2024年09月29日
番外 岐阜県の古墳③ー1 モタレ古墳(野1号墳)[野古墳群] 大野町 54m
野古墳群は、墳長60m以上の5基の大型前方後円墳を中心に、円墳・方墳など17基の古墳が確認されている岐阜県有数の古墳群です。
このブログでは、乾屋敷古墳(野6号墳)(ランキング612位)・南屋敷西古墳(野3号墳)(ランキング626位)・登越古墳(野4号墳)(ランキング523位)・南出口古墳(野5号墳)(ランキング540位)・不動塚古墳(野2号墳)(ランキング[979-2]位・2018年11月22日に掲載)を取り上げてきました。
今回から、それ以外の古墳の中で、手元に絵のある古墳を紹介していきたいと思います。
このモタレ古墳は、前方部が削平されており、現状では円墳状態です。上記の5基の古墳に次ぐ規模の前方後円墳です。
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆モタレ古墳(野1号墳)」の項目で、「帆立貝形前方後円墳 / 主軸全長約54m、直径約36m、高さ約6m。 周濠から円筒埴輪や朝顔型埴輪の破片、須恵器が出土しています。」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
石柱。
大野町教委の説明板。
説明板と標柱。
後円部右側。左側。

前方部跡から後円部。
後円部墳頂。
全景(横から)右が後円部、左が前方部跡。東から。
不動塚古墳墳頂から見る遠景。東から。
石柱。
大野町教委の案内標識。
以上2016年5月撮影。
このブログでは、乾屋敷古墳(野6号墳)(ランキング612位)・南屋敷西古墳(野3号墳)(ランキング626位)・登越古墳(野4号墳)(ランキング523位)・南出口古墳(野5号墳)(ランキング540位)・不動塚古墳(野2号墳)(ランキング[979-2]位・2018年11月22日に掲載)を取り上げてきました。
今回から、それ以外の古墳の中で、手元に絵のある古墳を紹介していきたいと思います。
このモタレ古墳は、前方部が削平されており、現状では円墳状態です。上記の5基の古墳に次ぐ規模の前方後円墳です。
大野町のHP.の「史跡の古墳群」の「◆モタレ古墳(野1号墳)」の項目で、「帆立貝形前方後円墳 / 主軸全長約54m、直径約36m、高さ約6m。 周濠から円筒埴輪や朝顔型埴輪の破片、須恵器が出土しています。」と記されています。
「野古墳群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
石柱。
大野町教委の説明板。
説明板と標柱。
後円部右側。左側。
前方部跡から後円部。
後円部墳頂。
全景(横から)右が後円部、左が前方部跡。東から。
不動塚古墳墳頂から見る遠景。東から。
石柱。
大野町教委の案内標識。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月27日
番外 岐阜県の古墳②ー2 象鼻山16号墳[象鼻山古墳群] 養老町 方墳 辺18m
前回の2号墳に続いて今回は16号墳を取り上げました。今回の絵も回転しています。ご了承ください。
養老町教育委員会が2015年に発行した『象鼻山古墳群発掘調査総括報告書』の「第1表 象鼻山古墳群主要諸元一覧」(p.15)で、「番号 16、墳形 方墳、全長(m) 18.2、高さ(m) 2.0」と記されています。
標柱。
90度回転しています。
ほぼ全景。
180度回転しています。 2020年4月撮影。
養老町教育委員会が2015年に発行した『象鼻山古墳群発掘調査総括報告書』の「第1表 象鼻山古墳群主要諸元一覧」(p.15)で、「番号 16、墳形 方墳、全長(m) 18.2、高さ(m) 2.0」と記されています。
標柱。
ほぼ全景。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月25日
番外 岐阜県の古墳②ー1 象鼻山2号墳[象鼻山古墳群] 養老町 方墳 辺21m
象鼻山古墳群については、2020年4月29日~5月4日にかけて1号墳・3号墳・4号墳・8号墳・51号墳・53号墳を掲載していました。しかし、この2号墳と16号墳は絵があるにもかかわらず掲載を失念していました。そのため、今回は2号墳、次回は16号墳を取り上げます。
