2024年07月31日
番外 愛知県の古墳㉟ー1 若宮3号墳[若宮古墳群] 西尾市 円墳 径10m
このブログで、西尾市内の古墳について参考文献として活用させてもらっている『新編西尾市史 資料編1 考古』を斜め読みしていたら、吉良八幡山古墳(2018年10月21日のブログで紹介)のある岡山丘陵の西端に、この若宮古墳群があることを知り、興味が湧いたので訪問しました。
同上書を参考に、グーグルマップで古墳群の位置を確認して、「いざ鎌倉」。一般道から舗装された坂道に入り、ぬれ落ち葉にスリップしないよう気をつけながら進むと、舗装がなくなる手前に「若宮第三古墳」と記された標柱がありました。ただし、その北東側にロープが張られ、「私有地につき 立入厳禁 加藤」と記された立て札が立っていました。こちらの方向に、1号墳や2号墳があるはずだと思いながら、パチリと一枚絵を撮りました・・・。
西島庸介さんは、「3号墳は墳頂部と墳丘の西側及び東側が削り取られている。現状では直径10m、高さ2mの円墳とみられる。」(「87 若宮古墳群」p.504、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
「若宮第三古墳」銘の標柱。
全景。北から。
「立入厳禁」の立て札。
この奥に1・2号墳があるはず。
以上2024年7月撮影。
同上書を参考に、グーグルマップで古墳群の位置を確認して、「いざ鎌倉」。一般道から舗装された坂道に入り、ぬれ落ち葉にスリップしないよう気をつけながら進むと、舗装がなくなる手前に「若宮第三古墳」と記された標柱がありました。ただし、その北東側にロープが張られ、「私有地につき 立入厳禁 加藤」と記された立て札が立っていました。こちらの方向に、1号墳や2号墳があるはずだと思いながら、パチリと一枚絵を撮りました・・・。
西島庸介さんは、「3号墳は墳頂部と墳丘の西側及び東側が削り取られている。現状では直径10m、高さ2mの円墳とみられる。」(「87 若宮古墳群」p.504、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
「若宮第三古墳」銘の標柱。
全景。北から。
「立入厳禁」の立て札。
この奥に1・2号墳があるはず。
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2024年07月29日
番外 愛知県の古墳㉞ 経塚古墳 西尾市 円墳 径約30m
古墳は、正法寺古墳の約400m東南東に位置し、丘陵地に立地していました。墳丘は削られ、跡地西側は墓地となっています。道路から墓地にむかう坂道には、手すりが設置されており、雨で濡れた路面を上る際に大変助かりました。また、そこから正法寺古墳が築造された場所を臨むことができました。墓地の東南隅に「経塚古墳」と記された標柱があり、草むらの中から偶然見つけた時は、何か得した気分になりました。
三田敦司さんは、「墳丘は直径約30m、高さ約3mで、南側の裾に葺石が残存していた。」、「本古墳は、大型前方後円墳の正法寺古墳と近い時期に築造された葺石・埴輪を有する2段築成の円墳である。被葬者は、正法寺古墳と同時代の正法寺古墳の被葬者に次ぐ地位の人物、あるいは正法寺古墳築造後あまり時間を経ずして亡くなった次代の首長と想定される。」(「94 経塚古墳」p.540、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
標柱。
跡地付近。南から。
跡地付近。北から。
跡地付近。東から。
遠景。南から。
跡地付近から正法寺古墳を見る。東から。
以上2024年7月撮影。
三田敦司さんは、「墳丘は直径約30m、高さ約3mで、南側の裾に葺石が残存していた。」、「本古墳は、大型前方後円墳の正法寺古墳と近い時期に築造された葺石・埴輪を有する2段築成の円墳である。被葬者は、正法寺古墳と同時代の正法寺古墳の被葬者に次ぐ地位の人物、あるいは正法寺古墳築造後あまり時間を経ずして亡くなった次代の首長と想定される。」(「94 経塚古墳」p.540、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
標柱。
跡地付近。南から。
跡地付近。北から。
跡地付近。東から。
遠景。南から。
跡地付近から正法寺古墳を見る。東から。
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2024年07月27日
番外 愛知県の古墳㉝ 中之郷古墳 西尾市 帆立貝形前方後円墳 復元約37m、または円墳 復元径約42m
古墳は、正法寺古墳の約2.8km東、現在の海岸線から約130m北の小規模な台地上に立地しています。
