2025年04月01日
追加番外 越塚御門古墳 奈良県明日香村 方墳 辺約10m
この古墳は、2010年に牽午子塚古墳の発掘調査中に偶然埋葬施設の一部が発見され、その存在が明らかになったそうです。斉明大王(天皇)の蓋然性が高い古墳に隣接し、出土した横口式石槨などの年代や『日本書紀』の記述(おっさん註)から大田皇女墓の可能性が高いと指摘されています。
下記の説明板では、「発掘調査の成果から一辺約10mの方墳に復元することができます。」と記されています。
なお、2020年5月23日のブログ「番外 越塚御門古墳」で、復元以前の2011年5月・2015年10月の発掘調査時に訪問した絵を掲載しています。
この古墳は、2014年に「牽午子塚古墳・越塚御門古墳」という名称で、国の史跡に指定されています。
おっさん註:日本書紀には、斉明天皇と娘の間人皇女が667年に合葬され、斉明陵の前にその孫にあたる大田皇女が葬られたと記されています。
余談ですが、宮内庁が太田皇女と治定している墓は、「番外 越智崗上墓」として、2020年5月25日のブログに掲載しています。
明日香村の説明板。
石室入口。
復元全景。
石柱。
明日香村の説明板「国史跡 牽午子塚古墳・越塚御門古墳」。
同上模型。
遠景。右が牽午子塚古墳、左が塚越御門古墳。
以上2025年3月撮影。
下記の説明板では、「発掘調査の成果から一辺約10mの方墳に復元することができます。」と記されています。
なお、2020年5月23日のブログ「番外 越塚御門古墳」で、復元以前の2011年5月・2015年10月の発掘調査時に訪問した絵を掲載しています。
この古墳は、2014年に「牽午子塚古墳・越塚御門古墳」という名称で、国の史跡に指定されています。
おっさん註:日本書紀には、斉明天皇と娘の間人皇女が667年に合葬され、斉明陵の前にその孫にあたる大田皇女が葬られたと記されています。
余談ですが、宮内庁が太田皇女と治定している墓は、「番外 越智崗上墓」として、2020年5月25日のブログに掲載しています。
明日香村の説明板。
石室入口。
復元全景。
石柱。
明日香村の説明板「国史跡 牽午子塚古墳・越塚御門古墳」。
同上模型。
遠景。右が牽午子塚古墳、左が塚越御門古墳。
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2025年03月30日
追加番外 牽午子塚(けんごしづか)古墳 奈良県明日香村 八角墳 対辺長約22m
この古墳は、真の斉明大王(天皇)[皇極大王が重祚]の墓と多くの研究者が指摘しています。下記の明日香村の説明板「牽午子塚古墳と八角墳」でも、「牽午子塚古墳は斉明天皇の小市岡上陵、中尾山古墳は文武天皇の檜隈安古岡上陵の可能性が高いと考えられています。」と記されています。ただし、宮内庁は別の古墳を斉明天皇の陵墓と治定しています。
2020年5月22日のブログ「番外 牽午子塚古墳」で、2011年4月・2015年10月の発掘調査時に訪問した絵を掲載しています。ただし、復元整備以前の訪問だったので、今回は白色の優美な八角墳を期待していました。ところが、全体としては灰色で、部分的に黒い縞模様が・・・。おっさんは、斉明大王の宮内庁に対する抗議の涙に見えてしまいました。「見えすぎダラー」。
古墳は、1923年に「牽午子塚古墳」として国の史跡に指定されていました。2014年に、隣接する越塚御門古墳を追加して「牽午子塚古墳・塚御門古墳」という名称で再指定されています。
余談ですが、宮内庁が斉明天皇の陵墓と治定している「車木ケンノウ古墳」は、2020年5月24日のブログに掲載しています。
余談の余談ですが、下垣仁志さんは、近著『前方後円墳』の中で、「一口に古墳時代といっても四〇〇年近い時間幅があり、上位ランクの墳丘規模が小期ごとに大きく変動したという事実である。ある小期ではトップクラスの墳丘規模も、別の小期だと一〇位以下になってしまうことがざらにある。それゆえ、時期差を捨象して墳丘規模の階層構成を論じるのは無意味である。時代背景を無視して、寛永寺五重塔(江戸時代)と浅草凌雲閣(明治期)と東京タワー(昭和期)の高さを比較しても意味がないのと同じことである。」(p.153)と述べています。耳の痛い話ですが、おっしゃる通りです。中期の大山古墳と終末期の牽午子塚古墳の墳丘規模を比較してランキングするのは「愚の骨頂」と言わざるを得ません。ただ、「無知の知」ならぬ「愚知の知」ということで、お許しください。
石柱。
明日香村の説明板。「逆さまです」。
明日香村の説明板「牽午子塚古墳と八角墳」。
明日香村の説明板「石槨を囲う切石」。
石槨を囲う切石。
全景。西から。北西から。北から。

以上2025年3月撮影。
2020年5月22日のブログ「番外 牽午子塚古墳」で、2011年4月・2015年10月の発掘調査時に訪問した絵を掲載しています。ただし、復元整備以前の訪問だったので、今回は白色の優美な八角墳を期待していました。ところが、全体としては灰色で、部分的に黒い縞模様が・・・。おっさんは、斉明大王の宮内庁に対する抗議の涙に見えてしまいました。「見えすぎダラー」。
