2024年11月30日

番外 愛知県の古墳58 平井大塚古墳 豊田市 円墳 径約30m

 古墳は、「平井町区民会館」の南に隣接する「平井ちびっこ広場」にあり、台地縁辺に立地しています。墳丘の北側から東側にかけては石垣状の擁壁が直角に作られ、盛土は削り取られています。墳頂には、10基ほどの墓石が建てられていました。
 下記の説明板では、「直径約30m、残存高約4mの大型の円墳です。」と記されています。
      
 余談ですが、今回訪問した多くの古墳には、史跡指定の有無にかかわらず、石柱や説明板が設置されていました。こうした標識があると、目的地に到着できたという安心感・達成感があり本当に助かりました。


 豊田市教委の説明板。


 墳頂。


 やや全景。南東から。


 やや全景。北東から。


 全景。中央の階段左上に古墳の石柱。東から。
        以上2024年11月撮影。  


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2024年11月28日

番外 愛知県の古墳57 神明社古墳 豊田市 円墳 径27m

 前回の不動古墳(移築・復元)から約900m北北西の神明神社に位置しています。墳丘上には本殿が建立され、北側には直線的に石垣が組まれており、かなり改変されています。
 森泰通さんは、「墳丘は社殿によって大きく改変されているが、現状では高さ3.8mを測る。トレンチ(T1)での所見によれば、周溝は残存幅8.7m、深さ0.6mほどの規模で、墳丘は直径27m、周溝を含めれば直径39m前後の円墳と考えられる。しかし、かつては現状より東へ高まりが続いていたとされ、帆立貝形前方後円墳となる可能性も残されている。」(「144 神明社古墳」、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』p.450)と述べています。
 また同上書で、「江戸時代から開口していた主体部は、竪穴式石室である可能性が高い。(中略)竪穴式石室は寸詰まりな平面形を有し、5世紀後半に朝鮮半島から伝播する新式の竪穴式石室となる可能性をもつ。現状では西三河唯一の竪穴式石室の確認例として貴重である。」(p.450)と述べています。おっさんは、石室については見逃していました。「あらら、もったいないじゃん」。
 

 石柱。裏面。


 全景。南東から。


 全景。北東から。


 全景。東から。
        以上2024年11月撮影。  


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2024年11月26日

番外 愛知県の古墳56 不動古墳 豊田市 円墳 径約19m

 この古墳は、「美里1区区民会館」のすぐ西に移築・復元されています。高台に位置しているので、北側に広川小学校の校舎が見え、子ども達の声も聞こえてきました。
 下記の説明板に、「古墳は直径約十九mの円墳で、内部には二つの横穴式石室がつくられています。」と記されています。おっさんは、1基の石室しか目に入りませんでした。「頭だけでなく、眼も老化しとるダラー」。  

 余談ですが、この不動古墳や前々回の香九礼1号墳など、今回は移築古墳が目立ちました。豊田市の文化財行政が、古墳の消失を回避しようとする努力を重ねてきた成果でしょうか。    
 脱線しますが、移築されているにもかかわらず、「不動古墳」とはこれ如何に・・・。


 豊田市教委の説明板。


 石室。


 ほぼ全景。東から。


 全景。北西から。


 ほぼ全景。南から。
        以上2024年11月撮影。  


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2024年11月24日

番外 愛知県の古墳55 八柱社(やはしらしゃ)古墳 豊田市 造出付円墳 全長38m

 この古墳は、「曽根遺跡公園」の南に隣接し、前回の香九礼1号墳の約50m西南西の林の中に立地しています。古墳の墳頂には、門守神社の社殿が建立されており、「門守社古墳」というべきかもしれませんが、八柱神社の境内にあるためか「八柱社古墳」と呼ばれています。
 公園内の説明板では、「直径33m・高さ5.5mの円墳の西側に、幅10m・長さ7.5m・高さ0・6m前後の方形の造出があり」と記され、「造出付円墳」と理解できます。しかし、林の中の市教委の説明板では、「市内唯一の前方後円墳で、上から見ると帆立貝の形をしていることから帆立貝式古墳と呼ばれています。」と記されており、「どっちやねん」と思ってしまいます。
 前にも書きましたが、古墳研究のバイブル的存在の『前方後円墳集成』では、円形部:方形部=1:1/4未満を「造出付円墳」、1:1/2未満~1/4以上を「帆立貝形前方後円墳」と定義していたと思います。この公式に、この八柱社古墳を当てはめてみると、33>7.5×4=30なので、「造出付円墳」と言えるのではないでしょうか。「豊田市教委の前方後円説は勇み足ダラー」。
 また、『愛知県史 資料編3 考古3古墳』でも、森泰通さんは、「墳丘は全長38m(周溝含45m)、高さ5.5mを測る造出付円墳」(「143 八柱社古墳」p.448)と述べています。
 この古墳は、豊田市の史跡に指定されています。