横穴式石室を含む墳丘の西側部分が残存していますが、残存部も観音堂や天王社の建立によって削平されています。また、石室は「穴観音」として信仰の対象となっていました。横穴式石室が信仰の対象となっている著名な古墳として、福岡県福津市の宮地嶽古墳(2020年2月25日のブログで紹介)があります。
また、下記のように墳形は未確定ですが、40m前後の規模が想定されています。
三田敦司さんは、2014年3月に西尾市教育委員会によって実施された範囲確認調査により、「範囲確認調査で設定された3か所の調査区のうち、南側の第3トレンチで墳丘裾部の葺石が発見されたが(図3)、墳形及び規模の確定には至っていない。」、「円墳であったとすると、直径は42m前後となる。墳丘と石室の配置を考慮し第3トレンチで検出された墳端を突出部と考えると、帆立貝形古墳と想定することも可能となる。この場合の墳長は37m前後となる。」(「112 中之郷古墳」p.596、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
さらに三田さんは、「出現期の石見型埴輪が出土したことから、中央政権との親密な関係が想定され、正法寺古墳(おっさん註 2018年5月10日のブログに「436 正法寺古墳」として掲載)・岩場古墳(おっさん註 前回掲載)・中之郷古墳と3代にわたる首長墳に築造にあたっては、政権中枢から各時代の最新の埴輪製作に関する情報がもたらされていたことが明らかとなった。その背景として、三河湾沿岸部の歴代の首長たちが海上交通を掌握することによって、世代を超えて政権と特別な関係を維持していたことが想定される。」(同上書p.597)とこの古墳を位置づけています。
古墳は、西尾市の史跡に指定されています。
説明板。
石室入口。
墳頂残存部。
墳丘残存部。北西から。
墳丘残存部。南西から。
墳丘残存部。南西から。
墳頂から見る前方部跡(帆立貝形前方後円墳の場合)。
以上2024年7月撮影。
横穴式石室を含む墳丘の西側部分が残存していますが、残存部も観音堂や天王社の建立によって削平されています。また、石室は「穴観音」として信仰の対象となっていました。横穴式石室が信仰の対象となっている著名な古墳として、福岡県福津市の宮地嶽古墳(2020年2月25日のブログで紹介)があります。
また、下記のように墳形は未確定ですが、40m前後の規模が想定されています。
三田敦司さんは、2014年3月に西尾市教育委員会によって実施された範囲確認調査により、「範囲確認調査で設定された3か所の調査区のうち、南側の第3トレンチで墳丘裾部の葺石が発見されたが(図3)、墳形及び規模の確定には至っていない。」、「円墳であったとすると、直径は42m前後となる。墳丘と石室の配置を考慮し第3トレンチで検出された墳端を突出部と考えると、帆立貝形古墳と想定することも可能となる。この場合の墳長は37m前後となる。」(「112 中之郷古墳」p.596、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
さらに三田さんは、「出現期の石見型埴輪が出土したことから、中央政権との親密な関係が想定され、正法寺古墳(おっさん註 2018年5月10日のブログに「436 正法寺古墳」として掲載)・岩場古墳(おっさん註 前回掲載)・中之郷古墳と3代にわたる首長墳に築造にあたっては、政権中枢から各時代の最新の埴輪製作に関する情報がもたらされていたことが明らかとなった。その背景として、三河湾沿岸部の歴代の首長たちが海上交通を掌握することによって、世代を超えて政権と特別な関係を維持していたことが想定される。」(同上書p.597)とこの古墳を位置づけています。
古墳は、西尾市の史跡に指定されています。
説明板。
石室入口。
墳頂残存部。
墳丘残存部。北西から。
墳丘残存部。南西から。
墳丘残存部。南西から。
墳頂から見る前方部跡(帆立貝形前方後円墳の場合)。
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2024年07月25日
番外 愛知県の古墳㉜ 岩場古墳 西尾市 帆立貝形前方後円墳 約30m
古墳は勝楽寺の境内地にあります。寺の駐車場に、西尾市の説明板が設置されています。現在では、説明板の左下部に「お寺の許可無く無断で古墳に立ち入らないで下さい。云々」と記した板が追加されているようです。10年以上前の訪問なので、定かではありませんが、この説明板付近から古墳に向かったような記憶があります。おっさんの行為が、追加板の設置につながったとしたら、申し訳ない気がします。「常識人たるべし」。
訪問時、古墳の墳丘が確認できず、二か所に設置された標柱とその付近の絵を撮っただけでした。「岩場古墳跡」とする標柱があったので、墳丘は削平されたと思っていました。
