2025年05月21日

番外 富山県の「古墳」⑤ 六治(ろくじ)古塚墳墓 富山市 四隅突出型墳丘墓 辺25m

 古墳ではなく弥生時代終末期の墳丘墓なので、タイトルを「富山県の「古墳」」としました。四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期後半に出現し、後期から終末期にかけて中国地方(出雲・伯耆)や北陸地方(越中・越前)を中心に造られた地域的に特色ある墓制です。現在100基ほど確認されていますが、その中間地帯にあたる近畿地方北部(丹後・但馬)には、見られない墓制です。
 墳丘は確認することができましたが、おっさんの眼力では突出部はよくわかりませんでした。住宅地の裏庭に位置していたので、家人の許可を得て撮影しました。 
 富山市のHP.の「史跡 王塚・千坊山遺跡群」の「向野塚墳墓」の項目で、「標高57mの河岸段丘縁辺部に立地し、南側の谷には辺呂川が流れます。 弥生時代終末期に築かれた四隅突出型墳丘墓で、日本海沿岸交流を物語る山陰系の墳墓として注目されます。 一辺24.5m、高さ5.1mと高さのある墳丘をもち、突出部は長さ7.2m、幅10.6mです。 墳丘周囲には、丘陵側を中心に溝がめぐらされ、突出部は楕円形に肥大する特徴をもっています。 墳頂部中央には、2.9m×1.3m以上の範囲で落ち込みが確認され、上面に弥生土器の破片が出土しました。墓坑の陥没坑である可能性がありますが、内部は未調査です。 墳墓からは、壺、甕、高杯、器台、蓋などの弥生土器が、墳頂部や周溝から出土しました。」と記されています。
 この墳丘墓は、「王塚・千坊山遺跡群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。

 余談ですが、『出雲国風土記』の「国引き神話」(註)に登場する地名と四隅突出型墳丘墓が築かれている地域とは大部分重なっており、偶然の一致なのでしょうか。出雲は、北陸の国々と文化的なつながりが深いと暗示しているのかもしれません。
 
 (註)「『出雲国風土記』の最初、「意宇郡(おうぐん)」の冒頭に、出雲国の成り立ちが書かれています。いわゆる、「国引き神話」です。これは、『古事記』や『日本書紀』には書かれていない、出雲独自の神話です。 『風土記』によれば、「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」が国をつくるのに、出雲国は小さすぎるので各地から引いてきて継ぎ合わせた、と記されています。継ぎ足されたところは島根半島の部分です。 東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸から、西端の「支豆支の御埼(きづきのみさき)」は朝鮮半島の新羅から、その間の「闇見(くらみ)の国」と「狭田(さだ)の国」はそれぞれ「北門(きたど)の良波(よなみ)国」、「北門の佐伎(さき)国」から引いてきたとされます。」(島根県のHP.の「『出雲国風土記』の「国引き神話」」の項目より)。

 余談の余談ですが、2019年6月12日から15日のブログで「1303-2」~「1302-7」として、西谷墳墓群・仲仙寺墳墓群・小羽山30号墓・矢谷1号墓などの四隅突出型墳丘墓を掲載しています。

 
 富山市教委・富山市教委の説明板。


 墳頂。

 墳頂。


 全景。

 全景。
        以上2025年4月撮影。


追記(2025年5月22日)

 北陸と出雲の関係について、鈴木景二さんは次のように述べています。
 「ヤマト政権の成立前後、山陰と北陸の間で日本海航路による相互交流があったことは広く認められている。情報は出雲側に多く残されたが、北陸側にもそれに応対する政治勢力が存在したことは想定してよい。」(「近畿・北陸 日本の基点」p.132、川尻秋生 責任編集『列島の東西・南北 つながりあう地域』所収)  