 説明板。

 豊田市教委の説明板。


 円形部中央。右側。左側。

 造出右側。左側。


 全景。手前が造出、奥が円形部。


 2つで全景(横から)。円形部一部。円形部一部から造出。


 全景。北から。

 全景。東から。手前が八柱神社社殿、奥が古墳。
        以上2024年11月撮影。  


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2024年11月22日

番外 愛知県の古墳54 香九礼(かくれ)1号墳 豊田市 円墳 径12m

 古墳は、豊田スタジアムの南にある「曽根遺跡公園」内に移築・復元されています。スタジアムには、「ルヴァンカップ 名古屋グランパス優勝おめでとう!」と記された横断幕が掲げられていました。
 説明板では、「香九礼1号墳は市内志賀町香九礼にあった円墳で、昭和50年に宅地造成に先立って調査が行われ、この公園に移築されました。古墳の大きさは、直径12m・高さ1.5mで、内部主体は横穴式石室です。」と記されています。


 説明板。


 石室羨道。

 石室入口。


 近景。北から。

 やや全景。西から。


 古墳付近から豊田スタジアムを見る。
        以上2024年11月撮影。  


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2024年11月20日

番外 愛知県の古墳53 樫尾1号墳 豊田市 円墳 径約10m

 古墳は、豊田市博物館の敷地内に移設・復元されています。
 説明板では、「野見山町(高橋地区)にあった直径約10mの円墳。」と記されています。

 余談ですが、博物館の開館記念展「旅するジョウモンさん」に展示された国宝指定の火焔型土器見たさに訪問しました。世界のトヨタの「城下町」の博物館だけあって建物は立派で、展示された各地域の中期の土器は絢爛豪華でした。また、勝坂式・加曽利E式・大木囲式など昔聞いたことのある型式の土器を実見できたことは貴重な経験でした。ただし、おっさんは弥生前期の遠賀川式土器のシンプルで実用的な「スッピン」さに魅力を感じています。「天邪鬼ダラー」。 なお、展示品の撮影については、許可をもらっています。
 余談の余談ですが、この機会に博物館周辺の古墳探訪をしましたので、次回から掲載していきたいと思います。


 説明板。


 石室入口。

 石室内部。


 全景。北から。

 全景。東から。


   
    おまけ

 笹山遺跡出土の火焔型土器(国宝)。
 
        以上2024年11月撮影。  


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2024年11月18日

番外 愛知県の古墳㉟ー3 若宮2号墳[若宮古墳群] 西尾市 円墳 径約20m

 前回の1号墳に続いて2号墳です。2号墳は1号墳の北に隣接する円墳です。墳頂には社殿が建立され、その西側斜面に標柱が建てられています。
 西島庸介さんは、「1号墳は直径20m前後、高さ2mの円墳とみられる。現状では墳頂に稲荷社が造られている。」(p.504)(「87 若宮古墳群」、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。

 余談ですが、上記『新編西尾市史 資料編1 考古』に掲載された墳丘測量図(p.506)では、墳丘南側の等高線はかなり乱れていますが、北側は乱れがなく、一見すると東側の社殿部を造出しとする「造出し付円墳」に見えてしまいました。「目の錯覚ダラー」。


 標柱「若宮第二古墳」。


 墳頂。


 墳丘の一部。


 全景。南から。
        以上2024年7月撮影。  


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2024年11月16日

番外 愛知県の古墳㉟ー2 若宮1号墳[若宮古墳群] 西尾市 方墳(円墳) 約30×26m

 古墳は、岡山丘陵の西端付近に立地する若宮古墳群に属しています。3号墳については、2024年7月31日のブログで紹介していましたが、この1号墳と2号墳は諸事情で掲載を控えていました。自主規制を解禁して掲載しました。