三田敦司さんは、「本古墳は自然地形を利用して墳丘が築造されているため、墳丘の形状は明瞭ではない。報告書では、墳頂部の盛土の厚さは10~20cmと推定されており、墳丘は主に地山削り出しによって成形されたとみられる。尾根の頂部を後円部とし、北側の埴輪棺が出土した部分を突出部として、標高46mの等高線付近を墳裾と想定すると、全長約30mの帆立貝形古墳として復元できる。葺石は確認されていない。」(「92 岩場古墳」p.522、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
また、西尾市のHP.の「岩場古墳」の項目で、「よみ いわばこふん、指定・種別 県指定・史跡、指定面積 全長約30m 前方後円墳(帆立貝形)、時代 古墳時代中期、所在 吉良町小山田大山」、「岩場古墳は勝楽寺東側の尾根先端に位置する墳長約30m程度の帆立貝形前方後円墳である。昭和25年(1950)に吉田中学校歴史クラブの生徒が岩石採集の際、偶然埴輪棺を発見したことをきっかけに発掘調査が行なわれた。さらに翌年墳頂部から全国でも出土例が25例ほどしかない円筒棺(えんとうかん)が発見されている。 円筒棺からは鉄刀や鉄斧などの鉄製品が多数出土し、三河地方の代表的な中期古墳として重要である。なお、円筒棺は現在西尾市吉良歴史民俗資料館に展示されている。」と記しています。
上記のように、古墳は愛知県の史跡に指定されています。また、埴輪棺や円筒棺などの出土品は、愛知県の文化財に指定されています。
余談ですが、この古墳の約1600m南に、西三河最大の古墳といわれていた正法寺古墳(2018年5月10日のブログに「436 正法寺古墳」として掲載)があります。ただし、現在では、従来直径60mの円墳とされていた岡崎市の甲山1号墳が、全長120mの前方後円墳の後円部であり、三河エリア最大の古墳であると指摘されています。(2018年5月10日に「補遺 [166-4] 甲山古墳(甲山1号墳)」として紹介)
西尾市教委の説明板。
標柱「岩場古墳」。
前方部。
標柱「岩場古墳跡」。
後円部墳頂。祠の左奥から円筒棺出土。
以上2013年11月撮影。 続きを読む
訪問時、古墳の墳丘が確認できず、二か所に設置された標柱とその付近の絵を撮っただけでした。「岩場古墳跡」とする標柱があったので、墳丘は削平されたと思っていました。
三田敦司さんは、「本古墳は自然地形を利用して墳丘が築造されているため、墳丘の形状は明瞭ではない。報告書では、墳頂部の盛土の厚さは10~20cmと推定されており、墳丘は主に地山削り出しによって成形されたとみられる。尾根の頂部を後円部とし、北側の埴輪棺が出土した部分を突出部として、標高46mの等高線付近を墳裾と想定すると、全長約30mの帆立貝形古墳として復元できる。葺石は確認されていない。」(「92 岩場古墳」p.522、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
また、西尾市のHP.の「岩場古墳」の項目で、「よみ いわばこふん、指定・種別 県指定・史跡、指定面積 全長約30m 前方後円墳(帆立貝形)、時代 古墳時代中期、所在 吉良町小山田大山」、「岩場古墳は勝楽寺東側の尾根先端に位置する墳長約30m程度の帆立貝形前方後円墳である。昭和25年(1950)に吉田中学校歴史クラブの生徒が岩石採集の際、偶然埴輪棺を発見したことをきっかけに発掘調査が行なわれた。さらに翌年墳頂部から全国でも出土例が25例ほどしかない円筒棺(えんとうかん)が発見されている。 円筒棺からは鉄刀や鉄斧などの鉄製品が多数出土し、三河地方の代表的な中期古墳として重要である。なお、円筒棺は現在西尾市吉良歴史民俗資料館に展示されている。」と記しています。
上記のように、古墳は愛知県の史跡に指定されています。また、埴輪棺や円筒棺などの出土品は、愛知県の文化財に指定されています。
余談ですが、この古墳の約1600m南に、西三河最大の古墳といわれていた正法寺古墳(2018年5月10日のブログに「436 正法寺古墳」として掲載)があります。ただし、現在では、従来直径60mの円墳とされていた岡崎市の甲山1号墳が、全長120mの前方後円墳の後円部であり、三河エリア最大の古墳であると指摘されています。(2018年5月10日に「補遺 [166-4] 甲山古墳(甲山1号墳)」として紹介)
西尾市教委の説明板。
標柱「岩場古墳」。
前方部。
標柱「岩場古墳跡」。
後円部墳頂。祠の左奥から円筒棺出土。
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2024年07月23日
番外 愛知県の古墳㉛ とうてい山古墳 西尾市 円墳 径想定18(21)m
古墳へは、国道247号線の東幡豆田中交差点を北にむかい約230m進むと、電柱の傍らに下記の案内標識があります。そこを西に進み案内に従って住宅地に入り、あっちに行き・こっちに行き草地を通り抜けると(10年以上前の訪問なので、記憶が・・・)、三河湾を望む丘陵地に墳丘が見えてきます。石室入口には柵が設置されていましたが、石室内には箱式石棺が破損して砕けた石材とともに置かれていました。