最初は古墳群で唯一の前方後方墳である1号墳を目的として、残雪の中訪問しました。2回目は、70mの方形壇に直径17mの円丘を有する「上円下方壇」の3号墳を主目的に訪問しました。この象鼻山古墳群は、邪馬台国(やまとこく)と敵対した狗奴国の王または王族の墓という仮説が提起されていたからでした。
養老町教育委員会が2015年に発行した『象鼻山古墳群発掘調査総括報告書』の「第1表 象鼻山古墳群主要諸元一覧」(p.15)で、「番号 2、墳形 方墳、全長(m) 20.9、高さ(m) 3.8」と記されています。
「象鼻山古墳群」は、養老町の史跡に指定されています。
案内板。
説明板。
標柱。
墳頂。
ほぼ全景。
以上2020年4月撮影。
やや全景。
やや全景。
以上2012年2月撮影。
最初は古墳群で唯一の前方後方墳である1号墳を目的として、残雪の中訪問しました。2回目は、70mの方形壇に直径17mの円丘を有する「上円下方壇」の3号墳を主目的に訪問しました。この象鼻山古墳群は、邪馬台国(やまとこく)と敵対した狗奴国の王または王族の墓という仮説が提起されていたからでした。
養老町教育委員会が2015年に発行した『象鼻山古墳群発掘調査総括報告書』の「第1表 象鼻山古墳群主要諸元一覧」(p.15)で、「番号 2、墳形 方墳、全長(m) 20.9、高さ(m) 3.8」と記されています。
「象鼻山古墳群」は、養老町の史跡に指定されています。
案内板。
説明板。
標柱。
墳頂。
ほぼ全景。
やや全景。
やや全景。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月23日
番外 岐阜県の古墳①ー2 円満寺山3号墳[円満寺山古墳群] 海津市 円墳 径不詳m
前回の「円満寺山2号墳」の項目と同様に、絵が回転して見にくくなっています。ご了承ください。
前回も書きましたが、円満寺山古墳(1号墳)の北側の尾根上に2基の円墳があります。そのうちの1基がこの3号墳です。
HP.『大和國古墳墓取調室』の「◆古墳TOPICS 2015」の「■岐阜県海津市 ・円満寺山古墳群2号古墳・3号古墳(前期末の円墳2基を調査)」の項目で、「3号古墳は系0m(おっさん註 ママ)の円墳で、地山を整形した上に盛り土で築かれています。主体部はほぼ中央に木棺が直葬されていましたが、もう1基ある可能性があります。」と述べています。
いくつか資料にあたりましたが、上記のHP.しか確認できませんでしたので、タイトルでは「径不詳m」としました。
墳頂。
180度回転しています。
やや全景。
180度回転しています。
3つで全景。

90度回転しています。 以上2020年4月撮影。
前回も書きましたが、円満寺山古墳(1号墳)の北側の尾根上に2基の円墳があります。そのうちの1基がこの3号墳です。
HP.『大和國古墳墓取調室』の「◆古墳TOPICS 2015」の「■岐阜県海津市 ・円満寺山古墳群2号古墳・3号古墳(前期末の円墳2基を調査)」の項目で、「3号古墳は系0m(おっさん註 ママ)の円墳で、地山を整形した上に盛り土で築かれています。主体部はほぼ中央に木棺が直葬されていましたが、もう1基ある可能性があります。」と述べています。
いくつか資料にあたりましたが、上記のHP.しか確認できませんでしたので、タイトルでは「径不詳m」としました。
墳頂。
やや全景。
3つで全景。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月21日
番外 岐阜県の古墳①ー1 円満寺山2号墳[円満寺山古墳群] 海津市 円墳(楕円形墳) 径15×12m
前回の「円満寺山古墳」の項目と同様に、絵が回転して見にくくなっています。ご了承ください。
円満寺山古墳(1号墳)の北側の尾根上に2基の円墳があります。そのうちの1基がこの2号墳です。おっさんは、当初2号墳と3号墳が1基の前方後円墳と思い込んで絵を撮っていました。「決めつけは、いかんダラー」。