古墳は、1923年に「牽午子塚古墳」として国の史跡に指定されていました。2014年に、隣接する越塚御門古墳を追加して「牽午子塚古墳・塚御門古墳」という名称で再指定されています。
余談ですが、宮内庁が斉明天皇の陵墓と治定している「車木ケンノウ古墳」は、2020年5月24日のブログに掲載しています。
余談の余談ですが、下垣仁志さんは、近著『前方後円墳』の中で、「一口に古墳時代といっても四〇〇年近い時間幅があり、上位ランクの墳丘規模が小期ごとに大きく変動したという事実である。ある小期ではトップクラスの墳丘規模も、別の小期だと一〇位以下になってしまうことがざらにある。それゆえ、時期差を捨象して墳丘規模の階層構成を論じるのは無意味である。時代背景を無視して、寛永寺五重塔(江戸時代)と浅草凌雲閣(明治期)と東京タワー(昭和期)の高さを比較しても意味がないのと同じことである。」(p.153)と述べています。耳の痛い話ですが、おっしゃる通りです。中期の大山古墳と終末期の牽午子塚古墳の墳丘規模を比較してランキングするのは「愚の骨頂」と言わざるを得ません。ただ、「無知の知」ならぬ「愚知の知」ということで、お許しください。
石柱。
明日香村の説明板。「逆さまです」。
明日香村の説明板「牽午子塚古墳と八角墳」。
明日香村の説明板「石槨を囲う切石」。
石槨を囲う切石。
全景。西から。北西から。北から。
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2025年03月28日
再追加681 マバカ古墳[大和古墳群萱生支群] 奈良県天理市 74m(推定復元約80m)
この古墳は、1週間前に現地説明会が実施されており、見学は「アウト」と思っていたので、当初訪問予定はありませんでした。ただ、移動中に発掘調査員らしき人影が見えたので、Uターンして訪問しました。
発掘担当者の許可を得て、後円部北側の一部埋め戻されたトレンチの絵を撮りましたが、「SNSなどにアップしないでください。」と言われましたので、掲載しません。「グスン」。 なお、2018年7月22日と2022年2月4日のブログに、この古墳の絵を掲載しています。
古墳は、くびれ部に市道が通り後円部と前方部が分断されています。おまけに、墳丘上は果樹園となっており改変されています。ただし、今までの発掘調査で、出現期(前期前半)の古墳と考えられています。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「マバカ古墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:74m 後円部:径44m 前方部:幅27m」と記されています。ただし、下記の説明板では、「墳丘の全長は、約80mの規模に復元される。」と記されています。
余談ですが、現地説明会当日の様子については、YouTubeの「「大和の古墳」チャンネル」の「マバカ古墳(第5次)発掘調査現地説明会」で見ることができます。また、「大和國古墳墓取調室」でも「古墳TOPICS 2025」の中の「奈良県天理市・マバカ古墳(後円部の墳丘裾を確認)」で、トレンチのようすが分かる画像が掲載されています。
説明板。
前方部から後円部。西から。
以上2025年3月撮影。
発掘担当者の許可を得て、後円部北側の一部埋め戻されたトレンチの絵を撮りましたが、「SNSなどにアップしないでください。」と言われましたので、掲載しません。「グスン」。 なお、2018年7月22日と2022年2月4日のブログに、この古墳の絵を掲載しています。
古墳は、くびれ部に市道が通り後円部と前方部が分断されています。おまけに、墳丘上は果樹園となっており改変されています。ただし、今までの発掘調査で、出現期(前期前半)の古墳と考えられています。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「マバカ古墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:74m 後円部:径44m 前方部:幅27m」と記されています。ただし、下記の説明板では、「墳丘の全長は、約80mの規模に復元される。」と記されています。
余談ですが、現地説明会当日の様子については、YouTubeの「「大和の古墳」チャンネル」の「マバカ古墳(第5次)発掘調査現地説明会」で見ることができます。また、「大和國古墳墓取調室」でも「古墳TOPICS 2025」の中の「奈良県天理市・マバカ古墳(後円部の墳丘裾を確認)」で、トレンチのようすが分かる画像が掲載されています。
説明板。
前方部から後円部。西から。
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2025年03月26日
再追加170 西乗鞍古墳[杣之内古墳群] 奈良県天理市 118m
この古墳は、2018年3月12日のブログ、そして同年同月20日にも「追加・補遺」として掲載しています。