現在の墳丘は、1999年に幡豆町教育委員会によって復元・整備されています。なお、1964年に盗掘グループによって、この古墳から多数の須恵器が掘り出されて骨董屋に売却され、その後は消息不明だそうです。「どいかんじゃん」。
説明板や案内標識は幡豆町ですが、2011年4月に町村合併で西尾市となっています。そのため、現在は西尾市の史跡に指定されています。
西尾市のHP.の「とうてい山古墳」の項目で、「よみ とうていやまこふん、指定・種別 市指定・史跡、員数 1基、形状 全長8m 円墳、時代 古墳時代後期、所在 東幡豆町山崎」「とうてい山古墳は、三ヶ根山系から南に延びた舌状丘陵先端部に位置し、眼下に三河湾を一望できる。発掘調査は昭和42年に行われた。円墳、横穴式石室で単室・両袖型。奥壁に幅2.4m以上、高さ2m以上の巨石を用い、最大幅2.72m、最大高2.82mを測る。石室内の右側壁寄りには佐久島産凝灰質砂岩を用いた組合せ式箱形石棺が置かれている。出土遺物は須恵器・玉類・武具・馬具など多数。6世紀後半の築造とみられる。」と記されています。ただし、「全長8m」は、石室の全長と思われるので、おっさん的には墳丘の全長(直径)の数値を示して欲しかったです。
下記の説明板では、「6世紀後半の円墳で墳丘の直径は、およそ21mあり現在までに町内で発掘された古墳では最大規模である。」と表示されています。ただし、三田敦司さんは、「墳丘の正式な発掘調査が行われていないため古墳の正確な規模は不明である。石室の南側に残る斜面は墳丘の一部である可能性が高く、直径18m程度の円墳であったと想定される。」(「116 とうてい山古墳」p.610、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。墳丘規模については、後者を主として両論併記としました。
幡豆町教委の説明板。
案内標識。
石室内部。
石室内の箱式石棺。

やや全景。
全景。
古墳から三河湾を望む。
以上2013年11月撮影。
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現在の墳丘は、1999年に幡豆町教育委員会によって復元・整備されています。なお、1964年に盗掘グループによって、この古墳から多数の須恵器が掘り出されて骨董屋に売却され、その後は消息不明だそうです。「どいかんじゃん」。
説明板や案内標識は幡豆町ですが、2011年4月に町村合併で西尾市となっています。そのため、現在は西尾市の史跡に指定されています。
西尾市のHP.の「とうてい山古墳」の項目で、「よみ とうていやまこふん、指定・種別 市指定・史跡、員数 1基、形状 全長8m 円墳、時代 古墳時代後期、所在 東幡豆町山崎」「とうてい山古墳は、三ヶ根山系から南に延びた舌状丘陵先端部に位置し、眼下に三河湾を一望できる。発掘調査は昭和42年に行われた。円墳、横穴式石室で単室・両袖型。奥壁に幅2.4m以上、高さ2m以上の巨石を用い、最大幅2.72m、最大高2.82mを測る。石室内の右側壁寄りには佐久島産凝灰質砂岩を用いた組合せ式箱形石棺が置かれている。出土遺物は須恵器・玉類・武具・馬具など多数。6世紀後半の築造とみられる。」と記されています。ただし、「全長8m」は、石室の全長と思われるので、おっさん的には墳丘の全長(直径)の数値を示して欲しかったです。
下記の説明板では、「6世紀後半の円墳で墳丘の直径は、およそ21mあり現在までに町内で発掘された古墳では最大規模である。」と表示されています。ただし、三田敦司さんは、「墳丘の正式な発掘調査が行われていないため古墳の正確な規模は不明である。石室の南側に残る斜面は墳丘の一部である可能性が高く、直径18m程度の円墳であったと想定される。」(「116 とうてい山古墳」p.610、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。墳丘規模については、後者を主として両論併記としました。
幡豆町教委の説明板。
案内標識。
石室内部。
石室内の箱式石棺。
やや全景。
全景。
古墳から三河湾を望む。
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2024年07月21日
番外 愛知県の古墳㉚ー7 獅子塚古墳[桜井古墳群] 安城市 前方後円(方)墳 推定55m前後(60~70m)
古墳は、前回の姫塚古墳の約200m北の秋葉神社の境内地にあります。前方部は削平され、後円(方)部も社殿の建立により改変されています。ただし、残存する後円(方)部は高さがあり、築造時の規模の大きさを暗示しているようでした。
