2024年08月30日
番外 愛知県の古墳㊾ 小幡池下古墳[小幡古墳群] 名古屋市 約45m
消滅古墳です。跡地付近は名古屋環状2号線となっています。10年以上前に、曖昧な位置情報を頼りに訪問したので、「池下」という名称を冠した歩道橋から絵を撮ってしまいました。
約500m西に位置する小幡長塚古墳(ランキング551位)、約400m北西の小幡茶臼山古墳(ランキング1122位)などとともに小幡古墳群を形成していました。
1991年に愛知県埋蔵文化財センターが発行した『池下古墳』では、「この古墳は二段築戌の前方後円墳で、後円部を北東に向けている。 後円部の東半分がすでに破壊され、現在は遺存していないために正確な墳丘規模は出し得ないが、今回の調査で検出した地山面における計測値は、全長が約45mで、後円部の径は約32m、前方部の幅は27.8mで、前方部の端は中央が弧状にふくらむ。現状での墳高は地山面から後円部で2.58m、前方部で2.36mをはかる。」(p.6)と記されています。
環状2号線に架かる池下歩道橋。
歩道橋から見る跡地付近。
以上2013年6月撮影。
約500m西に位置する小幡長塚古墳(ランキング551位)、約400m北西の小幡茶臼山古墳(ランキング1122位)などとともに小幡古墳群を形成していました。
1991年に愛知県埋蔵文化財センターが発行した『池下古墳』では、「この古墳は二段築戌の前方後円墳で、後円部を北東に向けている。 後円部の東半分がすでに破壊され、現在は遺存していないために正確な墳丘規模は出し得ないが、今回の調査で検出した地山面における計測値は、全長が約45mで、後円部の径は約32m、前方部の幅は27.8mで、前方部の端は中央が弧状にふくらむ。現状での墳高は地山面から後円部で2.58m、前方部で2.36mをはかる。」(p.6)と記されています。
環状2号線に架かる池下歩道橋。
歩道橋から見る跡地付近。
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2024年08月28日
番外 愛知県の古墳㊽ 御旅所(おたびしょ)古墳[味美古墳群] 春日井市 円墳 径約31m
古墳は「二子山公園」に所在しています。「御旅所」という名称は、近接した白山神社の神輿渡御(お旅)にちなんでいるそうです。約80m東北東に位置する白山神社は、味美白山神社古墳(ランキング468位)に鎮座しています。また、約100m南東に味美古墳群で最大の味美二子山古墳(ランキング288位)が位置しています。
松原隆治さんは、「55 御旅所古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「直径約31m、高さ約2.9mの円墳である。墳丘上には小祠があり、墳丘裾部はフェンス工事などで改変を受けている。」(p.208)と述べています。
1983年に、味美白山神社古墳とともに愛知県の史跡に指定されています。
白山神社にある標柱。
白山神社にある「御由緒」の一部。
墳頂の祠。墳頂の高札。

全景。
以上2013年6月撮影。
近景。南西から。
全景。東から。
以上2016年11月撮影。
松原隆治さんは、「55 御旅所古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「直径約31m、高さ約2.9mの円墳である。墳丘上には小祠があり、墳丘裾部はフェンス工事などで改変を受けている。」(p.208)と述べています。
1983年に、味美白山神社古墳とともに愛知県の史跡に指定されています。
白山神社にある標柱。
白山神社にある「御由緒」の一部。
墳頂の祠。墳頂の高札。
全景。
近景。南西から。
全景。東から。
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2024年08月26日
番外 愛知県の古墳㊼ 出川大塚古墳 春日井市 円墳 径約45m
消滅古墳です。1962年に、土取り工事のため古墳が存在した丘陵部とともに破壊され、現在は住宅地となっています。二面の三角縁神獣鏡を含む4面の銅鏡や石釧・玉類(管玉・勾玉)などが出土しています。出土品は、東京国立博物館に所蔵されているそうです。
松原隆治さんは、「66 出川大塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「本墳は、墳丘推定規模直径約45m、高さ約4.5m以上、葺石を伴う2段築成の円墳(もしくは、同規模の後円部の南西側に方形部のつく帆立貝形前方後円墳)である。埴輪は認められない。朱を含む粘土層の存在から主体部は粘土槨が推定されている。」(p.240)と述べています。
