2025年01月31日
補遺[1312-5] 末寺山6号墳[末寺山古墳群(能美古墳群)] 石川県能美市 前方後方墳 約57m
この古墳は、前回の5号墳の西側に隣接している前方後方墳です。2014年の再訪時の絵は、草木が繁茂して全く古墳には見えません。そのため、その4年前の絵も掲載しました。
奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「末寺山6号墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後方 墳長:55m 後円(ママ)部:径(ママ)35×30m 高5m 前方部:長20m」と記されていました。そのため、「番外 石川県の古墳⑫ー4」として掲載するつもりでした。ところが、下記の書物には「墳長約57m」と述べられており、ランキング古墳という位置づけで「補遺[1312-4]」としました。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』の中で、「六号墳はわずかな範囲の調査のため詳細は不明だが、墳長約五七メートル、高さは後方部で約八メートルの前方後方墳で、墳丘周囲に周溝がめぐる可能性が高い。段築や葺石、埴輪は確認されておらず、埋葬施設は未調査のため不明であるが、後方部中央に盗掘抗らしき陥没がみられる。出土遺物はない。(中略) 六号墳の墳長約五七メートルという規模は、この時期における加賀の古墳としては最大である。」(p.32)と述べています。
また、菅原さんは同上書で、「前方後方墳という墳形は、出雲などの特定地域を除いて四世紀末ごろまでの短い期間しかつくられなかったため全国では五〇〇基ほどしかないが、北陸では古墳時代前期に盛んに採用された墳形であった。末寺山古墳群の前方後方墳は、北陸の墓制の枠組みのなかで築造されたものと考えられる。 さらに広くみると、前方後方墳は滋賀県以東の東日本に多く分布する。その起源となる前方後方形の墳丘墓が愛知県の濃尾平野で出現することから、このあたりを中心地として東日本に広域的な政治連合が形成されていた可能性が指摘されている。」(p.32)と述べています。
この5号墳は、1975年に「和田山・末寺山古墳群」を構成する一基として国の史跡に指定されていました。この古墳群は、既指定の「秋常山古墳群」や新たに西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
標柱。
後方部右側。左側。

前方部。
前方部から後方部。
前方部左隅から後方部。
以上2014年5月撮影。
標柱。
前方部から後方部か。
前方部左隅から後方部。
以上2010年5月撮影。
奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「末寺山6号墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後方 墳長:55m 後円(ママ)部:径(ママ)35×30m 高5m 前方部:長20m」と記されていました。そのため、「番外 石川県の古墳⑫ー4」として掲載するつもりでした。ところが、下記の書物には「墳長約57m」と述べられており、ランキング古墳という位置づけで「補遺[1312-4]」としました。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』の中で、「六号墳はわずかな範囲の調査のため詳細は不明だが、墳長約五七メートル、高さは後方部で約八メートルの前方後方墳で、墳丘周囲に周溝がめぐる可能性が高い。段築や葺石、埴輪は確認されておらず、埋葬施設は未調査のため不明であるが、後方部中央に盗掘抗らしき陥没がみられる。出土遺物はない。(中略) 六号墳の墳長約五七メートルという規模は、この時期における加賀の古墳としては最大である。」(p.32)と述べています。
また、菅原さんは同上書で、「前方後方墳という墳形は、出雲などの特定地域を除いて四世紀末ごろまでの短い期間しかつくられなかったため全国では五〇〇基ほどしかないが、北陸では古墳時代前期に盛んに採用された墳形であった。末寺山古墳群の前方後方墳は、北陸の墓制の枠組みのなかで築造されたものと考えられる。 さらに広くみると、前方後方墳は滋賀県以東の東日本に多く分布する。その起源となる前方後方形の墳丘墓が愛知県の濃尾平野で出現することから、このあたりを中心地として東日本に広域的な政治連合が形成されていた可能性が指摘されている。」(p.32)と述べています。