HP.『大和國古墳墓取調室』の「◆古墳TOPICS 2015」の「■岐阜県海津市 ・円満寺山古墳群2号古墳・3号古墳(前期末の円墳2基を調査)」の項目で、「2号古墳は南北15m、東西12mの楕円形墳で、墳丘上部の盛り土がかなり流失していました。主体部は木棺直葬です。」と述べています。
墳頂。
180度回転しています。
ほぼ全景。
180度回転しています。 以上2020年4月撮影。
円満寺山古墳(1号墳)の北側の尾根上に2基の円墳があります。そのうちの1基がこの2号墳です。おっさんは、当初2号墳と3号墳が1基の前方後円墳と思い込んで絵を撮っていました。「決めつけは、いかんダラー」。
HP.『大和國古墳墓取調室』の「◆古墳TOPICS 2015」の「■岐阜県海津市 ・円満寺山古墳群2号古墳・3号古墳(前期末の円墳2基を調査)」の項目で、「2号古墳は南北15m、東西12mの楕円形墳で、墳丘上部の盛り土がかなり流失していました。主体部は木棺直葬です。」と述べています。
墳頂。
ほぼ全景。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月19日
追加1152 円満寺山古墳[円満寺山古墳群] 岐阜県海津市 60(53)m
2019年2月10日のブログで紹介していた古墳です。再訪時の画像があったので、取り上げました。ただし、画像の回転を訂正する技術がなく、下記のように見苦しい絵となってしまい申し訳ありません。
古墳は、大規模な「圓(円)満寺霊園」を見下ろす山頂に位置しています。最初の訪問では、古墳に向かうルートがわからず苦労しましたが、霊園の最高所にある駐車場付近に下記の説明板と案内板が設置されており、難なく墳丘にたどり着くことができました。また、後円部のコンクリート製の構築物は撤去されていました。
海津市のHP.の「海津市史跡」にある「円満寺山古墳」の項目で、「養老山地の東麓、庭田集落をとり囲んで北に延びる支丘上、標高96メートルの位置にある南向きの前方後円墳です。全長60メートル、後円部直径35メートル、高さ5メートル、前方部幅約19メートル、高さ1.5メートルあり、自然の丘陵に若干手を加えた程度であって、前方部の低い狭長な古墳時代前期様式を示しています。 昭和42年8月に発見され同年12月に発掘調査されました。石室は主軸に平行につくられた河原石積みの竪穴式石室で、長さ4.67メートル、幅0.9メートル~1.2メートルです。石室床面は平坦で、この上に木棺がおかれたようです。 副葬の遺物は鏡三面(三角縁波文帯三神二獣博山炉鏡、三角縁唐草文帯天王日月二神二獣鏡、画文帯神獣鏡)、直刀3、剣2、鎗1、鉄鏃5、鉄斧2、不明尖頭鉄器1で玉類や石製品を含んでいません。 外形の形態や主体部の構造および出土遺物の観察から、築造の年代は四世紀中葉から後半期にかけてと判断されました。しかも、竪穴式石室の構造や副葬された三面の鏡からみて、この古墳の被葬者が畿内地方の政権と何らかのつながりのある地位にあったことも推察できます。」と記されています。
ただし、下記の説明板では、「南の最も高く広い地点に立地する円満寺山古墳(1号古墳)は、全長五十三メートルの前方後円墳」と記されており、タイトルでは、「60(53)m」としました。
古墳は、海津市の史跡に指定されています。
海津市教委の説明板。説明板と案内板。
180度回転しています。
90度回転しています。
後円部右側。中央。左側。

90度回転しています。
前方部右側。左側。

90度回転しています。
前方部から後円部。
90度回転しています。
後円部墳頂。
180度回転しています。
2つで全景(横から)。
180度回転しています。
後円部墳頂から見る大垣市方面。
180度回転しています。 以上2020年4月撮影。
古墳は、大規模な「圓(円)満寺霊園」を見下ろす山頂に位置しています。最初の訪問では、古墳に向かうルートがわからず苦労しましたが、霊園の最高所にある駐車場付近に下記の説明板と案内板が設置されており、難なく墳丘にたどり着くことができました。また、後円部のコンクリート製の構築物は撤去されていました。