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2025年05月19日

追加888 勅使塚古墳[羽根山古墳群] 富山県富山市 前方後方墳 66m

 古墳は、2018年10月19日のブログで、「888 勅使塚古墳」として掲載していました。ただ、その絵があまり良くなかったので15年ぶりに再訪しました。下記の「王塚・千坊山遺跡群」の説明板が設置された場所から斜面を上り進んでいくと大きな墳丘が見えました。後方部の絵を撮ろうとしたら、墳頂付近に二ホンカモシカがこちらを睨んでいました。少しビビってしまいましたが、やや距離が離れていたのでこちらも睨み返しながら、彼が移動してから後方部墳頂の絵を撮りました。「メデタシ、メデタシ」。
 富山市のHP.の「史跡 王塚・千坊山遺跡群」の「勅使塚古墳」の項目で、「標高130mの羽根丘陵の尾根上に立地し、東側には富山平野が広がります。 県内最古の大型前方後方墳で、3世紀末の築造と考えられます。 規模は全長66mで、前方部は長さ31m、幅24m、高さ3.5m、後方部は長さ35m、幅37m、高さ9m、くびれ部幅10mです。前方後方墳としては、氷見市柳田布尾山古墳(全長107.5m)に次いで県内2番目の大きさを誇ります。 小さな前方部がくびれ部から先端にかけて傾斜して高まり、前方部と後方部の比高差が約8.8mと大きいなど、前期古墳の特徴がみられます。 また、墳丘西側には浅い周溝を巡らせ、平野側は削り出して墳丘を整形しています。 後方部中央には長さ6.2m以上、幅6.1mの長方形の墓坑が検出されました。また、地表面から約2m下層には、木棺を覆っていると推測される粘土槨の痕跡が確認されています。」と記されています。
 古墳は、「王塚・千坊山遺跡群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。

 余談ですが、二ホンカモシカとの遭遇は、今回で二度目です。最初は、長野県千曲市の土口将軍塚古墳(ランキング795位)の訪問時でした。今回よりも至近距離での遭遇だったので、ビビり度大でした。詳細は、2018年9月3日のブログで。


 富山県教委・富山市教委の説明板「王塚・千坊塚遺跡群」。

 富山県教委・富山市教委の説明板。


 後方部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後方部。前方部右隅から後方部。前方部左隅から後方部。


 後方部墳頂。


 3つで全景(横から)。後方部。くびれ部。前方部。


 後方部墳頂の二ホンカモシカ。
             以上2025年4月撮影。  


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2025年05月17日

追加1041 桜谷1号墳[桜谷古墳群] 富山県高岡市 前方後方墳←前方後円墳 62m

 この古墳は、2018年12月17日のブログで、「1041 桜谷古墳(桜谷1号墳)」として掲載しています。ただし、草が繁茂し墳形がよくわからなかった絵だったので再訪しました。また、この時に掲載した高岡市教育委員会の説明板(昭和五十九年十月)では、「二基の前方後円墳」と記されていましたが、下記の富山県教委・高岡市教委による新説明板(令和五年三月)や高岡市のHP.を参考に、墳形を前方後方墳に訂正しました。
 高岡市のHP.の「桜谷古墳」の項目(更新日:2024年03月25日)で、「桜谷古墳の概要 桜谷古墳群は、二上丘陵北側の標高20メートル前後の台地上に立地し、東西約300メートル、南北約150メートルの範囲に計13基以上の古墳で構成されている。 1号墳は全長62メートルあり、4世紀初頭(300年頃)の築造と考えられている。昭和51〜2(1976〜7)、県道バイパス(現国道415号線)工事に伴う発掘調査によって、1号墳の周溝が発見され、前方後方墳の可能性が高まった。また、1号墳の周溝の南側で検出された箱式石棺からは鉄鉾が出土している。」と記されています。
 この1号墳と2号墳が、「桜谷古墳」という名称で国の史跡に指定されています。