以前のブログでも書きましたが、おっさんが最初に訪問した2010年1月には墳丘内に立ち入ることができました。ただし、2015年4月の再訪時には、「動物霊園予定地」という看板が立てられ周囲はフェンスで囲まれて、古墳に近づくことはできませんでした。古墳は、2018年2月に国指定史跡となり、同年3月の訪問時は墳丘に上ることができましたが、笹藪ばかりでまともな絵が撮れなかったので、リベンジのつもりで今回訪問しました。
天理市のHP.の「西乗鞍古墳」の項目で、「西乗鞍古墳(にしのりくらこふん)は杣之内町(そまのうちちょう)に所在し、東方の東乗鞍古墳や西北方の小墓古墳とともに一群を形成しています。杣之内古墳群では西山古墳に次いで2番目の大きさです。 墳丘は前方部を南に向けた前方後円墳で、全長約118mあります。この墳丘の周辺には、周囲より一段高い幅広い基壇状の平坦地が墳丘を一周するように広がっており、その規模は南北約165mに達します。埋葬施設は明らかになっていませんが、横穴式石室である可能性が想定されています。 これまでの測量調査・発掘調査により、墳丘が上下二段の斜面で造られている可能性が高いこと、周濠と外堤が埋没して現在の広大な平坦地が生まれていること、外堤のさらに外側にも掘割がめぐっていたらしいことなどが確認されています。円筒埴輪・形象埴輪・土師器・須恵器などが出土しており、5世紀末ごろに築造された古墳と考えられています。 西乗鞍古墳は同時期の古墳としては大王墓に次ぐ規模を誇っており、王権を支えた有力豪族の首長墳にふさわしい規模を有しています。」と記されています。
古墳は「杣之内古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
天理市教委の新しい説明板。
説明板の下の「航空レーザー測量画像」。
後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。
後円部墳頂。
2つで全景。前方部端全景。右手前が前方部、左奥が後円部。
以上2025年3月撮影。
以前のブログでも書きましたが、おっさんが最初に訪問した2010年1月には墳丘内に立ち入ることができました。ただし、2015年4月の再訪時には、「動物霊園予定地」という看板が立てられ周囲はフェンスで囲まれて、古墳に近づくことはできませんでした。古墳は、2018年2月に国指定史跡となり、同年3月の訪問時は墳丘に上ることができましたが、笹藪ばかりでまともな絵が撮れなかったので、リベンジのつもりで今回訪問しました。
天理市のHP.の「西乗鞍古墳」の項目で、「西乗鞍古墳(にしのりくらこふん)は杣之内町(そまのうちちょう)に所在し、東方の東乗鞍古墳や西北方の小墓古墳とともに一群を形成しています。杣之内古墳群では西山古墳に次いで2番目の大きさです。 墳丘は前方部を南に向けた前方後円墳で、全長約118mあります。この墳丘の周辺には、周囲より一段高い幅広い基壇状の平坦地が墳丘を一周するように広がっており、その規模は南北約165mに達します。埋葬施設は明らかになっていませんが、横穴式石室である可能性が想定されています。 これまでの測量調査・発掘調査により、墳丘が上下二段の斜面で造られている可能性が高いこと、周濠と外堤が埋没して現在の広大な平坦地が生まれていること、外堤のさらに外側にも掘割がめぐっていたらしいことなどが確認されています。円筒埴輪・形象埴輪・土師器・須恵器などが出土しており、5世紀末ごろに築造された古墳と考えられています。 西乗鞍古墳は同時期の古墳としては大王墓に次ぐ規模を誇っており、王権を支えた有力豪族の首長墳にふさわしい規模を有しています。」と記されています。
古墳は「杣之内古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
天理市教委の新しい説明板。
説明板の下の「航空レーザー測量画像」。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
2つで全景。前方部端全景。右手前が前方部、左奥が後円部。
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2025年03月24日
番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子(かんす)山古墳[杣之内古墳群] 天理市 群集墳
この古墳は、天理大学付属天理参考館付近に位置していた消滅古墳です。下記の奈良県版の「データベース」により、200m超級のランキング古墳と思って訪問しました。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「鑵子山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円? 墳長:東西2町:約218m 特記事項 学校敷地となり消滅。」と記されています。
しかし、同大学の「全国古墳データベース」では、同じ場所に「鑵子塚古墳」として、「墳丘:前方後円 墳長:47m 後円部:径径(ママ)22m 高4.5m 前方部:幅31m 高5m」と記されていました。