海津市のHP.の「海津市史跡」にある「円満寺山古墳」の項目で、「養老山地の東麓、庭田集落をとり囲んで北に延びる支丘上、標高96メートルの位置にある南向きの前方後円墳です。全長60メートル、後円部直径35メートル、高さ5メートル、前方部幅約19メートル、高さ1.5メートルあり、自然の丘陵に若干手を加えた程度であって、前方部の低い狭長な古墳時代前期様式を示しています。 昭和42年8月に発見され同年12月に発掘調査されました。石室は主軸に平行につくられた河原石積みの竪穴式石室で、長さ4.67メートル、幅0.9メートル~1.2メートルです。石室床面は平坦で、この上に木棺がおかれたようです。 副葬の遺物は鏡三面(三角縁波文帯三神二獣博山炉鏡、三角縁唐草文帯天王日月二神二獣鏡、画文帯神獣鏡)、直刀3、剣2、鎗1、鉄鏃5、鉄斧2、不明尖頭鉄器1で玉類や石製品を含んでいません。 外形の形態や主体部の構造および出土遺物の観察から、築造の年代は四世紀中葉から後半期にかけてと判断されました。しかも、竪穴式石室の構造や副葬された三面の鏡からみて、この古墳の被葬者が畿内地方の政権と何らかのつながりのある地位にあったことも推察できます。」と記されています。
ただし、下記の説明板では、「南の最も高く広い地点に立地する円満寺山古墳(1号古墳)は、全長五十三メートルの前方後円墳」と記されており、タイトルでは、「60(53)m」としました。
古墳は、海津市の史跡に指定されています。
海津市教委の説明板。説明板と案内板。
後円部右側。中央。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
2つで全景(横から)。
後円部墳頂から見る大垣市方面。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月17日
番外 愛知県の古墳52-7 東谷山27号墳[志段味古墳群] 名古屋市 円墳 径不詳
志段味古墳群には、前期から後期に築造された60基余の古墳があります。東谷山山頂から尾根に続く尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳、そして中位段丘上に位置する古墳群で規模最大の白鳥塚古墳が前期古墳です。そして、その間の高位段丘から中位段丘にかけて30数基の円墳が後期後半に築造され東谷山古墳群と呼称されています。この27号墳もその一基です。また、白鳥塚古墳の西側の中位段丘から低位段丘にある羽根古墳や西大久手古墳・東大久手古墳などは中期中葉から後期前葉に築造されています。
27号墳は、東谷山古墳群でも比較的高所に立地し、南社古墳の南西約260mに位置しています。残念ながら、墳丘の封土が削られ横穴式石室の石材がむき出しとなっています。東谷山フルーツパーク第一駐車場北東側の「東谷山散策路入口」から上っていくと途中にあります。南社古墳・中社古墳・尾張戸神社古墳までは、まだ遠いですが・・・。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「表8-1 志段味古墳群一覧(1)」の中で、「No 30、古墳名 東谷山27号墳、墳形・規模(m) 円、埋葬施設 横穴式石室、時期 ③(おっさん註 後期後半~終末期(6世紀後半~7世紀)と深谷さんは指摘)、備考 現存」(p.8)と記しています。
説明板。
横穴式石室部分。
以上2017年12月撮影。
27号墳は、東谷山古墳群でも比較的高所に立地し、南社古墳の南西約260mに位置しています。残念ながら、墳丘の封土が削られ横穴式石室の石材がむき出しとなっています。東谷山フルーツパーク第一駐車場北東側の「東谷山散策路入口」から上っていくと途中にあります。南社古墳・中社古墳・尾張戸神社古墳までは、まだ遠いですが・・・。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「表8-1 志段味古墳群一覧(1)」の中で、「No 30、古墳名 東谷山27号墳、墳形・規模(m) 円、埋葬施設 横穴式石室、時期 ③(おっさん註 後期後半~終末期(6世紀後半~7世紀)と深谷さんは指摘)、備考 現存」(p.8)と記しています。
説明板。
横穴式石室部分。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月15日
番外 愛知県の古墳52-6 大塚3号墳[志段味古墳群] 名古屋市 円墳 径19m