 なお、この時(2025年4月)に訪問した2号墳の絵は、2024年12月8日のブログ「番外 富山県の古墳② 桜谷2号墳[桜谷古墳群]」で追記として掲載しています。


 石柱。

 富山県教委・高岡市教委の説明板。

 標柱。


 後方部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後方部。


 後方部墳頂。

 後方部の一部。


 やや全景。右が前方部、左奥が後方部。

 全景(横から)。右が前方部、左が後方部。
        以上2025年4月撮影。  


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2025年05月15日

追加246 柳田布尾山古墳 富山県氷見市 前方後方墳 108m

 日本海側で最大の前方後方墳です。2018年3月29日のブログで、「246 柳田布尾山古墳」として掲載しています。その時の絵とほとんど同じ絵で代わり映えしませんが・・・。3度目の訪問ですが、ちょうど天気も回復しいい絵が撮れました。また、かつて早朝の訪問で閉館していたガイダンス施設の「柳田布尾山古墳公園古墳館」も再訪できました。薄汚れた靴をそろえていただき、職員さんの心遣いに感謝申し上げます。
 氷見市のHP.の「柳田布尾山古墳について」の項目で、「立地 海岸線から約2キロメートルの丘陵端部、墳丘 全長107.5メートル 後方部長54メートル 後方部幅53メートル 後方部高10メートル くびれ部幅30メートル 前方部長53.5メートル 前方部幅49メートル 前方部高6メートル、 周濠 幅5~18メートル、深さ1.2~2.3メートル、前方部裾にめぐる前方部平野側コーナーに陸橋が存在、 埴輪 なし、 葺石 なし、 主体部 後方部中央やや東寄りに主軸とほぼ平行する粘土槨の埋葬施設、 築造法 盛土の厚さ 前方部で約4メートル、後方部で約7メートル。構築墓壙、 時期 古墳時代前期前半(3世紀末から4世紀初)」と記されています。
 古墳は、隣接する2号墳とともに、「柳田布尾山古墳」という名称で、国の史跡に指定されています。

 余談ですが、今回訪問した2号墳の絵は、2024年12月12日のブログ「番外 富山県の古墳④」で、「おまけのおまけ」として追加掲載しています。


 石碑。

 文科省・富山県・氷見市の説明板。


 後方部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 説明板「埋葬施設」。

 後方部墳頂。


 前方部から後方部。前方部右隅から後方部。前方部左隅から後方部。


 説明板「周濠と陸橋」。

 陸橋部分。


 やや全景。右が後方部、左が前方部。

 ほぼ全景。手前が前方部、奥が後方部。柳田布尾山古墳公園古墳館から見る。
        以上2025年4月撮影。  


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2025年05月13日

追加476 徳田燈明山古墳(徳田1号墳)[徳田古墳群] 石川県志賀町 84m

 この古墳は、能登地方最大の前方後円墳です。15年ほど前に訪問しましたが、墳丘の絵がわかりにくかった(2018年5月18日のブログで掲載)ので再訪しました。
 舌状台地の南端付近に立地しており、前回は意外に簡単に古墳にたどり着いた記憶があったので油断していました。古墳に向かう入口付近に目印となる標識があるはずでしたが、見あたらず周辺をウロウロしながら、徳田浄化センター付近から上っていきました。この冬の大雪の圧力で、墳丘の形が見やすくなっていると予想していましたが、草木が繁茂しておまけに「トゲトゲ木」があちらこちらに・・・。苦労して、墳丘らしきところにたどり着きましたが、前回よりもダメな絵しか撮れませんでした。意気消沈して、次に予定していた古墳に向かう途中に説明板らしきモノを発見、近寄ってみるとビンゴでした。15年前はなかった説明板ですが、隣に文字が剝がれかけた標柱があり、これが目印の標識でした。
 説明板では、「墳丘規模:全長81m 後円部径50m 後円部高6.5m 前方部長31m 前方部高4m」と記されています。ただし、奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「徳田燈明山古墳(徳田1号墳)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 築成:前方部2段、後円部2段 墳長:83.5m 後円部:径径(ママ)52m 高6.7m 前方部:幅38m 長31.5m 高6m」と記されています。ここでは、後者のデータを採用しました。
 古墳は、2012年に「徳田燈明山古墳」という名称で、志賀町の史跡に指定されています。
 

 標柱。
            2010年5月撮影。

 標柱と説明板。

 石川県志賀町徳田区の説明板。


 後円部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後円部。


 後円部墳頂。墳頂の杭。


 遠景。南東から。
        以上2025年4月撮影。  


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2025年05月11日

番外 石川県の古墳⑮ー2 国分尼塚2号墳[国分尼塚古墳群] 七尾市 前方後方墳 33m

 前回の1号墳の北側に隣接する前方後方墳です。古墳は、南北400m・東西270mの台地の東縁辺に位置しています。台地の中央付近には、鉄塔が建っており目印となっています。
 前回や今年1月15日のブログ「番外 石川県の古墳⑧ 院内勅使塚古墳」でも書きましたが、今までの訪問で古墳を見つけることができず、今回15年ぶりにリベンジを果たすことができました。「メデタシ、メデタシ」。

 奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「国分尼塚2号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:33m 後円(ママ)部:径(ママ)1辺18m 高(空濠底から)現状3.5~3m 前方部:幅11m 高1~2m」と記されています。


 後方部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後方部。

 後方部墳頂。


 全景(横から)。右が後方部、左が前方部。西から。

 遠景。右が1号墳、左が2号墳。西から。


 七尾ラジオ中継局の鉄塔。
        以上2025年4月撮影。

   