おっさんは、約218mの鑵子山古墳か47mの鑵子塚古墳か頭が混乱してしまいました。ただし、次の文章を見つけて納得。そのため、タイトルを「番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子山古墳 天理市 群集墳」としました。
2021年に天理市教育委員会が発行した『物部氏の古墳 杣之内古墳群』の「実在しなかった「鑵子山古墳」」の項目では、「ツルクビ古墳群の東にあった鑵子山はかつて古墳時代中期の200m以上の大型前方後円墳と考えられていた。鑵子山は明治40年代には既に造成され学校の校舎が建てられていたため、その実態は長らく不明であった。しかし、昭和57~58(1982~ 83)年の守目堂(ツルクビ)地区の鑵子山古墳の前方部にあたる箇所での調査では、前方後円墳の存在を示すような痕跡はなんら確認されなかったほか、前方部前面の周濠とみられた守目堂池は近世に掘削されたものであることが判明した。また、鑵子山古墳の後円部・くびれ部・前方部の北裾付近にあたる場所での調査(守目堂(鑵子山)地区)でも、前方後円墳の存在をうかがわせる遺構は検出されず、かえって古墳時代後期の多数の円筒埴輪片や5世紀末から6世紀後半の須恵器片が出土した。 これらは鑵子山から落下したものと考えられたことから、鑵子山は大型の前方後円墳ではなく、ここには、かつて複数の小古墳が存在したものと結論づけられた。 ツルクビ古墳群から東の鑵子山にかけての地域には、群集墳が造営されていたのである。」(p.39)と記されていました。
余談ですが、おっさんが初めて天理市に足を踏み入れたのは、今から半世紀ほど前の高校生の時でした。天理教の関連施設が広がり、宗教的都市国家とはかくなるものかと驚嘆したことを覚えています。また、この地には古墳時代前期の標識土器である「布留式土器」を出土した「布留遺跡」があります。「天理参考館」には、布留遺跡の出土品をはじめ銅鐸や武人埴輪などの考古資料、各地の民俗資料などが展示されており、おっさんは、興味のない民俗資料エリアはスルーした記憶があります。「どいかん」。
跡地付近。建物の中央が「天理参考館」南から。
跡地付近。東から。
跡地付近。西から。
以上2025年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「鑵子山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円? 墳長:東西2町:約218m 特記事項 学校敷地となり消滅。」と記されています。
しかし、同大学の「全国古墳データベース」では、同じ場所に「鑵子塚古墳」として、「墳丘:前方後円 墳長:47m 後円部:径径(ママ)22m 高4.5m 前方部:幅31m 高5m」と記されていました。
おっさんは、約218mの鑵子山古墳か47mの鑵子塚古墳か頭が混乱してしまいました。ただし、次の文章を見つけて納得。そのため、タイトルを「番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子山古墳 天理市 群集墳」としました。
2021年に天理市教育委員会が発行した『物部氏の古墳 杣之内古墳群』の「実在しなかった「鑵子山古墳」」の項目では、「ツルクビ古墳群の東にあった鑵子山はかつて古墳時代中期の200m以上の大型前方後円墳と考えられていた。鑵子山は明治40年代には既に造成され学校の校舎が建てられていたため、その実態は長らく不明であった。しかし、昭和57~58(1982~ 83)年の守目堂(ツルクビ)地区の鑵子山古墳の前方部にあたる箇所での調査では、前方後円墳の存在を示すような痕跡はなんら確認されなかったほか、前方部前面の周濠とみられた守目堂池は近世に掘削されたものであることが判明した。また、鑵子山古墳の後円部・くびれ部・前方部の北裾付近にあたる場所での調査(守目堂(鑵子山)地区)でも、前方後円墳の存在をうかがわせる遺構は検出されず、かえって古墳時代後期の多数の円筒埴輪片や5世紀末から6世紀後半の須恵器片が出土した。 これらは鑵子山から落下したものと考えられたことから、鑵子山は大型の前方後円墳ではなく、ここには、かつて複数の小古墳が存在したものと結論づけられた。 ツルクビ古墳群から東の鑵子山にかけての地域には、群集墳が造営されていたのである。」(p.39)と記されていました。
余談ですが、おっさんが初めて天理市に足を踏み入れたのは、今から半世紀ほど前の高校生の時でした。天理教の関連施設が広がり、宗教的都市国家とはかくなるものかと驚嘆したことを覚えています。また、この地には古墳時代前期の標識土器である「布留式土器」を出土した「布留遺跡」があります。「天理参考館」には、布留遺跡の出土品をはじめ銅鐸や武人埴輪などの考古資料、各地の民俗資料などが展示されており、おっさんは、興味のない民俗資料エリアはスルーした記憶があります。「どいかん」。
跡地付近。建物の中央が「天理参考館」南から。
跡地付近。東から。
跡地付近。西から。
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2025年03月22日