この5号墳は、1975年に「和田山・末寺山古墳群」を構成する一基として国の史跡に指定されていました。この古墳群は、既指定の「秋常山古墳群」や新たに西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
標柱。
後方部右側。左側。
前方部。
前方部から後方部。
前方部左隅から後方部。
標柱。
前方部から後方部か。
前方部左隅から後方部。
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2025年01月29日
番外 石川県の古墳⑫ー3 末寺山5号墳[末寺山古墳群(能美古墳群)] 能美市 前方後方墳 約30m
前回の2号墳に続いて、前方後方墳の5号墳です。末寺山古墳群には、3基の前方後方墳の他に、6基の円墳と3基の不明墳が確認されているそうです。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』の中で、「五号墳も墳長約三〇メートルの前方後方墳で、二号墳と同様に墳丘周囲に周溝がめぐるが前方部前端にはない。墳丘は地山を削り出し盛土してつくられ、段築や葺石、埴輪がない点も二号墳と同じだ。しかし、埋葬施設は一九五八年に発掘調査されており、詳細は不明だが木棺直葬の可能性があり、赤色顔料を使用し、鉄剣の副葬がうかがえる。」(pp.30~31)と述べています。
この5号墳は、1975年に「和田山・末寺山古墳群」を構成する一基として国の史跡に指定されていました。この古墳群は、既指定の「秋常山古墳群」や新たに西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
説明板。
標柱。
後方部右側。左側。

前方部。
前方部から後方部。
後方部墳頂。
やや全景(横から)。右が後方部、左が前方部。南から。
以上2014年5月撮影。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』の中で、「五号墳も墳長約三〇メートルの前方後方墳で、二号墳と同様に墳丘周囲に周溝がめぐるが前方部前端にはない。墳丘は地山を削り出し盛土してつくられ、段築や葺石、埴輪がない点も二号墳と同じだ。しかし、埋葬施設は一九五八年に発掘調査されており、詳細は不明だが木棺直葬の可能性があり、赤色顔料を使用し、鉄剣の副葬がうかがえる。」(pp.30~31)と述べています。
この5号墳は、1975年に「和田山・末寺山古墳群」を構成する一基として国の史跡に指定されていました。この古墳群は、既指定の「秋常山古墳群」や新たに西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
説明板。
標柱。
後方部右側。左側。
前方部。
前方部から後方部。
後方部墳頂。
やや全景(横から)。右が後方部、左が前方部。南から。
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2025年01月27日
番外 石川県の古墳⑫ー2 末寺山2号墳[末寺山古墳群(能美古墳群)] 能美市 前方後方墳 約30m
草木が繁茂して古墳の形状がよくわからない絵となっていますが、ご了承ください。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』の中で、「二号墳は墳長約三〇メートルの前方後方墳で、墳丘周囲に周溝がめぐるが、前方部前端にはない。墳丘は地山を削り出し盛土してつくられていて、段築や葺石、埴輪はない。埋葬施設は未調査である。」(p.30)と述べています。
末寺山古墳群には、3基の前方後方墳が築かれ、いずれも古墳時代前期前半代に編年されています。菅原雄一さんは同上書で、「これら三基の前方後方墳の築造時期については、出土遺物が少ないため、北陸における墳丘の形態変化と立地の比較から検討されている。その成果によれば、二号墳からはじまり、つづいて五号・六号墳へと築造の順序が想定できる。」(p.32)と述べています。
この2号墳は、1975年に「和田山・末寺山古墳群」を構成する一基として国の史跡に指定されていました。この古墳群は、既指定の「秋常山古墳群」や新たに西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
説明板。
標柱。
前方部から後方部。西から。
後方部端。東から。
やや全景(横から)。右が後方部、左が前方部。南から。
以上2014年5月撮影。
標柱。
末寺山古墳群遠景。