跡地付近。不二ガ丘3丁目121付近。東から。
跡地付近。不二ガ丘3丁目140-3付近。西から。
以上2013年6月撮影。
松原隆治さんは、「66 出川大塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「本墳は、墳丘推定規模直径約45m、高さ約4.5m以上、葺石を伴う2段築成の円墳(もしくは、同規模の後円部の南西側に方形部のつく帆立貝形前方後円墳)である。埴輪は認められない。朱を含む粘土層の存在から主体部は粘土槨が推定されている。」(p.240)と述べています。
跡地付近。不二ガ丘3丁目121付近。東から。
跡地付近。不二ガ丘3丁目140-3付近。西から。
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2024年08月24日
番外 愛知県の古墳㊻ 大留荒子古墳 春日井市 円墳 径10m
この古墳は、元位置から200m南東に位置する荒子公園内に移築・復元されたものです。復元古墳は、前回の親王塚古墳の約600m南西にあります。
「大留」という地名は、もとは「王留」で、後醍醐天皇の皇子がこの地に滞在したという伝承に起因しているそうです。
『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「遺跡一覧表」には、「古墳名 大留荒子古墳、所在地 同大留町、墳形・規模・主な副葬品 円墳(径10m)・横穴式石室・葺石・須恵器・鉄鏃・直刀・金環」(p.789)と掲載されています。
標識。
春日井市教委の説明板。
石室内部。
全景。南西から。
以上2013年6月撮影。
「大留」という地名は、もとは「王留」で、後醍醐天皇の皇子がこの地に滞在したという伝承に起因しているそうです。
『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「遺跡一覧表」には、「古墳名 大留荒子古墳、所在地 同大留町、墳形・規模・主な副葬品 円墳(径10m)・横穴式石室・葺石・須恵器・鉄鏃・直刀・金環」(p.789)と掲載されています。
標識。
春日井市教委の説明板。
石室内部。
全景。南西から。
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2024年08月22日
番外 愛知県の古墳㊺ 親王塚古墳 春日井市 円墳 径14~15m
10年以上前の訪問なので、古墳の記憶がほとんどありません。約1750m南西に高御堂古墳(ランキング926位)があるので、そのおまけとして立ち寄ったと思われます。
古墳の名称は、後醍醐天皇の皇子宗良親王あるいは護良親王の遺品を納めた塚という伝説から生まれたそうです。
松原隆治さんは、「69 親王塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「1969年、封土流失により石室の天井石が露出したため、市教育委員会が発掘調査を実施した。」、「直径14~15m、高さ3.5~4mの円墳で周溝があったと推定されている。」(p.250)と述べています。
春日井市教委の説明板。一部拡大。

石室入口。
全景。西から。
以上2013年6月撮影。
古墳の名称は、後醍醐天皇の皇子宗良親王あるいは護良親王の遺品を納めた塚という伝説から生まれたそうです。
松原隆治さんは、「69 親王塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「1969年、封土流失により石室の天井石が露出したため、市教育委員会が発掘調査を実施した。」、「直径14~15m、高さ3.5~4mの円墳で周溝があったと推定されている。」(p.250)と述べています。
春日井市教委の説明板。一部拡大。
石室入口。
全景。西から。
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2024年08月20日
番外 愛知県の古墳㊹ 奥津社古墳 愛西市(旧佐織町) 方墳 辺約25m、又は前方後方墳 35m
奥津神社は日光川の左岸、標高0mの低地にあり、当初こうした場所に古墳が築造されていると考えられていませんでした。しかし、この奥津神社が3面の三角縁神獣鏡を所蔵していたことから、社殿が建立されている小丘が古墳である可能性が指摘されました。指摘した岩野見司さんは、1977年に測量調査・発掘調査を実施し、墳丘盛土内からパレス壺・S字状口縁台付甕などが出土しています。また、3面の三角縁神獣鏡が古い型式であることから、前期前半段階の古墳と考えられています。ただし、墳形・規模については、下記のように明らかとなっていません。