追加41 島の山古墳[三宅古墳群] 奈良県川西町 200m超
前回の高山古墳の約700m北に位置し、高山古墳訪問の途中で再訪した超大型古墳です。この島の山古墳は、前にも書きました(2018年2月11日に「41 島の山古墳」として掲載)が、前方部の粘土槨上から多数の腕輪形石製品(車輪石80点・石釧32点・鍬形石21点)が出土したことで著名な古墳です。
再訪時、後円部端中央付近で発掘調査が実施されている様子でした。また、古墳の周囲にはその時々の発掘調査の成果などを記した説明板が12枚設置されており、川西町教委の熱意を感じました。ただし、足のマメに体力・気力を奪われたおっさんは、東側の4枚しか撮っていません。「熱量が足りんダラー」。
川西町教育委員会の「島の山古墳第10次発掘調査について」の「3 まとめ」の中で「墳丘の復元においても大きく前進がありました。今回の発掘調査で検出された埴輪列や墳丘裾の位置を図面に落として復元を試みると、図版9のとおりの復元ラインとなります。この図では島の山古墳の本来の全長は200mを超えることがわかります。」(p.4)と記されています。
古墳は国の史跡に、腕輪形石製品をはじめとする出土品は重要文化財に指定されています。
川西町教委の説明板。①~④。



3つで後円部端全景。中央。右側。左側。


2つで全景。前方部、東から。くびれ部から後円部、南東から。

2つで全景。後円部から前方部。前方部端。南から。
以上2025年3月撮影。
再訪時、後円部端中央付近で発掘調査が実施されている様子でした。また、古墳の周囲にはその時々の発掘調査の成果などを記した説明板が12枚設置されており、川西町教委の熱意を感じました。ただし、足のマメに体力・気力を奪われたおっさんは、東側の4枚しか撮っていません。「熱量が足りんダラー」。
川西町教育委員会の「島の山古墳第10次発掘調査について」の「3 まとめ」の中で「墳丘の復元においても大きく前進がありました。今回の発掘調査で検出された埴輪列や墳丘裾の位置を図面に落として復元を試みると、図版9のとおりの復元ラインとなります。この図では島の山古墳の本来の全長は200mを超えることがわかります。」(p.4)と記されています。
古墳は国の史跡に、腕輪形石製品をはじめとする出土品は重要文化財に指定されています。
川西町教委の説明板。①~④。
3つで後円部端全景。中央。右側。左側。
2つで全景。前方部、東から。くびれ部から後円部、南東から。
2つで全景。後円部から前方部。前方部端。南から。
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2025年03月20日
補遺[1301-6] 高山古墳[三宅古墳群] 奈良県三宅町 57m
前回の竹林寺古墳と同じく、下記の奈良県版の「データベース」を見ていたら、この古墳が墳長56.5mと記されていたので、ギリギリのランキング古墳として訪問しました。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「高山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:56.5m 後円部:径19m 高3m 前方部:幅33.2m 特記事項 盾形の周濠が全周するが、現在は水田になっている。墳丘は削平され畑地・果樹園になっている。」と記されています。
上記のように、古墳の前方部は植樹されていましたが後円部は荒れ、道路によって墳丘北側が一部分削られていました。また、説明板には、墳長や築造時期などの情報が無く、おっさんとしては・・・でした。
余談ですが、この高山古墳へのナビ設定が不十分で周辺をウロウロしていたところ、偶然説明板が目に入りました。立ち寄ったら、古墳ではなく「伴堂東遺跡」でした。後日このブログを書くために資料などを漁っていたら、下記のブログが目に留まりました。「欠山式土器」といえば、おっさんの住む東三河エリアの遺跡ではないですか。なんと、偶然の出会いに感謝・感激。「怪我の功名ダラー」。
ブログ「マサソイトの古墳見学日記」の「国道24号線バイパスから出てきた遺跡 古墳時代のパイオニア 伴堂東遺跡」(2012年11月23日)の項目で、「◆三河から多数の移住者 三宅町には三河(みかわ)、石見(いわみ)、但馬(たじま)などの地名がある。 三河は愛知県東部、石見は島根県西部、但馬は兵庫県北部の旧国名である。奈良盆地にはこのような旧国名をもつ地名が点在する。かつて、直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授は、平城京をつくるために、全国各地から移住者がやってきたことと関係するのではないかという見解を示された。 伴堂(ともんど)東(ひがし)遺跡は、三宅町の役場がある伴堂の集落から東へ300メートル、三河の集落からはすぐ南側の位置にある。京奈和自動車道の建設に伴う発掘調査で初めて確認された遺跡で、墓地・集落・耕作地など、この土地が時代を追って刻々と変化していく様子が目の当たりになった。 とりわけ注目されたのが古墳時代初めごろ(3世紀中頃)の様子である。