古墳は、東大久手古墳の北約70m、志段味大塚古墳の南西約140mに位置しています。ただし、その名称から志段味大塚古墳のグループに位置づけられているようです。
志段味大塚古墳(2019年2月28日のブログで紹介)は、東大久手古墳や西大久手古墳などと同形の帆立貝形前方後円墳ですが、後者よりひと回り大きい墳長約51mの古墳です。現在は復元され、国の史跡に指定されています。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「表9-1 志段味古墳群一覧(2)」の中で、「No 59、古墳名 大塚3号墳、墳形・規模(m) 円19、出土遺物 【墳丘】埴輪・土師器、時期 ②(おっさん註 中期中葉~後期前葉(5世紀中葉~6世紀前葉)と深谷さんは指摘)、備考 現存」(p.9)と記しています。
余談ですが、この大塚3号墳の西に「体感!しだみ古墳群ミュージアム」(愛称 しだみゅー)があります。おっさんが志段味古墳群を再訪したのは2017年12月、しだみゅーの開館が2019年4月ということで、未訪問です。「残念!」。
名古屋市教委の説明板。
全景。西から。
以上2017年12月撮影。
志段味大塚古墳(2019年2月28日のブログで紹介)は、東大久手古墳や西大久手古墳などと同形の帆立貝形前方後円墳ですが、後者よりひと回り大きい墳長約51mの古墳です。現在は復元され、国の史跡に指定されています。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「表9-1 志段味古墳群一覧(2)」の中で、「No 59、古墳名 大塚3号墳、墳形・規模(m) 円19、出土遺物 【墳丘】埴輪・土師器、時期 ②(おっさん註 中期中葉~後期前葉(5世紀中葉~6世紀前葉)と深谷さんは指摘)、備考 現存」(p.9)と記しています。
余談ですが、この大塚3号墳の西に「体感!しだみ古墳群ミュージアム」(愛称 しだみゅー)があります。おっさんが志段味古墳群を再訪したのは2017年12月、しだみゅーの開館が2019年4月ということで、未訪問です。「残念!」。
名古屋市教委の説明板。
全景。西から。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月13日
番外 愛知県の古墳52-5 大久手3号墳[志段味古墳群] 名古屋市 方墳 辺14m
この古墳の約40m北東に西大久手古墳が位置しています。下記では、「大部分が削平」と書かれていますが、訪問時は方形に復元されていました。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「大久手3号墳」の項目で、「墳丘 墳丘は大部分が削平されており、北西隅にあたる一部分のみが高さ70cmほど残存する。後述する周溝の形状、範囲から、一辺約14mの方墳と推定される。」、「出土遺物 周溝埋土より、須恵器の有蓋高坏・壺・高坏形器台・筒形器台が出土した。もとは墳丘上に配置されていたものと考えられる。(後略)」、「特徴 志段味古墳群で唯一確認されている方墳である。西大久手古墳にわずかに遅れて築造されたと推定されること、および同古墳と位置が近接することから、本古墳は西大久手古墳と関わりをもって築かれたとみることができる。」(p.54)と述べています。
余談ですが、志段味古墳群で唯一の方墳で、西大久手古墳とほぼ同時期の築造、須恵器の配置ということから、この3号墳の被葬者は、西大久手古墳の被葬者に仕えた陶工の親方と妄想してしまいました。
名古屋市教委の説明板。
墳頂の復元須恵器。
やや全景。東から。
ほぼ全景。西から。
以上2017年12月撮影。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「大久手3号墳」の項目で、「墳丘 墳丘は大部分が削平されており、北西隅にあたる一部分のみが高さ70cmほど残存する。後述する周溝の形状、範囲から、一辺約14mの方墳と推定される。」、「出土遺物 周溝埋土より、須恵器の有蓋高坏・壺・高坏形器台・筒形器台が出土した。もとは墳丘上に配置されていたものと考えられる。(後略)」、「特徴 志段味古墳群で唯一確認されている方墳である。西大久手古墳にわずかに遅れて築造されたと推定されること、および同古墳と位置が近接することから、本古墳は西大久手古墳と関わりをもって築かれたとみることができる。」(p.54)と述べています。