早野浩二さんは、「51 奥津社古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「測量調査の結果、社殿後方の斜面が比較的良好に旧状を残していて、現状では方墳状を呈することが観察されるものの、社殿建立に伴い墳頂部を中心に墳丘がかなり改変を受けていることも明らかである。よって、墳形を決定することは難しいが、仮に方墳として、現状での規模を求めると、一辺約25m、高さ約3.3mとなる」(p.198)、「墳形については、社殿南に低平な前方部が付設された前方後方墳の可能性が指摘されることもあって、基礎的な評価が十分に定まっていないことも事実である。」(p.199)と述べています。
また、奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「奥津社古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:35m 後円(ママ)部:径(ママ)1辺25m 高3m 特記事項【備考】前方部削平。」と記されています。
3面の鏡は、愛知県の文化財に指定されています。
また、約4km北西に位置する二ツ寺神明社古墳(2018年6月19日のブログで掲載)も、奥津社古墳と同様に、立地条件が低地の古墳です。
余談ですが、1976年に開催された『愛知の古鏡展』で奥津神社の鏡を実見した記憶があるような気がします。何分にも、50年近く前のことなので、妄想かもしれませんが・・・。
奥津神社の扁額。
佐織町教委の説明板。
墳頂の社殿。
残存部全景。北西から。
残存部全景。南西から。
以上2013年6月撮影。
早野浩二さんは、「51 奥津社古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「測量調査の結果、社殿後方の斜面が比較的良好に旧状を残していて、現状では方墳状を呈することが観察されるものの、社殿建立に伴い墳頂部を中心に墳丘がかなり改変を受けていることも明らかである。よって、墳形を決定することは難しいが、仮に方墳として、現状での規模を求めると、一辺約25m、高さ約3.3mとなる」(p.198)、「墳形については、社殿南に低平な前方部が付設された前方後方墳の可能性が指摘されることもあって、基礎的な評価が十分に定まっていないことも事実である。」(p.199)と述べています。
また、奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「奥津社古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後方 墳長:35m 後円(ママ)部:径(ママ)1辺25m 高3m 特記事項【備考】前方部削平。」と記されています。
3面の鏡は、愛知県の文化財に指定されています。
また、約4km北西に位置する二ツ寺神明社古墳(2018年6月19日のブログで掲載)も、奥津社古墳と同様に、立地条件が低地の古墳です。
余談ですが、1976年に開催された『愛知の古鏡展』で奥津神社の鏡を実見した記憶があるような気がします。何分にも、50年近く前のことなので、妄想かもしれませんが・・・。
奥津神社の扁額。
佐織町教委の説明板。
墳頂の社殿。
残存部全景。北西から。
残存部全景。南西から。
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2024年08月18日
番外 愛知県の古墳㊸ 長泉塚古墳 扶桑町 円墳 径29×21m
記憶が定かではありませんが、犬山市や小牧市など尾張北部地域の古墳探訪の際、偶然見つけて立ち寄った古墳だと思います。古墳の保存状態は良く、長泉塚保存会による立派な石碑や説明板が設置されていました。
愛知県文化財マップ 埋蔵文化財記念物では、「包蔵地名:長泉塚古墳(中略) 包蔵地概要:円墳。径約30m、高約4m、二段築成、背部に凹みあり周濠址か、頂上に「長泉大御神」碑あったが、現在は古墳の下に移動されている。」と記されています。また、下記の説明板では、「この古墳は、犬山扇状地の台地面に立地する円墳で大きさは、基底部で西北-東南の径二十九メートル東北-西南の径二十一・三メートル高さ約三・三メートルあります。」と記されています。ここでは、後者を参考にしました。
扶桑町のHP.の「長泉塚古墳(ちょうせんづかこふん)」の項目では、「犬山扇状地の台地面に立地する二段円墳。一部に周濠らしい痕跡をとどめ小規模ながら形の整った二段円墳で県指定文化財である。」とのみ記されています。おっさん的には、古墳の規模などの基本情報を掲載してほしかったです。