HP.「安城市埋蔵文化財センター」の「遺跡・史跡紹介」の「獅子塚古墳」の項目で、「東町に所在し、碧海台地東縁が沖積地に向かって小さく張り出した地点の、段丘崖に接して築かれています。名称の由来は「獅子のうずくまった形」だからと伝えられ、あるいは獅子面を埋納したためとも、姫塚古墳に葬られた姫君の乳母「いし」が葬られた「いし塚」から来ているという説話もあります。測量調査の結果、残存する墳丘の規模は東西26m、南北28m、高さは約5mで、整った円形ではありません。地籍図を見ると、前方部を南南西に向けた前方後円墳または前方後方墳であった可能性があります。本来高かった前方部は明治年間には削り取られたと伝えられています。 現在も前方後円形の区画がほぼ残っています。区画全体を古墳であったと考えると、全長は60~70m、後円部径30数mに復元されます。時期を知る手がかりはありませんが、地籍図からは二子古墳や姫小川古墳に匹敵する規模を持つ古墳であった可能性があります。そうでない場合も、全長40m以上の前方後円墳または後方墳として、市内ではそれらに次ぐ規模を誇ります。 全 長:約60~70mか?」と記されています。
下記の説明板では、「前方部を南南西に向け、全長五五メートル前後の前方後円墳でしたが、明治年間に鹿乗川の堤防工事のため前方部の封土を削り取り、現状は後円部だけが残ります。」と記されていますが、ここでは「前方後円(方)墳」としました。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
余談ですが、この獅子塚古墳が全長60~70m規模とするならば、「番外」扱いではなく「ランキング古墳」とすべきですが、確定した数値でないため、ここでは慎重に取り扱いました。
余談の余談ですが、この獅子塚古墳や比蘇山古墳が全長60m以上であるならば、桜井古墳群には、北部に二子古墳・比蘇山古墳の2基、南部に姫小川古墳・獅子塚古墳の2基、合わせて4基の大型古墳があったことになり、西三河最大の古墳群であったと思いました。
安城市教委の説明板。
標柱。
後円(方)部の一部。
以上2008年6月撮影。
安城市教委の説明板。
後円(方)部右側。左側。

前方部跡。
前方部跡から後円(方)部。南から。
後円(方)部墳頂。
後円(方)部残存部。西から。
後円(方)部残存部。東から。
全景。右が後円(方)部、左が前方部跡。南西から。
以上2017年11月撮影。
HP.「安城市埋蔵文化財センター」の「遺跡・史跡紹介」の「獅子塚古墳」の項目で、「東町に所在し、碧海台地東縁が沖積地に向かって小さく張り出した地点の、段丘崖に接して築かれています。名称の由来は「獅子のうずくまった形」だからと伝えられ、あるいは獅子面を埋納したためとも、姫塚古墳に葬られた姫君の乳母「いし」が葬られた「いし塚」から来ているという説話もあります。測量調査の結果、残存する墳丘の規模は東西26m、南北28m、高さは約5mで、整った円形ではありません。地籍図を見ると、前方部を南南西に向けた前方後円墳または前方後方墳であった可能性があります。本来高かった前方部は明治年間には削り取られたと伝えられています。 現在も前方後円形の区画がほぼ残っています。区画全体を古墳であったと考えると、全長は60~70m、後円部径30数mに復元されます。時期を知る手がかりはありませんが、地籍図からは二子古墳や姫小川古墳に匹敵する規模を持つ古墳であった可能性があります。そうでない場合も、全長40m以上の前方後円墳または後方墳として、市内ではそれらに次ぐ規模を誇ります。 全 長:約60~70mか?」と記されています。
下記の説明板では、「前方部を南南西に向け、全長五五メートル前後の前方後円墳でしたが、明治年間に鹿乗川の堤防工事のため前方部の封土を削り取り、現状は後円部だけが残ります。」と記されていますが、ここでは「前方後円(方)墳」としました。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
余談ですが、この獅子塚古墳が全長60~70m規模とするならば、「番外」扱いではなく「ランキング古墳」とすべきですが、確定した数値でないため、ここでは慎重に取り扱いました。
余談の余談ですが、この獅子塚古墳や比蘇山古墳が全長60m以上であるならば、桜井古墳群には、北部に二子古墳・比蘇山古墳の2基、南部に姫小川古墳・獅子塚古墳の2基、合わせて4基の大型古墳があったことになり、西三河最大の古墳群であったと思いました。
安城市教委の説明板。
標柱。
後円(方)部の一部。
安城市教委の説明板。
後円(方)部右側。左側。
前方部跡。
前方部跡から後円(方)部。南から。
後円(方)部墳頂。
後円(方)部残存部。西から。
後円(方)部残存部。東から。
全景。右が後円(方)部、左が前方部跡。南西から。
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2024年07月19日