ゴミ捨て場と考えられる穴から大量の土器や木製品などが出土し、その量は遺物箱で200箱にも及んだ。 遺跡のなかで、ひときわたくさんの遺物が出土した穴がある。その穴の中から、奈良盆地でつくられた地元産の土器のほかに、三河地方の特徴をもつ土器が大量に出土した。奈良盆地の甕が、平底で、小さな板を押し当てたタタキと呼ばれる製作痕跡をもつのに対し、三河地方の甕は、底に円錐(えんすい)形の台部を設け、板小口をこすりつけたハケと呼ばれる痕跡をもつ。三河地方で、土器を研究している研究者に調査に来てもらったが、紛れもなく欠山(かけやま)式と呼ばれる三河産の土器であった。これらの土器は、生活に使用したものであり、古墳時代の初めごろ、三河地方から多数の人々がやって来たことを示すものと考えられる。 しかしながら、三河(参河・三川とも表記された)の地名は、奈良時代までしかさかのぼれない。それ以前は、穂と呼ばれたともいわれているが、さだかではない。それよりもはるか前の古墳時代初めごろには、もちろん国の名称はない。三河地方の土器がこの場所から出土したことは偶然の一致にすぎないのかもしれない。しかし、偶然にしては、話ができすぎている。」と記されています。
三宅町教委の説明板。
後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。
前方部端ほぼ全景。東から。
2つで全景。後円部、北東から。前方部から後円部、北西から。。

やや全景。左手前が前方部、右奥が後円部。北東から。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部。南東から。

おまけ 伴堂(ともんど)東遺跡
三宅町教委の説明板。
遺跡周辺。
以上2025年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「高山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:56.5m 後円部:径19m 高3m 前方部:幅33.2m 特記事項 盾形の周濠が全周するが、現在は水田になっている。墳丘は削平され畑地・果樹園になっている。」と記されています。
上記のように、古墳の前方部は植樹されていましたが後円部は荒れ、道路によって墳丘北側が一部分削られていました。また、説明板には、墳長や築造時期などの情報が無く、おっさんとしては・・・でした。
余談ですが、この高山古墳へのナビ設定が不十分で周辺をウロウロしていたところ、偶然説明板が目に入りました。立ち寄ったら、古墳ではなく「伴堂東遺跡」でした。後日このブログを書くために資料などを漁っていたら、下記のブログが目に留まりました。「欠山式土器」といえば、おっさんの住む東三河エリアの遺跡ではないですか。なんと、偶然の出会いに感謝・感激。「怪我の功名ダラー」。
ブログ「マサソイトの古墳見学日記」の「国道24号線バイパスから出てきた遺跡 古墳時代のパイオニア 伴堂東遺跡」(2012年11月23日)の項目で、「◆三河から多数の移住者 三宅町には三河(みかわ)、石見(いわみ)、但馬(たじま)などの地名がある。 三河は愛知県東部、石見は島根県西部、但馬は兵庫県北部の旧国名である。奈良盆地にはこのような旧国名をもつ地名が点在する。かつて、直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授は、平城京をつくるために、全国各地から移住者がやってきたことと関係するのではないかという見解を示された。 伴堂(ともんど)東(ひがし)遺跡は、三宅町の役場がある伴堂の集落から東へ300メートル、三河の集落からはすぐ南側の位置にある。京奈和自動車道の建設に伴う発掘調査で初めて確認された遺跡で、墓地・集落・耕作地など、この土地が時代を追って刻々と変化していく様子が目の当たりになった。 とりわけ注目されたのが古墳時代初めごろ(3世紀中頃)の様子である。ゴミ捨て場と考えられる穴から大量の土器や木製品などが出土し、その量は遺物箱で200箱にも及んだ。 遺跡のなかで、ひときわたくさんの遺物が出土した穴がある。その穴の中から、奈良盆地でつくられた地元産の土器のほかに、三河地方の特徴をもつ土器が大量に出土した。奈良盆地の甕が、平底で、小さな板を押し当てたタタキと呼ばれる製作痕跡をもつのに対し、三河地方の甕は、底に円錐(えんすい)形の台部を設け、板小口をこすりつけたハケと呼ばれる痕跡をもつ。三河地方で、土器を研究している研究者に調査に来てもらったが、紛れもなく欠山(かけやま)式と呼ばれる三河産の土器であった。これらの土器は、生活に使用したものであり、古墳時代の初めごろ、三河地方から多数の人々がやって来たことを示すものと考えられる。 しかしながら、三河(参河・三川とも表記された)の地名は、奈良時代までしかさかのぼれない。それ以前は、穂と呼ばれたともいわれているが、さだかではない。それよりもはるか前の古墳時代初めごろには、もちろん国の名称はない。三河地方の土器がこの場所から出土したことは偶然の一致にすぎないのかもしれない。しかし、偶然にしては、話ができすぎている。」と記されています。