古墳は、愛知県の史跡に指定されています。ただし、この古墳は『愛知県史 資料編3 考古3古墳』に掲載されていませんでした。「忘れられた古墳ダラー」。
長泉塚保存会の石碑。
長泉塚保存会の説明板。
やや全景。南西から。
全景。東から。
遠景。南から。
以上2016年10月撮影。
愛知県文化財マップ 埋蔵文化財記念物では、「包蔵地名:長泉塚古墳(中略) 包蔵地概要:円墳。径約30m、高約4m、二段築成、背部に凹みあり周濠址か、頂上に「長泉大御神」碑あったが、現在は古墳の下に移動されている。」と記されています。また、下記の説明板では、「この古墳は、犬山扇状地の台地面に立地する円墳で大きさは、基底部で西北-東南の径二十九メートル東北-西南の径二十一・三メートル高さ約三・三メートルあります。」と記されています。ここでは、後者を参考にしました。
扶桑町のHP.の「長泉塚古墳(ちょうせんづかこふん)」の項目では、「犬山扇状地の台地面に立地する二段円墳。一部に周濠らしい痕跡をとどめ小規模ながら形の整った二段円墳で県指定文化財である。」とのみ記されています。おっさん的には、古墳の規模などの基本情報を掲載してほしかったです。
古墳は、愛知県の史跡に指定されています。ただし、この古墳は『愛知県史 資料編3 考古3古墳』に掲載されていませんでした。「忘れられた古墳ダラー」。
長泉塚保存会の石碑。
長泉塚保存会の説明板。
やや全景。南西から。
全景。東から。
遠景。南から。
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2024年08月16日
番外 愛知県の古墳㊷ー2 神福神社古墳[小折古墳群] 大口町 全長54mの前方後円墳または直径30mの円墳
下記のように古墳は、神福神社の境内地にあります。後円部に巨大な盗掘抗があるためか、くびれ部に社殿が建立されています。
赤塚次郎さんは、「9 富士塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「現在は、神福神社境内となっており、社殿の東側の高まりが後円部となる。墳長54m、後円部径は約30mほどで、前方部幅が30mを測る前方後円墳である。社殿の東側には大きな陥没穴があるが、おそらく横穴式石室が存在し、その石材などの抜取痕跡と思われる。外部施設や副葬品などは知られていない。なお、墳形に関して前方後円形を疑問視する意見もあり(伊藤 1996)、最終的には発掘調査などにより確認が必要であろう。」(p.76)と述べています。
ただし、伊藤秋男さんは、「神福神社古墳の墳形を再検討した結果を結論的にいえば、次のとおりである。神福神社古墳を全長五四メートルの前方後円墳とするこれまでの考え方は、明治一七年(一八八四)作成の地籍図に基づくかぎり誤りであり、正しくは直径三〇メートルの円墳と修正すべきである、とするのが小論の結論である。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.26)と述べています。
ここでは、墳長については、両論併記としましたが、下記の絵は前方後円墳という前提で撮っています。
この古墳の約400m北西に、前回の富士塚古墳があります。
神社の石柱。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

くびれ部の社殿。
後円部の盗掘抗。
全景。右が後円部、左が前方部。南から。
以上2013年6月撮影。
赤塚次郎さんは、「9 富士塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「現在は、神福神社境内となっており、社殿の東側の高まりが後円部となる。墳長54m、後円部径は約30mほどで、前方部幅が30mを測る前方後円墳である。社殿の東側には大きな陥没穴があるが、おそらく横穴式石室が存在し、その石材などの抜取痕跡と思われる。外部施設や副葬品などは知られていない。なお、墳形に関して前方後円形を疑問視する意見もあり(伊藤 1996)、最終的には発掘調査などにより確認が必要であろう。」(p.76)と述べています。
ただし、伊藤秋男さんは、「神福神社古墳の墳形を再検討した結果を結論的にいえば、次のとおりである。神福神社古墳を全長五四メートルの前方後円墳とするこれまでの考え方は、明治一七年(一八八四)作成の地籍図に基づくかぎり誤りであり、正しくは直径三〇メートルの円墳と修正すべきである、とするのが小論の結論である。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.26)と述べています。
ここでは、墳長については、両論併記としましたが、下記の絵は前方後円墳という前提で撮っています。