番外 愛知県の古墳㉚ー6 姫塚古墳[桜井古墳群] 安城市 方墳 辺28×25m又は円墳 復元径30m前後
古墳は、碧海台地の東端の微高地に立地し、古墳の約100m南には、桜井古墳群南部の盟主墳的存在の姫小川古墳(2018年9月18日のブログで紹介)があります。
墳頂には、宝篋印塔が建てられ、「姫宮墓」「白鳳十辛巳年」と刻まれているそうです。孝徳天皇の皇女で、配流された綾姫の墓という伝承から姫塚古墳という名称になったようです。
西島庸介さんは、「姫塚古墳の墳形は(略)2001年の墳丘測量調査を経た後も、円墳ないし方墳とされてきた。2008~2010年、古墳の西側と東(おっさん註 南の誤りか)側で範囲確認調査、開発に伴う記録保存調査が行われ、幅7.3m以上の周溝が確認されている。この周溝の位置・形状から、南北28m、東西25m程の方墳に復元できる。」(p.17)と述べています。
一方、安城市埋蔵文化財センターのHP.の「最近の調査から」の「平成20年度の調査」の「姫塚古墳 ひめづかこふん(姫小川町)の項目で、「姫塚古墳は、直径30m前後の円墳であると推定されます。」と記されています。
また同センターの「平成22年度の調査」の「姫塚遺跡 ひめづかいせき(姫小川町)」の項目で、「今回の発掘調査は、個人住宅建築にともなう緊急調査で、平成20年度の姫塚古墳の調査区と一部重複しています。今回の調査でも平成20年度の調査と同様、古墳を取り囲む溝(周溝 しゅうこう)とみられる遺構が確認できました。周溝の大きさは幅5.5m、深さ0.8mでした。周溝は現在の墳丘から少し離れたところに位置します。これは、もともと円形をしていた墳形が削られて現在のような形になったためだと考えられます。」と記されています。
同一の周溝の測量図でも、論者の見方によって、方墳または円墳と結論が異なっているので、両論併記としました。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
余談ですが、姫塚古墳が方墳であるとすれば、桜井古墳群には、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳と墳形が異なる多様な古墳が見られます。古墳時代前期に築造された古墳群としては、他に例を見ない特殊な例だと思います。この事実は、桜井古墳群の被葬者の居住域・生産域と考えられる鹿乗川流域遺跡群から、畿内系・近江系・北陸系・西濃系・駿河系など他地域の土器(外来系土器)が多数発見されている事と何らかの関連があると妄想してしまいました。
余談の余談ですが、この姫塚古墳や姫小川古墳の東側に隣接して、鹿乗川流域遺跡群の姫下遺跡があります。この姫下遺跡について、岡安雅彦さんは、「姫下遺跡はこの段階(おっさん註 古墳時代前期)に盛期を迎えている。遺物には人面文などの線刻資料の出土に加え、畿内の布留系の土器が多量に出土している。布留系土器がこれだけ出土した遺跡は東日本ではほとんどない。遺跡のすぐ西側の台地上に造営された全長65mを測る姫小川古墳は、前方後円墳であり、両者の関連が注目される。また、至近距離にある南北28m、東西25mの方墳である姫塚古墳や、墳丘は消滅しているが、内行花文鏡が出土したとされる八ツ塚古墳もこの時期の築造と推定されている。」(「鹿乗川流域遺跡群の概要」p.38、安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)と述べています。おっさんの妄想が・・・。
案内板。
安城市教委の説明板。
墳頂の宝篋印塔。
全景。南から。
全景。北西から。
以上2013年12月撮影。
墳頂には、宝篋印塔が建てられ、「姫宮墓」「白鳳十辛巳年」と刻まれているそうです。孝徳天皇の皇女で、配流された綾姫の墓という伝承から姫塚古墳という名称になったようです。
西島庸介さんは、「姫塚古墳の墳形は(略)2001年の墳丘測量調査を経た後も、円墳ないし方墳とされてきた。2008~2010年、古墳の西側と東(おっさん註 南の誤りか)側で範囲確認調査、開発に伴う記録保存調査が行われ、幅7.3m以上の周溝が確認されている。この周溝の位置・形状から、南北28m、東西25m程の方墳に復元できる。」(p.17)と述べています。
一方、安城市埋蔵文化財センターのHP.の「最近の調査から」の「平成20年度の調査」の「姫塚古墳 ひめづかこふん(姫小川町)の項目で、「姫塚古墳は、直径30m前後の円墳であると推定されます。」と記されています。
また同センターの「平成22年度の調査」の「姫塚遺跡 ひめづかいせき(姫小川町)」の項目で、「今回の発掘調査は、個人住宅建築にともなう緊急調査で、平成20年度の姫塚古墳の調査区と一部重複しています。今回の調査でも平成20年度の調査と同様、古墳を取り囲む溝(周溝 しゅうこう)とみられる遺構が確認できました。周溝の大きさは幅5.5m、深さ0.8mでした。周溝は現在の墳丘から少し離れたところに位置します。これは、もともと円形をしていた墳形が削られて現在のような形になったためだと考えられます。」と記されています。
