.8m、高さ1.58mである。副葬品については、明らかでない。」と記されています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
飛騨市教委の説明板。
石碑。
石室入口。
全景。南から。
全景。西から。 以上2016年11月撮影。
岐阜県のHP.の「大洞平第一号古墳[おおぼらだいらだいいちごうこふん]」の項目で、「大洞平第一号古墳は宮川左岸にある中野地区の後方、山麓斜面に位置する二段築成の円墳である。墳丘の直径約20m、高さは前面で3.4m、後方で5.56mである。内部主体は南東に開口した両袖式の横穴式石室で、その規模は西側で全長11.4mである。玄室の長さは3.9m、幅1.95m、高さ2.15m、入り口付近の幅1.8m、高さ1.58mである。玄室は4枚の天井石で覆われている。羨道は西側で長さ7.1m、幅1.8m、高さ1.58mである。副葬品については、明らかでない。」と記されています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
飛騨市教委の説明板。
石碑。
石室入口。
全景。南から。
全景。西から。 以上2016年11月撮影。
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2024年11月10日
補遺[1072] 広瀬亀塚古墳 岐阜県高山市 円墳 径61~70(38)m
消滅古墳です。古墳は、現在の国府小学校の運動場内にありましたが、大正時代に拡張工事のため破壊されたそうです。運動場には、古墳の説明板が設置されています。しかし、正確な場所が不明なまま訪問したので、校舎近辺の遠景の絵を撮っただけでした。
奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「広瀬亀塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:円墳 規模:径38m」と記されています。
ただし、下記のように全長60m以上の大型古墳であったとする意見もあります。「中期後葉には地籍図から復元できる全長六一メートルの造り出し円墳の飛騨市(おっさん註 高山市の誤り)亀塚古墳がある。」(中井正幸「六 東海 【東海西部】」p.333、広瀬和男・和田晴吾編『講座日本の考古学7 古墳時代上』所収)。また、運動場内に設置された説明板にも、「1.古墳の形は円墳で、直径は約70m・高さ約9mであった。」と記されています。
後者の復元数値が正しいとすれば、当然ランキング古墳となります。ここでは、「61mの造り出し付円墳」と考えて、「番外」とせず「補遺」としました。
約850m北東に、三日町大塚古墳(ランキング317位)があります。
余談ですが、高山市国府町には、三日町大塚古墳、こう峠口古墳、そしてこの広瀬亀塚古墳と全長60m以上のランキング古墳が3基もあった可能性があります。また、国衙跡は確認されていないようですが、小学校名に「国府」とあるように、この地には「飛騨国」の国府があったようです。古墳時代から律令時代にかけて、この地が政治の中心地であったと思われます。
遠景。中央の建物が小学校の校舎。
遠景。
遠景。 以上2010年10月撮影。
奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「広瀬亀塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:円墳 規模:径38m」と記されています。
ただし、下記のように全長60m以上の大型古墳であったとする意見もあります。「中期後葉には地籍図から復元できる全長六一メートルの造り出し円墳の飛騨市(おっさん註 高山市の誤り)亀塚古墳がある。」(中井正幸「六 東海 【東海西部】」p.333、広瀬和男・和田晴吾編『講座日本の考古学7 古墳時代上』所収)。また、運動場内に設置された説明板にも、「1.古墳の形は円墳で、直径は約70m・高さ約9mであった。」と記されています。