以上2010年5月撮影。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』の中で、「二号墳は墳長約三〇メートルの前方後方墳で、墳丘周囲に周溝がめぐるが、前方部前端にはない。墳丘は地山を削り出し盛土してつくられていて、段築や葺石、埴輪はない。埋葬施設は未調査である。」(p.30)と述べています。
末寺山古墳群には、3基の前方後方墳が築かれ、いずれも古墳時代前期前半代に編年されています。菅原雄一さんは同上書で、「これら三基の前方後方墳の築造時期については、出土遺物が少ないため、北陸における墳丘の形態変化と立地の比較から検討されている。その成果によれば、二号墳からはじまり、つづいて五号・六号墳へと築造の順序が想定できる。」(p.32)と述べています。
この2号墳は、1975年に「和田山・末寺山古墳群」を構成する一基として国の史跡に指定されていました。この古墳群は、既指定の「秋常山古墳群」や新たに西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
説明板。
標柱。
前方部から後方部。西から。
後方部端。東から。
やや全景(横から)。右が後方部、左が前方部。南から。
標柱。
末寺山古墳群遠景。
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2025年01月25日
番外 石川県の古墳⑫ー1 秋常山2号墳[秋常山古墳群(能美古墳群)] 能美市 方墳 33×27m
福井県坂井市の六呂瀬山1号墳(ランキング95位)と並んで、北陸地方最大規模の秋常山1号墳(ランキング89位)の後円部に隣接している古墳です。最初に訪問した時は、保存整備中で墳丘裾はブルーシートで覆われていました。しかし、再訪時は、復元埴輪列や説明板が設置され、埋葬施設の仮設覆屋も撤去されていました。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』(p.54)の「図34 秋常山2号墳の墳丘」の説明文で、「南北27.0m、東西32.5m、高さは東側で4.8m、西側で2.8mと高低差がある。発見当初は前方後方墳と考えられていたが、発掘調査によって西側で周溝がみつかったこともあり、方墳であることが判明した。」と述べています。
この2号墳は、1号墳とともに1999年に「秋常山古墳群」として国の史跡に指定されていました。この秋常山古墳群や既指定の「和田山・末寺山古墳群」に西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
説明板。
「埴輪」説明板。
墳頂の復元埴輪列。
「埋葬施設」説明板。
墳頂の埋葬施設。
ほぼ全景。
全景。
1号墳から見た2号墳。
2号墳から見た和田山(左の丘陵)・末寺山古墳群(右の丘陵)。
以上2014年5月撮影。
石碑。
案内板。
埋葬施設の仮設覆屋。
埋葬施設の一部。
2つで全景。

3つで整備途中全景。

以上2010年5月撮影。
菅原雄一さんは、『北陸の古墳時代をさぐる 能美古墳群』(p.54)の「図34 秋常山2号墳の墳丘」の説明文で、「南北27.0m、東西32.5m、高さは東側で4.8m、西側で2.8mと高低差がある。発見当初は前方後方墳と考えられていたが、発掘調査によって西側で周溝がみつかったこともあり、方墳であることが判明した。」と述べています。
この2号墳は、1号墳とともに1999年に「秋常山古墳群」として国の史跡に指定されていました。この秋常山古墳群や既指定の「和田山・末寺山古墳群」に西山古墳群・寺井山古墳群を加えて、2013年「能美古墳群」という新名称で国の史跡に再指定されています。
説明板。
「埴輪」説明板。
墳頂の復元埴輪列。
「埋葬施設」説明板。
墳頂の埋葬施設。
ほぼ全景。
全景。
1号墳から見た2号墳。
2号墳から見た和田山(左の丘陵)・末寺山古墳群(右の丘陵)。
石碑。
案内板。
埋葬施設の仮設覆屋。
埋葬施設の一部。
2つで全景。
3つで整備途中全景。
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2025年01月23日
番外 石川県の古墳⑪ 矢田野エジリ古墳[三湖台古墳群] 小松市 約30m
消滅古墳です。「春日町公民館」入口付近に説明板が設置されています。埋没していた周溝から多数の形象埴輪が出土し、特に騎乗する貴人と馬子の埴輪が有名です。出土した埴輪は、国の重要文化財に指定されています。