同一の周溝の測量図でも、論者の見方によって、方墳または円墳と結論が異なっているので、両論併記としました。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
余談ですが、姫塚古墳が方墳であるとすれば、桜井古墳群には、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳と墳形が異なる多様な古墳が見られます。古墳時代前期に築造された古墳群としては、他に例を見ない特殊な例だと思います。この事実は、桜井古墳群の被葬者の居住域・生産域と考えられる鹿乗川流域遺跡群から、畿内系・近江系・北陸系・西濃系・駿河系など他地域の土器(外来系土器)が多数発見されている事と何らかの関連があると妄想してしまいました。
余談の余談ですが、この姫塚古墳や姫小川古墳の東側に隣接して、鹿乗川流域遺跡群の姫下遺跡があります。この姫下遺跡について、岡安雅彦さんは、「姫下遺跡はこの段階(おっさん註 古墳時代前期)に盛期を迎えている。遺物には人面文などの線刻資料の出土に加え、畿内の布留系の土器が多量に出土している。布留系土器がこれだけ出土した遺跡は東日本ではほとんどない。遺跡のすぐ西側の台地上に造営された全長65mを測る姫小川古墳は、前方後円墳であり、両者の関連が注目される。また、至近距離にある南北28m、東西25mの方墳である姫塚古墳や、墳丘は消滅しているが、内行花文鏡が出土したとされる八ツ塚古墳もこの時期の築造と推定されている。」(「鹿乗川流域遺跡群の概要」p.38、安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)と述べています。おっさんの妄想が・・・。
案内板。
安城市教委の説明板。
墳頂の宝篋印塔。
全景。南から。
全景。北西から。
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2024年07月17日
番外 愛知県の古墳㉚ー5 比蘇山古墳[桜井古墳群] 安城市 前方後方墳または前方後円墳 推定40または60m
古墳は、碧海台地東縁の舌状の微高地に立地し、前回の碧海山古墳の約320m西、桜井二子古墳の約230n南に位置する桜井神社の境内地にあります。古墳には社殿が建立され、墳丘は改変されています。
また、古墳の東側に隣接して、鹿乗川流域遺跡群の中狭間遺跡が広がっています。この中狭間遺跡では、古墳時代前期の竪穴住居跡が多数検出され、岡安正彦さんは「この時期の中心的な集落であったと考えられる。」(「鹿乗川流域遺跡群の概要」p.37、安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)と指摘しています。
安城市教育委員会の『桜井古墳群保存管理計画書』の「名称 比蘇山古墳」の項目で、「古墳の墳形 前方後円(方)墳か。『資料編 桜井町の古墳』では桜井神社本殿に後円部、拝殿に前方部があったと伝わる。その中で古老の話として、本殿改築時に後円部を平坦にしたことを伝える。」、「古墳の規模 二子古墳と同等の全長60mほどとする見解に従う。」(資料編p.9)と記されています。
また、西島庸介さんは、「桜井古墳群の概要」(安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)の「表1 桜井古墳群一覧」で、「古墳名 比蘇山古墳、墳形 前方後方墳か、墳丘規模(m) 40」(p.12)と記しています。
そのため、ここでは両論併記としました。
余談ですが、この比蘇山古墳が桜井二子古墳と同等の60m規模とするならば、「番外」扱いではなく「ランキング古墳」とすべきですが、確定した数値でないため、ここでは慎重に取り扱いました。
後方(円)部右側。左側。

前方部。
全景。右が前方部、左が後方(円)部。東から。
以上2013年12月撮影。
また、古墳の東側に隣接して、鹿乗川流域遺跡群の中狭間遺跡が広がっています。この中狭間遺跡では、古墳時代前期の竪穴住居跡が多数検出され、岡安正彦さんは「この時期の中心的な集落であったと考えられる。」(「鹿乗川流域遺跡群の概要」p.37、安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)と指摘しています。
安城市教育委員会の『桜井古墳群保存管理計画書』の「名称 比蘇山古墳」の項目で、「古墳の墳形 前方後円(方)墳か。『資料編 桜井町の古墳』では桜井神社本殿に後円部、拝殿に前方部があったと伝わる。その中で古老の話として、本殿改築時に後円部を平坦にしたことを伝える。」、「古墳の規模 二子古墳と同等の全長60mほどとする見解に従う。」(資料編p.9)と記されています。