後者の復元数値が正しいとすれば、当然ランキング古墳となります。ここでは、「61mの造り出し付円墳」と考えて、「番外」とせず「補遺」としました。
約850m北東に、三日町大塚古墳(ランキング317位)があります。
余談ですが、高山市国府町には、三日町大塚古墳、こう峠口古墳、そしてこの広瀬亀塚古墳と全長60m以上のランキング古墳が3基もあった可能性があります。また、国衙跡は確認されていないようですが、小学校名に「国府」とあるように、この地には「飛騨国」の国府があったようです。古墳時代から律令時代にかけて、この地が政治の中心地であったと思われます。
遠景。中央の建物が小学校の校舎。
遠景。
遠景。 以上2010年10月撮影。
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2024年11月08日
番外 岐阜県の古墳⑰ 広瀬古墳 高山市 円墳 径36m
古墳は、度瀬神社の南に位置し、約150m東にこう峠口古墳(ランキング366位)があります。下記の絵では、一見すると「上円下方墳」のようですが、円墳だそうです。また、石柱の反対側に石室入口があるそうですが、見落としていました。「もっとしっかりしりん」。
この古墳の規模・墳形について、「高山市教育委員会 文化財課」の問い合わせたところ、「広瀬古墳は、田畑の耕作や道路の敷設のために墳丘の一部が削り取られておりますが、直径約35.5m、二段築成の円墳と推定されています。」と回答をいただきました。担当の方に感謝申し上げます。
古墳は高山市の史跡に指定されています。
石柱。
全景。西から。
全景。北西から。 以上2016年11月撮影。
石柱。裏面。
やや全景。西から。 以上2010年10月撮影。
この古墳の規模・墳形について、「高山市教育委員会 文化財課」の問い合わせたところ、「広瀬古墳は、田畑の耕作や道路の敷設のために墳丘の一部が削り取られておりますが、直径約35.5m、二段築成の円墳と推定されています。」と回答をいただきました。担当の方に感謝申し上げます。
古墳は高山市の史跡に指定されています。
石柱。
全景。西から。
全景。北西から。 以上2016年11月撮影。
石柱。裏面。
やや全景。西から。 以上2010年10月撮影。
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2024年11月06日
番外 岐阜県の古墳⑯ 衣裳塚古墳[鵜沼西町古墳群] 各務原市 円墳 径52m
古墳は「空安寺」の境内というか駐車場の北側に位置しています。お寺の南側には中山道が通っています。古墳時代の「古東山道」もこの地を通っていた可能性があります。
この古墳は交通の要衝に立地し、近くに100m超の大型古墳があるため、寺院の建立で前方部が削られた推定90m規模(おっさん註①)の前方後円墳説におっさんは魅力を感じました。ただし、確証がないため、ここでは下記のHP.を参照に岐阜県で最大の円墳としました。
岐阜県のHP.の「衣裳塚古墳[いしょうづかこふん]」の項目で、「衣装(ママ)塚古墳は、各務原台地の東端部、一輪山古墳と坊の塚古墳との中間に位置する。 直径52m、高さ7mの円墳で、墳頂部平坦地は直径12.73mである。隣接する寺院の削平状況から本古墳が円墳ではなく、前方後円墳ではないかという説もある。 墳丘の東部及び南部は一部開墾されて畑地となっているが、発掘された形跡もなく原形をよくとどめている。築造時期については、4世紀末から5世紀前半と考えられている。(後略)」と記されています。
「衣裳塚古墳」という名称で、岐阜県の史跡に指定されています。また、約350m南西に岐阜県で2番目に規模の大きな坊の塚古墳(ランキング152位)があります。
おっさん註① 衣裳塚古墳が近接した坊の塚古墳と同一の設計図で築造された前方後円墳であると仮定 坊の塚古墳の全長:後円部の直径=衣裳塚古墳の全長:後円部の直径となるので、120m:72m=X:52m X=86.666m≒87m