小松市のHP.の「小松市の文化財」中の「石川県矢田野エジリ古墳出土埴輪」の項目で、「矢田野エジリ古墳は、小松市南部に広がる月津台地に造られた、全長約30メートルの前方後円墳で、築造は6世紀前半とみられている。昭和63年(1988)に発掘調査が行なわれ、墳丘や埋葬施設はすでに失われていたが、周溝から大量の埴輪が発見された。 埴輪の内訳は、人物埴輪が11点、馬形埴輪が2点、筒形の円筒埴輪が42点、筒形で先の開いた朝顔形埴輪が6点である。人と馬が別々に作られた騎乗の男子や、それに従う馬飼人、天冠をつけた男子や、巫女、跪く男子など、人物埴輪はどれも特徴的で、葬列の様子を表現したものと推定されている。(後略)」と記されています。
余談ですが、小松市の「コマツ」は、「高麗の津」に通ずるとおっさんは思っています。朝鮮半島北部にあった高句麗と何らかの交流があったと妄想しています。また、佐賀県の唐津市の「カラツ」も「加羅(加耶)の津」に通じ、朝鮮半島南部の地域と関連があると空想しています。
小松市教委の説明板。
跡地付近。矢田野町ワ3-1付近。
跡地付近。
以上2014年5月撮影。
小松市のHP.の「小松市の文化財」中の「石川県矢田野エジリ古墳出土埴輪」の項目で、「矢田野エジリ古墳は、小松市南部に広がる月津台地に造られた、全長約30メートルの前方後円墳で、築造は6世紀前半とみられている。昭和63年(1988)に発掘調査が行なわれ、墳丘や埋葬施設はすでに失われていたが、周溝から大量の埴輪が発見された。 埴輪の内訳は、人物埴輪が11点、馬形埴輪が2点、筒形の円筒埴輪が42点、筒形で先の開いた朝顔形埴輪が6点である。人と馬が別々に作られた騎乗の男子や、それに従う馬飼人、天冠をつけた男子や、巫女、跪く男子など、人物埴輪はどれも特徴的で、葬列の様子を表現したものと推定されている。(後略)」と記されています。
余談ですが、小松市の「コマツ」は、「高麗の津」に通ずるとおっさんは思っています。朝鮮半島北部にあった高句麗と何らかの交流があったと妄想しています。また、佐賀県の唐津市の「カラツ」も「加羅(加耶)の津」に通じ、朝鮮半島南部の地域と関連があると空想しています。
小松市教委の説明板。
跡地付近。矢田野町ワ3-1付近。
跡地付近。
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2025年01月21日
番外 石川県の古墳➉ー2 矢田高塚古墳[矢田古墳群] 七尾市 円墳 径10m
移動中「古墳っぽい」と思って絵を撮った「古墳?」でした。撮影データを確認したところ、前回の矢田丸山古墳の2分後に撮影していたことがわかり、グーグルマップとにらめっこしていたら、「高塚マンション」の敷地内に「発見」。丸山古墳から約150m北西に位置していました。
その後、資料を漁っていたら、「北村さんちの遺跡めぐり」の「矢田古墳群」の項目が目に留まり、「七尾矢田古墳群位置図(判明分)」の該当部分には赤丸と「高塚」の表記が・・・「ビンゴ!」。また、その隣の表には、「高塚古墳 円墳 径10m・高さ3m 私有地」と記されていました。「メデタシ、めでたし」。
全景。矢田町オ66付近。
2014年6月撮影。
その後、資料を漁っていたら、「北村さんちの遺跡めぐり」の「矢田古墳群」の項目が目に留まり、「七尾矢田古墳群位置図(判明分)」の該当部分には赤丸と「高塚」の表記が・・・「ビンゴ!」。また、その隣の表には、「高塚古墳 円墳 径10m・高さ3m 私有地」と記されていました。「メデタシ、めでたし」。
全景。矢田町オ66付近。
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2025年01月19日
番外 石川県の古墳➉ー1 矢田丸山古墳[矢田古墳群] 七尾市 円墳 径42m
矢田古墳群の中で、最大で唯一の前方後円墳である矢田高木森古墳(ランキング1240位)訪問後に立ち寄った古墳です。高木森古墳から、約800m南に位置しています。墳丘裾には、「丸山不動尊」銘の標柱があり、墳頂には二柱の小さな社が建立されていました。
「北村さんちの遺跡めぐり」の「矢田古墳群」の項目の「七尾矢田古墳群位置図(判明分)」の隣の表に、「丸山古墳 円墳 径42m・高さ7.5m 一部残っている」と記されています。
標柱。
墳頂の小社。
近景。西から。
全景。南東から。
以上2014年6月撮影。
「北村さんちの遺跡めぐり」の「矢田古墳群」の項目の「七尾矢田古墳群位置図(判明分)」の隣の表に、「丸山古墳 円墳 径42m・高さ7.5m 一部残っている」と記されています。
標柱。
墳頂の小社。
近景。西から。
全景。南東から。
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2025年01月17日
番外 石川県の古墳⑨ 須曽蝦夷穴古墳 七尾市 方墳 辺約25m
古墳は能登島の南に位置し、和倉温泉から能登島大橋を通って行くことができます。昨年元旦の能登半島地震の影響で一時通行止めになっていましたが、現在は通行可能だそうです。