また、西島庸介さんは、「桜井古墳群の概要」(安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)の「表1 桜井古墳群一覧」で、「古墳名 比蘇山古墳、墳形 前方後方墳か、墳丘規模(m) 40」(p.12)と記しています。
そのため、ここでは両論併記としました。
余談ですが、この比蘇山古墳が桜井二子古墳と同等の60m規模とするならば、「番外」扱いではなく「ランキング古墳」とすべきですが、確定した数値でないため、ここでは慎重に取り扱いました。
後方(円)部右側。左側。
前方部。
全景。右が前方部、左が後方(円)部。東から。
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2024年07月15日
番外 愛知県の古墳㉚ー4 碧海山古墳[桜井古墳群] 安城市 円墳 径24m
古墳は、前回の堀内古墳の約170m西に位置しています。また、堀内古墳と同形で規模もほぼ同じ可能性があり、同一の「設計図」で築造されたと妄想してしまいました。
安城市教育委員会の『桜井古墳群保存管理計画書』の「名称 碧海山古墳」の項目で、「古墳の墳形 円墳か」、「古墳の規模 現状では直径24m、高さ約4.5mの円墳と想定される。墳頂部は6×10mほどの平坦面になっており、かつて碧海明神の社殿が存在した痕跡と想定される。四方を道路と宅地に切り取られている。北側斜面が墳頂近くから削られている。」(資料p.7)と記されています。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
安城市教委の説明板。
石柱。
全景。西から。
以上2017年11月撮影。
安城市教育委員会の『桜井古墳群保存管理計画書』の「名称 碧海山古墳」の項目で、「古墳の墳形 円墳か」、「古墳の規模 現状では直径24m、高さ約4.5mの円墳と想定される。墳頂部は6×10mほどの平坦面になっており、かつて碧海明神の社殿が存在した痕跡と想定される。四方を道路と宅地に切り取られている。北側斜面が墳頂近くから削られている。」(資料p.7)と記されています。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
安城市教委の説明板。
石柱。
全景。西から。
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07:07
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2024年07月13日
番外 愛知県の古墳㉚ー3 堀内古墳(天満山古墳)[桜井古墳群] 安城市 円墳 径23m
古墳は、前回の印内北分1号墳の約500m南西に位置する堀内天王社の境内地にあります。古墳の墳裾には、「天満山古墳」とする標柱が祠の間に建てられています。
道路をはさんで北側に縄文時代晩期を主とする堀内貝塚があり、古墳の北側には碧海台地に入り込んだ入海があったようです。
安城市教育委員会の『桜井古墳群保存管理計画書』の「名称 堀内古墳」の項目で、「古墳の墳形 円墳か」、「古墳の規模 現状では、南北24 m、東西21m。発掘調査では直径23 mの円墳に復元され、高さ 4.5 mほどとなる。墳頂部は直径12mほどの平坦地になっており、天神社造営のため大幅な改変を受けているようである。墳丘周囲には周溝の可能性がある溝がある。」(資料編p.8)と記されています。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
安城市教委の説明板。
「天満山古墳」銘の石柱。
墳頂の社殿。
全景。南から。
以上2017年11月撮影。
道路をはさんで北側に縄文時代晩期を主とする堀内貝塚があり、古墳の北側には碧海台地に入り込んだ入海があったようです。
安城市教育委員会の『桜井古墳群保存管理計画書』の「名称 堀内古墳」の項目で、「古墳の墳形 円墳か」、「古墳の規模 現状では、南北24 m、東西21m。発掘調査では直径23 mの円墳に復元され、高さ 4.5 mほどとなる。墳頂部は直径12mほどの平坦地になっており、天神社造営のため大幅な改変を受けているようである。墳丘周囲には周溝の可能性がある溝がある。」(資料編p.8)と記されています。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
安城市教委の説明板。
「天満山古墳」銘の石柱。
墳頂の社殿。
全景。南から。
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07:07
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