おっさん註② 衣裳塚古墳の墳形について、各務原市埋蔵文化財調査センターの担当者に問い合わせたところ、古墳西側の空安寺には前方部の痕跡は確認されず、墳丘南側でも確認できなかったそうです。註①の計算は徒労だったようです。
各務原市教委の説明板。
説明板と標柱。
墳頂の石塔等。
墳丘の一部。
やや全景。南から。
やや全景。西から。 以上2016年10月撮影。
標柱。
3つで全景。中央。右側。左側。
墳頂。
全景。南から。 以上2011年8月撮影。
この古墳は交通の要衝に立地し、近くに100m超の大型古墳があるため、寺院の建立で前方部が削られた推定90m規模(おっさん註①)の前方後円墳説におっさんは魅力を感じました。ただし、確証がないため、ここでは下記のHP.を参照に岐阜県で最大の円墳としました。
岐阜県のHP.の「衣裳塚古墳[いしょうづかこふん]」の項目で、「衣装(ママ)塚古墳は、各務原台地の東端部、一輪山古墳と坊の塚古墳との中間に位置する。 直径52m、高さ7mの円墳で、墳頂部平坦地は直径12.73mである。隣接する寺院の削平状況から本古墳が円墳ではなく、前方後円墳ではないかという説もある。 墳丘の東部及び南部は一部開墾されて畑地となっているが、発掘された形跡もなく原形をよくとどめている。築造時期については、4世紀末から5世紀前半と考えられている。(後略)」と記されています。
「衣裳塚古墳」という名称で、岐阜県の史跡に指定されています。また、約350m南西に岐阜県で2番目に規模の大きな坊の塚古墳(ランキング152位)があります。
おっさん註① 衣裳塚古墳が近接した坊の塚古墳と同一の設計図で築造された前方後円墳であると仮定 坊の塚古墳の全長:後円部の直径=衣裳塚古墳の全長:後円部の直径となるので、120m:72m=X:52m X=86.666m≒87m
おっさん註② 衣裳塚古墳の墳形について、各務原市埋蔵文化財調査センターの担当者に問い合わせたところ、古墳西側の空安寺には前方部の痕跡は確認されず、墳丘南側でも確認できなかったそうです。註①の計算は徒労だったようです。
各務原市教委の説明板。
説明板と標柱。
墳頂の石塔等。
墳丘の一部。
やや全景。南から。
やや全景。西から。 以上2016年10月撮影。
標柱。
3つで全景。中央。右側。左側。
墳頂。
全景。南から。 以上2011年8月撮影。
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2024年11月04日
番外 岐阜県の古墳⑮ー2 身隠山御嶽古墳[身隠山古墳群] 可児市 円墳 径36m
前回の身隠山白山古墳の約50m北に位置する前期に属する円墳です。
可児市のHP.の「身隠山古墳」の項目で、「県指定史跡「身隠山古墳」は、4世紀後半に造られた「身隠御嶽古墳」と「身隠白山古墳」の隣接する古墳の総称です。身隠御嶽古墳は元は二段築成の円墳で、下段部は直径36m、上段部は直径19m程度と推定されますが、土が流出して現況をとどめていません。(後略)」と記されています。
上記のように、「身隠山古墳」を構成する一基として、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、この御嶽古墳からは石釧、白山古墳からは鍬形石・車輪石という腕輪形石製品が出土しています。副葬品だけで被葬者の性別を判断するのは危険ですが、下記の文章を参考にすると、白山古墳は男性、御嶽古墳は女性(副葬品配置は不明ですが・・・)の可能性が想定できます。
「男性用であったゴボウラ貝製腕輪の系譜をひく鍬形石はやはり男性にのみ副葬される。 車輪石と石釧の祖型である貝輪は主として女性用であったのであるが、車輪石と石釧は男女両方に副葬されることが判明している。(中略)車輪石や石釧を腕に置く副葬品配置は女性が被葬者であると考えられるのだ。」(清家章『埋葬からみた古墳時代』、pp.60~62)