古墳は、下記のように2基の横穴式石室を有する方墳です。このような双室墓を持つ方墳としては、千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳(ランキング554位)が著名です。
石川県のHP.の「須曽蝦夷穴古墳」の項目で、「須曽集落背後の丘陵中腹(標高約80メートル)に所在し、墳頂からは七尾南湾を隔てて遥かに巴知地溝帯北部を遠望できる。付近には他に有丘墳はなく、孤立墳だといえる。 1辺約25メートル、高さ4.5メートルの方墳で、古くから雄穴(東側)・雌穴(西側)と呼ばれる2基の横穴式石室が南に向けて開口している。昭和28年(1953)、九学会連合能登調査委員会によって学術調査され、その特異な石室構造が学界に紹介されている。 石室の平面形は、T字形(雄穴)・逆L形(雌穴)であるが、安山岩質板石を磚槨式に近い方法で構築、狭長な羨道部には前室の施設を備えている。天井部は、いわゆる隅三角持送技法に類似した架構法を採用しており、北陸では数少ない高句麗様式石室の系譜をひくものとみられる。 前室から出土した須恵器(蓋坏)や直刀片などから、7世紀中葉前後の築造とみられ、能登国造に属する有力氏族の墳墓だと考えられる。 昭和60年「石川県の文化財」より」と記されています。
古墳は、国の史跡に指定されています。
余談ですが、この古墳についは、2019年4月5日のブログで、「1240-2 矢田高木森古墳のおまけの「須曽蝦夷穴古墳」」として掲載していました。重複しましたが、ご了承ください。
標識。
説明板。
石室案内図。
「雌穴石室」説明板。
石室入口。
石室内部。
「雄穴石室」説明板。
石室入口。
石室内部。
全景。北から。
やや全景。南西から。
全景。南東から。
以上2014年6月撮影。
古墳は、下記のように2基の横穴式石室を有する方墳です。このような双室墓を持つ方墳としては、千葉県栄町の龍角寺岩屋古墳(ランキング554位)が著名です。
石川県のHP.の「須曽蝦夷穴古墳」の項目で、「須曽集落背後の丘陵中腹(標高約80メートル)に所在し、墳頂からは七尾南湾を隔てて遥かに巴知地溝帯北部を遠望できる。付近には他に有丘墳はなく、孤立墳だといえる。 1辺約25メートル、高さ4.5メートルの方墳で、古くから雄穴(東側)・雌穴(西側)と呼ばれる2基の横穴式石室が南に向けて開口している。昭和28年(1953)、九学会連合能登調査委員会によって学術調査され、その特異な石室構造が学界に紹介されている。 石室の平面形は、T字形(雄穴)・逆L形(雌穴)であるが、安山岩質板石を磚槨式に近い方法で構築、狭長な羨道部には前室の施設を備えている。天井部は、いわゆる隅三角持送技法に類似した架構法を採用しており、北陸では数少ない高句麗様式石室の系譜をひくものとみられる。 前室から出土した須恵器(蓋坏)や直刀片などから、7世紀中葉前後の築造とみられ、能登国造に属する有力氏族の墳墓だと考えられる。 昭和60年「石川県の文化財」より」と記されています。
古墳は、国の史跡に指定されています。
余談ですが、この古墳についは、2019年4月5日のブログで、「1240-2 矢田高木森古墳のおまけの「須曽蝦夷穴古墳」」として掲載していました。重複しましたが、ご了承ください。
標識。
説明板。
石室案内図。
「雌穴石室」説明板。
石室入口。
石室内部。
「雄穴石室」説明板。
石室入口。
石室内部。
全景。北から。
やや全景。南西から。
全景。南東から。
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2025年01月15日
番外 石川県の古墳⑧ 院内勅使塚古墳 七尾市 方墳 辺23×22m
この古墳は、大型石材で石室を構築する二段築成の方墳です。
10年以上前の絵です。当時は、大型前方後円墳や前方後方墳を主目的としていたので、同じ七尾市内の前方後方墳である国分尼塚古墳群訪問の際に立ち寄りました。ただし、国分尼塚古墳群は、台地西側に位置していると思い込んで(実際は東側)絵を撮っていたので、墳丘を見つけることができず、地面の高まりを探してうろついていた記憶があります。いつかリベンジしたいものです。