 西島庸介さんは、「1号墳は直径26m、高さ3.5mの円墳とみられていたが、昭和63年の吉良町教育委員会の調査によって南北約30m、東西約26m、高さ4mの方墳ないし円墳と報告された。墳形は再測量調査でも確定されていないが、方墳の可能性が残されている。」(p.504)、「1号墳の築造時期については四獣形鏡などから古墳時代前期末葉~中期初頭の4世紀後葉~末葉と推定される。」(「87 若宮古墳群」、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。

 余談ですが、以前、同じ丘陵上にある善光寺沢南古墳(2024年8月2日に掲載)を紹介しましたが、この1号墳と善光寺沢南古墳とは、はぼ同時期に築造され、同形・同規模の可能性があるようです。


 標柱「若宮第一古墳」。


 墳頂。


 全景。西から。


 全景。南から。


 全景。東から。
        以上2024年7月撮影。  


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2024年11月14日

番外 岐阜県の古墳⑱ー2 大洞平第2号古墳[大洞平古墳群] 飛騨市 方墳 辺23×26m

 この古墳も前回の1号古墳と同じく、訪問の記憶がありません。おっさんは、円墳の1号墳と方墳の2号墳が近接して築造されているのはレアケースだと思いました。
 岐阜県のHP.の「大洞平第二号古墳[おおぼらだいらだいにごうこふん]」の項目で、「大洞平第二号古墳は、一号墳の南西約37mの位置にある後期方墳である。基底部前面の長さ23.2m、東側面の長さ26.4m、背面の長さ22.8m、西側面の長さ22.6mで、前面の高さ4.12mである。内部主体は南西に開口した横穴式石室で、石室の全長11.92m、玄室の長さは4.92m、奥壁の幅2.0m、高さ1.92mである。天井は4枚の巨石をもって覆われている。羨道は長さ6.58m、幅1.32m、高さ1.64mである。副葬品については明らかでない。一号墳とならんで、ニツ塚古墳と呼ばれている。」と記されています。
 古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。

 余談ですが、上記のHP.では、「後期方墳」と記されていますが、前方後円墳の築造が終了した7世紀以降に方墳が築造されるケースが多いことから、「終末期の方墳」ではないかと思います。中井正幸さんも、「終末期には飛騨市大洞平2号墳や海具江古墳など一辺二五~三〇メートルの大型方墳が並立し、白鳳期瓦の出土から律令体制や仏教文化の浸透が早かったことを物語る。」(「六 東海 【東海西部】」p.333、広瀬和男・和田晴吾編『講座日本の考古学7 古墳時代上』所収)と述べています。


 飛騨市教委の説明板。


 石室入口。


 全景。南から。

 全景。北北東から。
        以上2016年11月撮影。  


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2024年11月12日

番外 岐阜県の古墳⑱ー1 大洞平第1号古墳[大洞平古墳群] 飛騨市 円墳 径20m

 訪問の記憶がない古墳です。同じ古川町にある信包八幡神社古墳(ランキング958位)訪問の際に立ち寄ったものと思われます。
 岐阜県のHP.の「大洞平第一号古墳[おおぼらだいらだいいちごうこふん]」の項目で、「大洞平第一号古墳は宮川左岸にある中野地区の後方、山麓斜面に位置する二段築成の円墳である。墳丘の直径約20m、高さは前面で3.4m、後方で5.56mである。内部主体は南東に開口した両袖式の横穴式石室で、その規模は西側で全長11.4mである。玄室の長さは3.9m、幅1.95m、高さ2.15m、入り口付近の幅1.8m、高さ1.58mである。玄室は4枚の天井石で覆われている。羨道は西側で長さ7.1m、幅1.8m、高さ1.58mである。副葬品については、明らかでない。」と記されています。
 古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。


 飛騨市教委の説明板。

 石碑。


 石室入口。


 全景。南から。

 全景。西から。
        以上2016年11月撮影。  


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