余談ですが、志段味古墳群で唯一の方墳で、西大久手古墳とほぼ同時期の築造、須恵器の配置ということから、この3号墳の被葬者は、西大久手古墳の被葬者に仕えた陶工の親方と妄想してしまいました。
名古屋市教委の説明板。
墳頂の復元須恵器。
やや全景。東から。
ほぼ全景。西から。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)
2024年09月11日
番外 愛知県の古墳52-4 大久手5号墳[志段味古墳群] 名古屋市 帆立貝形前方後円墳 約38m
古墳は前回の東大久手古墳の約50m東に位置し、東大久手古墳や前々回の西大久手古墳と同形・ほぼ同規模です。出土した埴輪・須恵器から5世紀中葉から5世紀末にかけて、西大久手古墳→大久手5号墳→東大久手古墳の順に築造されたと考えられています。また、3基の古墳の主軸もほぼ同じ方向をむいているそうです。このことから、被葬者は親→子→孫と血縁関係にあった可能性を妄想してしまいました。
最初の訪問時は池の堤防付近の絵を撮っただけでしたが、再訪時には北側半分の墳丘が復元されており、いい絵が撮れました。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「大久手5号墳」の項目で、「墳丘 東北東ー西南西に主軸をとる帆立貝式古墳。戦後直後は、墳丘はおおむね原形をとどめた状態で、大久手池北東端の堤防に取り込まれていたが、それ以降1961年までのあいだに、大久手池の北東部が拡張され、それにともない後円部の南側が削平されるとともに堤防も改変された。 墳丘規模は墳長約38m・後円部径約29mと推定される。段築構造は後円部2段、前方部1段の可能性が高く、前方部頂平坦面と後円部1段目テラスは接続すると考えられる。(後略)」(p.62)と述べています。
余談ですが、最後の絵に写る東谷山山頂・尾根に、前期古墳で国史跡の尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳(以上2019年2月28日のブログに掲載)があります。
残存部。
残存部。右上が東大久手古墳。
以上2013年6月撮影。
名古屋市教委の説明板。
全景。手前が前方部、奥が後円部。南西から。
全景。手前が前方部左側、左奥が後円部。西から。
名古屋市教委の説明板「東谷山を向いて並ぶ帆立貝式古墳」。
中央が東谷山。中央下が大久手5号墳、左が東大久手古墳。
以上2017年12月撮影。
最初の訪問時は池の堤防付近の絵を撮っただけでしたが、再訪時には北側半分の墳丘が復元されており、いい絵が撮れました。
深谷淳さんは、名古屋市教育委員会文化財保護室発行の『国史跡 志段味古墳群の実像』の「大久手5号墳」の項目で、「墳丘 東北東ー西南西に主軸をとる帆立貝式古墳。戦後直後は、墳丘はおおむね原形をとどめた状態で、大久手池北東端の堤防に取り込まれていたが、それ以降1961年までのあいだに、大久手池の北東部が拡張され、それにともない後円部の南側が削平されるとともに堤防も改変された。 墳丘規模は墳長約38m・後円部径約29mと推定される。段築構造は後円部2段、前方部1段の可能性が高く、前方部頂平坦面と後円部1段目テラスは接続すると考えられる。(後略)」(p.62)と述べています。
余談ですが、最後の絵に写る東谷山山頂・尾根に、前期古墳で国史跡の尾張戸神社古墳・中社古墳・南社古墳(以上2019年2月28日のブログに掲載)があります。
残存部。
残存部。右上が東大久手古墳。
名古屋市教委の説明板。
全景。手前が前方部、奥が後円部。南西から。
全景。手前が前方部左側、左奥が後円部。西から。
名古屋市教委の説明板「東谷山を向いて並ぶ帆立貝式古墳」。
中央が東谷山。中央下が大久手5号墳、左が東大久手古墳。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)