この古墳の約400m北西に、前回の富士塚古墳があります。
神社の石柱。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
くびれ部の社殿。
後円部の盗掘抗。
全景。右が後円部、左が前方部。南から。
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2024年08月14日
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
古墳は、道路や畑で削平され、墳形は定かではありませんでした。ただし、比較的高さがある古墳という印象が残っています。墳頂には、織田信長とゆかりのある生駒家の由緒や武功を記した六角柱の碑が建立され、市の文化財に指定されていました。
また、市教委の説明板によると、小牧・長久手の戦いの際、徳川家康と織田信雄がこの古墳に登り、敵の豊臣秀吉の陣形を見渡したそうです。ただし最近の説明板では、「この時、家康は小牧山の先取りを決意したと伝えられています。」という文言が何故か白いテープで消されていました。
約1km南南東に曽本二子山古墳(2019年2月8日のブログで「1145 曽本二子塚古墳」として掲載)があります。
赤塚次郎さんは、「11 富士塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「本墳は径約30m、高さ約6.5mの円墳と報告されているが、現状は2段築成状を呈しており、下段には南側に突出した平坦部が見られる。あるいは造出付の円墳の可能性も考えられる。また上段は方形状を呈している。いずれにしろ墳頂部に碑文が建立されており、墳丘が大きく改変されている可能性が高い。」(p.78)と述べています。
また、伊藤秋男さんは、「後円部径約二〇メートル、高さ六.五メートル、前方部の現存長約八メートルの前方後円墳である。前方部はかなり削平を受けているうえ、前方部端も削りとられている。全長が三五~四〇メートルほどあったのではないかと思われる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.56)と述べています。
ここでは、後者を参考に、帆立貝形前方後円墳と仮定して絵を撮りました。
余談ですが、早野浩二さんは、富士塚古墳の南西に隣接した天王山遺跡から家形埴輪・円筒埴輪が出土し、明治17年の地籍図などを検討した結果、「「富士塚の西」で採集され埴輪が伴っていた古墳は50m程度の前方後円墳であったとも推測される」(「小折古墳群の研究 ー江南市天王山遺跡の家形埴輪ー」p.7、『愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第24号』所収)と述べています。
江南市教委の説明板。
後円部残存部。
残存部全景。
以上2013年6月撮影。
江南市教委の説明板。
標柱。後円部墳頂の碑。

後円部中央。右側。左側。


前方部跡右側。左側。

後円部残存部。

残存部全景。
以上2024年2月撮影。
また、市教委の説明板によると、小牧・長久手の戦いの際、徳川家康と織田信雄がこの古墳に登り、敵の豊臣秀吉の陣形を見渡したそうです。ただし最近の説明板では、「この時、家康は小牧山の先取りを決意したと伝えられています。」という文言が何故か白いテープで消されていました。
約1km南南東に曽本二子山古墳(2019年2月8日のブログで「1145 曽本二子塚古墳」として掲載)があります。
赤塚次郎さんは、「11 富士塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「本墳は径約30m、高さ約6.5mの円墳と報告されているが、現状は2段築成状を呈しており、下段には南側に突出した平坦部が見られる。あるいは造出付の円墳の可能性も考えられる。また上段は方形状を呈している。いずれにしろ墳頂部に碑文が建立されており、墳丘が大きく改変されている可能性が高い。」(p.78)と述べています。
また、伊藤秋男さんは、「後円部径約二〇メートル、高さ六.五メートル、前方部の現存長約八メートルの前方後円墳である。前方部はかなり削平を受けているうえ、前方部端も削りとられている。全長が三五~四〇メートルほどあったのではないかと思われる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.56)と述べています。
ここでは、後者を参考に、帆立貝形前方後円墳と仮定して絵を撮りました。