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2025年05月09日

番外 石川県の古墳⑮ー1 国分尼塚1号墳[国分尼塚古墳群] 七尾市 前方後方墳 53m

 2019年4月5日のブログ「1240-1 矢田高森古墳のおまけの「国分尼塚古墳群」」で、古墳と思い込みたかった絵を掲載していました。やはり、過去(2010年と14年)の訪問では、誤った古墳の絵しか撮っていませんでした。
 そのため、今回はグーグルマップの位置情報を活用して、なんとか古墳にたどり着くことができました。「3度目の正直」で、やっと胸のつかえが取れました。今まで、西の方角を北と勘違いしていたことが失敗の原因でした。「勘に頼ってばかりではダメだらー」。

 奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「国分尼塚1号墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:52.5m 後円(ママ)部:径(ママ)1辺28m 高(空濠底から)2.7~3.8m 前方部:幅20m 高1.8~3m」と記されています。


 後方部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後方部。
        
 後方部墳頂。


 全景(横から)。右が後方部、左が前方部。西から。
        以上2025年4月撮影。  


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2025年05月07日

追加1098 兜山古墳 福井県鯖江市 円墳 径70m←60m

 この古墳は2014年5月に訪問し、2019年1月18日のブログで、「1098 兜山古墳」として掲載していました。
 ただし、当時の墳丘は社叢に覆われ、60m規模の円墳とされていました。その後の発掘調査で、幅17m前後の周溝を有する直径70mの円墳であることが確認され、墳丘整備によって現在の姿となりました。そのため、新たな絵を撮ろうと思い再訪しました。

 鯖江市のHP.の「兜山古墳」の項目で、「兜山古墳の墳丘規模は、直径約70m、掘割底から墳頂部までの高さは北西側で約6m、東側で9m以上にもなり、円墳としては北陸地方最大級のものである。昭和59年と平成3年・13年に墳丘裾部の発掘調査が実施され、墳丘の周囲に幅約17mの周溝が巡っていることが明らかとなっており、周溝によって区画された墓域は実に直径90mを超える規模となる。また、二段築成であることは表面観察で容易に確認できるものの、葺石や埴輪は確認されていない。さらに、埋葬施設や副葬品については未調査のため不明であり、先の発掘調査でも古墳の築造年代を示すような遺物は出土していないが、5世紀代には全国的に大型円墳が造られていることから、本墳も5世紀代と推定されている。」と記されています。
 古墳は、福井県の史跡から1977年に国の史跡に指定変更されています。


                     石柱。

 説明板。4つ。 


 墳頂の社殿。


 2つで全景。


 やや全景。2つ。
 以上2025年4月撮影。  


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2025年05月07日

 お知らせ。

 「番外 福井県の古墳」は、これで終了します。今年4月上旬に、福井県・石川県・富山県の古墳を訪問しましたので、しばらく北陸地方の古墳を掲載します。  


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2025年05月05日

番外 福井県の古墳⑮ 丸山塚古墳[天徳寺古墳群] 若狭町 円墳 径50m 

 下記のように「消滅古墳」です。跡地には、「丸山古墳跡」と記された石碑が、「墳丘」のような盛土の上に設置されています。また、その周囲には巨石が並べられています。石室の石材の一部なのでしょうか。
 
 若狭町歴史文化館の「若狭町古墳マップ」の「11 丸山塚古墳」の項目で、「十善の森古墳の北250mの位置に、丸山塚古墳と呼ばれる直径50mの巨大な円墳がありました。葺石、埴輪を持ちませんが、巨大な石材を使った横穴式石室が築かれていました。しかしながら、昭和28年にこの地方を襲った大水害の復旧のために、墳丘もろとも崩されてしまいました。石室は、玄室長6m、羨道長11mの巨大なものでした。副葬品としては、鏡、飾大刀、馬具、鉄刀、甲、水晶製三輪玉、須恵器などが発見されました。」と記されています。
 古墳は、「丸山古墳」という名称で、若狭町の史跡に指定されています。
 この丸山塚古墳とともに、天徳寺古墳群を構成す十善の森古墳(ランキング872位)は、2018年10月13日のブログで掲載しています。


 標柱。

 石碑。


 跡地。南から。
         以上2010年8月撮影。

 跡地。南から。
        2015年3月撮影。  


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