三宅町教委の説明板。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
前方部端ほぼ全景。東から。
2つで全景。後円部、北東から。前方部から後円部、北西から。。
やや全景。左手前が前方部、右奥が後円部。北東から。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部。南東から。
おまけ 伴堂(ともんど)東遺跡
三宅町教委の説明板。
遺跡周辺。
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07:07
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2025年03月18日
補遺[1227-34] 竹林寺古墳 奈良県生駒市 推定60m
下記の奈良県版の「データベース」を見ていたら、この古墳が墳長60m規模と記されていたので、ランキング古墳として訪問しました。
槨を覆う「割石」と思われる板石が後円部にありましたので絵を撮りましたが、違っているかもしれません。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「竹林寺古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現状45、推定60m 後円部:径28m 高8m 前方部:高推定3m 特記事項 槨は木棺を礫で覆い蓋石をし、さらに割石で全体をおおう特異な構造のもの。生駒谷唯一の前方後円墳。」と記されています。
また、生駒市のHP.の「生駒市デジタルミュージアム」にある「竹林寺古墳」の項目でも、「有里町の竹林寺境内にあります。古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳です。生駒山から東に派生する尾根上に築かれています。前方部を宅地で削られていますが、推定全長60m、後円部の径は約45mあります。生駒谷を支配した豪族の族長の墳墓と考えられます。一分コモリ遺跡の豪族居館との関係や、生駒谷の古墳時代を解明するうえでもたいへん重要な古墳です。」と記されています。
余談ですが、奈良時代に活躍した僧侶の行基墓もこの竹林寺境内にありました。彼は、土木工事・福祉事業などで民衆に支持され、行基が開基したと伝えられる寺院が各地にあります。
生駒市教委の説明板。
説明板と表示板。
後円部中央。右側。左側。


前方部残存部右側。左側。

前方部残存部から後円部。
後円部墳頂。
後円部石室の割石?。

2つで後円部(横から)。右側。左側。

後円部端全景。
以上2025年3月撮影。
槨を覆う「割石」と思われる板石が後円部にありましたので絵を撮りましたが、違っているかもしれません。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「竹林寺古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:現状45、推定60m 後円部:径28m 高8m 前方部:高推定3m 特記事項 槨は木棺を礫で覆い蓋石をし、さらに割石で全体をおおう特異な構造のもの。生駒谷唯一の前方後円墳。」と記されています。
また、生駒市のHP.の「生駒市デジタルミュージアム」にある「竹林寺古墳」の項目でも、「有里町の竹林寺境内にあります。古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳です。生駒山から東に派生する尾根上に築かれています。前方部を宅地で削られていますが、推定全長60m、後円部の径は約45mあります。生駒谷を支配した豪族の族長の墳墓と考えられます。一分コモリ遺跡の豪族居館との関係や、生駒谷の古墳時代を解明するうえでもたいへん重要な古墳です。」と記されています。
余談ですが、奈良時代に活躍した僧侶の行基墓もこの竹林寺境内にありました。彼は、土木工事・福祉事業などで民衆に支持され、行基が開基したと伝えられる寺院が各地にあります。
生駒市教委の説明板。
説明板と表示板。
後円部中央。右側。左側。
前方部残存部右側。左側。
前方部残存部から後円部。
後円部墳頂。
後円部石室の割石?。
2つで後円部(横から)。右側。左側。
後円部端全景。
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07:07
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2025年03月16日
追加462 富雄丸山古墳 奈良県奈良市 造出し付円墳 径109m
2022年度の造出しの発掘調査で、蛇行剣や盾形銅鏡が出土し、話題となった日本最大の円墳です。おっさんが訪問した10年ほど前は、墳丘が藪に覆われて墳形が分からず、墳丘規模も直径86mとされていました。その時の絵は、2018年5月15日のブログ「462 富雄丸山古墳」として掲載しています。下記のように、109mの規模ならばランキング230位台の古墳ということでしたが・・・。