余談ですが、早野浩二さんは、富士塚古墳の南西に隣接した天王山遺跡から家形埴輪・円筒埴輪が出土し、明治17年の地籍図などを検討した結果、「「富士塚の西」で採集され埴輪が伴っていた古墳は50m程度の前方後円墳であったとも推測される」(「小折古墳群の研究 ー江南市天王山遺跡の家形埴輪ー」p.7、『愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第24号』所収)と述べています。
江南市教委の説明板。
後円部残存部。
残存部全景。
江南市教委の説明板。
標柱。後円部墳頂の碑。
後円部中央。右側。左側。
前方部跡右側。左側。
後円部残存部。
残存部全景。
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2024年08月12日
番外 愛知県の古墳㊶ 名和1号墳[名和古墳群] 東海市 円墳 径20m
前回の兜山古墳から約270m北東に位置する古墳です。この古墳についてほとんど記憶がありませんが、兜山古墳訪問の際偶然見つけて立ち寄ったと思います。ただし、日の出前に到着し、車内で時間をつぶした記憶が微かに残っています。
HP.「東海市」の「東海市の文化財5」にある「名和古墳群」の項目で、「名鉄名和駅から東へ、一番畑の集落を抜けて、大高に通じる道をたどった緑陽小学校の南の道を東に入った丘陵の上に名和古墳群があります。標高約10mの丘陵上にある現存している3基の円墳(1・2・3号墳)で構成され、三ツ屋古墳群とも呼ばれています。1号墳については、明治29年に土地所有者がその副葬品を発見し、世間に話題を提供しました。また、昭和28年には、上野中学校が発掘調査をしています。その結果、直径20mの円墳で、内部に平石を7から8段積み上げた横穴式石室が確認されています。石室からは坏、壺、器台などの須恵器と呼ばれる陶器や鉄鏃が出土しました。名和古墳群が築かれたのは、古墳時代の終わりごろと推定されますが、当地に残る万葉時代の伝説をもとに、古代人の行きかう姿を想うのもおもしろいかもしれません。」と記されています。
古墳は、「名和古墳群」を構成する一基として、東海市の史跡に指定されています。
余談ですが、下記の石碑に「火上姉子神社附属地 名和古墳」と記されています。古墳から約850m東には、「氷上姉子神社」があり、「火上姉子神社」は『延喜式』神名帳上の社名だそうです。氷上姉子神社の祭神は「宮簀姫命」で、『日本書紀』では日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が娶り、『古事記』では許嫁となった女性としています。熱田神宮が境外摂社として管理している氷上姉子神社は、その旧社地に「宮簀姫命」の住居があり、そこで日本武尊から「草薙の剣」を預かったという伝承があるそうです。
東海市の説明板。
石碑。
墳頂付近。
全景。西から。
以上2016年3月撮影。
HP.「東海市」の「東海市の文化財5」にある「名和古墳群」の項目で、「名鉄名和駅から東へ、一番畑の集落を抜けて、大高に通じる道をたどった緑陽小学校の南の道を東に入った丘陵の上に名和古墳群があります。標高約10mの丘陵上にある現存している3基の円墳(1・2・3号墳)で構成され、三ツ屋古墳群とも呼ばれています。1号墳については、明治29年に土地所有者がその副葬品を発見し、世間に話題を提供しました。また、昭和28年には、上野中学校が発掘調査をしています。その結果、直径20mの円墳で、内部に平石を7から8段積み上げた横穴式石室が確認されています。石室からは坏、壺、器台などの須恵器と呼ばれる陶器や鉄鏃が出土しました。名和古墳群が築かれたのは、古墳時代の終わりごろと推定されますが、当地に残る万葉時代の伝説をもとに、古代人の行きかう姿を想うのもおもしろいかもしれません。」と記されています。
古墳は、「名和古墳群」を構成する一基として、東海市の史跡に指定されています。
余談ですが、下記の石碑に「火上姉子神社附属地 名和古墳」と記されています。古墳から約850m東には、「氷上姉子神社」があり、「火上姉子神社」は『延喜式』神名帳上の社名だそうです。氷上姉子神社の祭神は「宮簀姫命」で、『日本書紀』では日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が娶り、『古事記』では許嫁となった女性としています。熱田神宮が境外摂社として管理している氷上姉子神社は、その旧社地に「宮簀姫命」の住居があり、そこで日本武尊から「草薙の剣」を預かったという伝承があるそうです。
東海市の説明板。
石碑。
墳頂付近。
全景。西から。
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