さらに、御嶽古墳と白山古墳の被葬者は、いわゆる「魏志倭人伝」に記載された女王卑弥呼と弟と同様の関係にあったと妄想を進めてしまいました。同上書では、「これまでの人骨による分析をまとめると以下のようになろう。 ①古墳時代は前期から後期まで通してキョウダイ原理の埋葬が主流である。 ②一基の古墳だけでなく、隣接する古墳の被葬者も血縁者である(略)。 ③前期から中期までは初葬者に占める男女の割合はほぼ同じで、一対一である。これは双系的な埋葬原理といえる。(後略)」(p.56)と述べています。
可児市教委の説明板。部分拡大。
標柱。
墳頂。
ほぼ全景。 以上2013年6月撮影。
可児市のHP.の「身隠山古墳」の項目で、「県指定史跡「身隠山古墳」は、4世紀後半に造られた「身隠御嶽古墳」と「身隠白山古墳」の隣接する古墳の総称です。身隠御嶽古墳は元は二段築成の円墳で、下段部は直径36m、上段部は直径19m程度と推定されますが、土が流出して現況をとどめていません。(後略)」と記されています。
上記のように、「身隠山古墳」を構成する一基として、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、この御嶽古墳からは石釧、白山古墳からは鍬形石・車輪石という腕輪形石製品が出土しています。副葬品だけで被葬者の性別を判断するのは危険ですが、下記の文章を参考にすると、白山古墳は男性、御嶽古墳は女性(副葬品配置は不明ですが・・・)の可能性が想定できます。
「男性用であったゴボウラ貝製腕輪の系譜をひく鍬形石はやはり男性にのみ副葬される。 車輪石と石釧の祖型である貝輪は主として女性用であったのであるが、車輪石と石釧は男女両方に副葬されることが判明している。(中略)車輪石や石釧を腕に置く副葬品配置は女性が被葬者であると考えられるのだ。」(清家章『埋葬からみた古墳時代』、pp.60~62)
さらに、御嶽古墳と白山古墳の被葬者は、いわゆる「魏志倭人伝」に記載された女王卑弥呼と弟と同様の関係にあったと妄想を進めてしまいました。同上書では、「これまでの人骨による分析をまとめると以下のようになろう。 ①古墳時代は前期から後期まで通してキョウダイ原理の埋葬が主流である。 ②一基の古墳だけでなく、隣接する古墳の被葬者も血縁者である(略)。 ③前期から中期までは初葬者に占める男女の割合はほぼ同じで、一対一である。これは双系的な埋葬原理といえる。(後略)」(p.56)と述べています。
可児市教委の説明板。部分拡大。
標柱。
墳頂。
ほぼ全景。 以上2013年6月撮影。
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2024年11月02日
番外 岐阜県の古墳⑮ー1 身隠山白山古墳[身隠山古墳群] 可児市 円墳 径42m
前回も書きましたが、昔は墳丘よりも標柱や説明板を重視していたので、2007年の訪問では説明板の絵しか撮っていませんでした。「『画竜点睛を欠く』ダラー」。
可児市のHP.の「身隠山古墳」の項目で、「県指定史跡「身隠山古墳」は、4世紀後半に造られた「身隠御嶽古墳」と「身隠白山古墳」の隣接する古墳の総称です。(中略)また、身隠山白山古墳も同様に原形が損なわれていますが、築造時の直径は42m、二段(もしくは三段)築成の円墳と推定されています。」と記されています。
上記のように、「身隠山古墳」を構成する一基として、岐阜県の史跡に指定されています。
可児市教委の説明板。 以上2007年9月撮影。
可児市教委の説明板の部分拡大。
標柱。
墳丘。
ほぼ全景。 以上2013年6月撮影。
可児市のHP.の「身隠山古墳」の項目で、「県指定史跡「身隠山古墳」は、4世紀後半に造られた「身隠御嶽古墳」と「身隠白山古墳」の隣接する古墳の総称です。(中略)また、身隠山白山古墳も同様に原形が損なわれていますが、築造時の直径は42m、二段(もしくは三段)築成の円墳と推定されています。」と記されています。
上記のように、「身隠山古墳」を構成する一基として、岐阜県の史跡に指定されています。
可児市教委の説明板。 以上2007年9月撮影。
可児市教委の説明板の部分拡大。
標柱。
墳丘。
ほぼ全景。 以上2013年6月撮影。
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