10年ほどの間に古墳周辺の状況が一変し、竜宮城での浦島太郎の気分でした。古墳近辺に、道の駅「クロスウェイなかまち」が造られ、案内所では富雄丸山古墳のパンフレットも置かれていました。また、歩道には「富雄丸山古墳はこちら」と記された案内表示が要所に描かれ、墳丘に至る小道へは「盾形銅鏡」を模した案内板もあり、迷うことはありませんでした。ただし、墳丘入口は施錠され、墳丘への立ち入りはできませんでした。「玉手箱から煙がモクモクダラー」。
奈良市教育委員会が2024年11月30日に発行したパンフレット「富雄丸山古墳 第1版」では、「奈良市西部を南へ流れる富雄川を望む富雄丸山古墳は、4世紀後半に造られた直径109mの円墳で、円墳の中では日本最大規模となります。」と記されています。
「盾形銅鏡」形の案内板。
歩道の案内表示。
奈良市教委の説明板。
墳丘への入口。
3つで全景。中央、手前が造出し。右側。左側。


ほぼ全景。北東から。
遠景、右側が富雄丸山古墳。北東から。
以上2025年3月撮影。
10年ほどの間に古墳周辺の状況が一変し、竜宮城での浦島太郎の気分でした。古墳近辺に、道の駅「クロスウェイなかまち」が造られ、案内所では富雄丸山古墳のパンフレットも置かれていました。また、歩道には「富雄丸山古墳はこちら」と記された案内表示が要所に描かれ、墳丘に至る小道へは「盾形銅鏡」を模した案内板もあり、迷うことはありませんでした。ただし、墳丘入口は施錠され、墳丘への立ち入りはできませんでした。「玉手箱から煙がモクモクダラー」。
奈良市教育委員会が2024年11月30日に発行したパンフレット「富雄丸山古墳 第1版」では、「奈良市西部を南へ流れる富雄川を望む富雄丸山古墳は、4世紀後半に造られた直径109mの円墳で、円墳の中では日本最大規模となります。」と記されています。
「盾形銅鏡」形の案内板。
歩道の案内表示。
奈良市教委の説明板。
墳丘への入口。
3つで全景。中央、手前が造出し。右側。左側。
ほぼ全景。北東から。
遠景、右側が富雄丸山古墳。北東から。
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07:07
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2025年03月14日
追加[174] 神明野古墳[佐紀古墳群中央群] 奈良県奈良市 117m
この古墳も平城京造営に伴って削平された被破壊古墳です。下記のように、跡地が平城京の第二次大極殿や内裏となっており、最も「出世」した古墳といえるかもしれません。
2018年3月12日のブログで、「[174] 神明野古墳」として掲載しましたが、跡地付近の絵に自信がなかったので再訪しました。
今尾文昭さんは、「神明野古墳 市庭古墳の南側四〇〇メートルにある。墳長一一七メートル、後円部直径六五メートル、前方部幅七二メートル、葺石と周濠をもつ。後円部に対して前方部が長く、あまり開かないのが特徴で、大山古墳に近似するという指摘がある。 宮造営で削平されたあとには、平城宮東区に内裏と大極殿および下層の建物が造られた。」(『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』p.58)と述べています。
余談ですが、もう一基の大型被破壊古墳として法華寺垣内古墳があります。ただ、慣れない靴を履き、食べれないマメができたので訪問は断念しました。この古墳は、2018年3月30日のブログで「[252]法華寺垣内古墳」として掲載しています。
石柱「(第二次)大極殿阯」。
後円部跡付近。中央奥に市庭古墳。南から。
前方部跡付近。中央が大極殿の基壇。北から。
前方部跡から後円部跡。中央に大極殿基壇、奥に市庭古墳。南から。
以上2025年3月撮影。
2018年3月12日のブログで、「[174] 神明野古墳」として掲載しましたが、跡地付近の絵に自信がなかったので再訪しました。
今尾文昭さんは、「神明野古墳 市庭古墳の南側四〇〇メートルにある。墳長一一七メートル、後円部直径六五メートル、前方部幅七二メートル、葺石と周濠をもつ。後円部に対して前方部が長く、あまり開かないのが特徴で、大山古墳に近似するという指摘がある。 宮造営で削平されたあとには、平城宮東区に内裏と大極殿および下層の建物が造られた。」(『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』p.58)と述べています。
余談ですが、もう一基の大型被破壊古墳として法華寺垣内古墳があります。ただ、慣れない靴を履き、食べれないマメができたので訪問は断念しました。この古墳は、2018年3月30日のブログで「[252]法華寺垣内古墳」として掲載しています。
石柱「(第二次)大極殿阯」。
後円部跡付近。中央奥に市庭古墳。南から。
前方部跡付近。中央が大極殿の基壇。北から。
前方部跡から後円部跡。中央に大極殿基壇、奥に市庭古墳。南から。
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