石川県のHP.の「院内勅使塚古墳」の項目で、「JR七尾線徳田駅の南東約130m、邑知地溝帯の東麓に近く築かれた代表的な横穴式石室墳。墳丘は長辺23m、短辺21.8m、高さ3.7mの二段築成の方墳で、墳丘には入念な版築工法がみられる。墳裾に沿って幅約6.0m、深さ約1.8mの周濠がめぐる。 横穴式石室は径1mを超える大型石材をもって構築するが、天井石を完存する石室としては県内でも数少ない事例である。石室規模は玄室長4.62m、同幅2.5~2m、羨道長7.22m、同幅平均約2mを測り、その様式は蘇我馬子の墳墓とされる石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)に近似し、その縮小版ともいえる。6世紀後葉ごろから、天皇陵墓などでも前方後円墳に替わって方墳が採用されることが多い。7世紀後半ごろに築かれた勅使塚古墳は、能登国造能登臣氏一族の墳墓であった可能性は濃い。 昭和60年「石川県の文化財」より」と記されています。
古墳は、石川県の史跡に指定されています。
余談ですが、国分尼塚古墳群については、2019年4月5日のブログ「1240-1 矢田高木森古墳のおまけの「国分尼塚古墳群」」の項目で、古墳と思い込みたかった絵を掲載していました。
標柱。
説明板。

石室入口。
石室内部。
石室内部から入口。
全景。
ほぼ全景。
以上2010年5月撮影。
10年以上前の絵です。当時は、大型前方後円墳や前方後方墳を主目的としていたので、同じ七尾市内の前方後方墳である国分尼塚古墳群訪問の際に立ち寄りました。ただし、国分尼塚古墳群は、台地西側に位置していると思い込んで(実際は東側)絵を撮っていたので、墳丘を見つけることができず、地面の高まりを探してうろついていた記憶があります。いつかリベンジしたいものです。
石川県のHP.の「院内勅使塚古墳」の項目で、「JR七尾線徳田駅の南東約130m、邑知地溝帯の東麓に近く築かれた代表的な横穴式石室墳。墳丘は長辺23m、短辺21.8m、高さ3.7mの二段築成の方墳で、墳丘には入念な版築工法がみられる。墳裾に沿って幅約6.0m、深さ約1.8mの周濠がめぐる。 横穴式石室は径1mを超える大型石材をもって構築するが、天井石を完存する石室としては県内でも数少ない事例である。石室規模は玄室長4.62m、同幅2.5~2m、羨道長7.22m、同幅平均約2mを測り、その様式は蘇我馬子の墳墓とされる石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)に近似し、その縮小版ともいえる。6世紀後葉ごろから、天皇陵墓などでも前方後円墳に替わって方墳が採用されることが多い。7世紀後半ごろに築かれた勅使塚古墳は、能登国造能登臣氏一族の墳墓であった可能性は濃い。 昭和60年「石川県の文化財」より」と記されています。
古墳は、石川県の史跡に指定されています。
余談ですが、国分尼塚古墳群については、2019年4月5日のブログ「1240-1 矢田高木森古墳のおまけの「国分尼塚古墳群」」の項目で、古墳と思い込みたかった絵を掲載していました。
標柱。
説明板。
石室入口。
石室内部。
石室内部から入口。
全景。
ほぼ全景。
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2025年01月13日
番外 石川県の古墳⑦ー3 雨の宮36号墳[雨の宮古墳群] 中能登町 円墳 径11m
この36号墳は、2号墳(ランキング762位)の前方部西側に隣接する円墳です。
雨の宮古墳群には30基を超える古墳が現存していますが、ランキング古墳である1・2号墳とその周囲に位置している古墳しか撮っていませんでした。「気力・体力が足らんダラー」。
墳形や規模については、説明板等がなかったため、「北村さんちの遺跡めぐり」を参考にさせてもらいました。「中能登町の古墳その1 雨の宮古墳群の全貌を知る」の項目で、「名称 36号墳、墳形 円墳、大きさ(m) 径11m、高さ(m) 0.5m」と記されています。
「雨の宮古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
墳頂。
以上2014年6月撮影。
雨の宮古墳群には30基を超える古墳が現存していますが、ランキング古墳である1・2号墳とその周囲に位置している古墳しか撮っていませんでした。「気力・体力が足らんダラー」。
墳形や規模については、説明板等がなかったため、「北村さんちの遺跡めぐり」を参考にさせてもらいました。「中能登町の古墳その1 雨の宮古墳群の全貌を知る」の項目で、「名称 36号墳、墳形 円墳、大きさ(m) 径11m、高さ(m) 0.5m」と記されています。
「雨の宮古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
標柱。
墳頂。
Posted by じこま at
07:07
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