2024年08月14日

番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m

 古墳は、道路や畑で削平され、墳形は定かではありませんでした。ただし、比較的高さがある古墳という印象が残っています。墳頂には、織田信長とゆかりのある生駒家の由緒や武功を記した六角柱の碑が建立され、市の文化財に指定されていました。
 また、市教委の説明板によると、小牧・長久手の戦いの際、徳川家康と織田信雄がこの古墳に登り、敵の豊臣秀吉の陣形を見渡したそうです。ただし最近の説明板では、「この時、家康は小牧山の先取りを決意したと伝えられています。」という文言が何故か白いテープで消されていました。
 約1km南南東に曽本二子山古墳(2019年2月8日のブログで「1145 曽本二子塚古墳」として掲載)があります。

 赤塚次郎さんは、「11 富士塚古墳」(『愛知県史 資料編3 考古3古墳』所収)の項目で、「本墳は径約30m、高さ約6.5mの円墳と報告されているが、現状は2段築成状を呈しており、下段には南側に突出した平坦部が見られる。あるいは造出付の円墳の可能性も考えられる。また上段は方形状を呈している。いずれにしろ墳頂部に碑文が建立されており、墳丘が大きく改変されている可能性が高い。」(p.78)と述べています。
 また、伊藤秋男さんは、「後円部径約二〇メートル、高さ六.五メートル、前方部の現存長約八メートルの前方後円墳である。前方部はかなり削平を受けているうえ、前方部端も削りとられている。全長が三五~四〇メートルほどあったのではないかと思われる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.56)と述べています。
 ここでは、後者を参考に、帆立貝形前方後円墳と仮定して絵を撮りました。

 余談ですが、早野浩二さんは、富士塚古墳の南西に隣接した天王山遺跡から家形埴輪・円筒埴輪が出土し、明治17年の地籍図などを検討した結果、「「富士塚の西」で採集され埴輪が伴っていた古墳は50m程度の前方後円墳であったとも推測される」(「小折古墳群の研究 ー江南市天王山遺跡の家形埴輪ー」p.7、『愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第24号』所収)と述べています。


 江南市教委の説明板。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m


 後円部残存部。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m

 残存部全景。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
        以上2013年6月撮影。

 江南市教委の説明板。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m

 標柱。後円部墳頂の碑。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m


 後円部中央。右側。左側。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m

 前方部跡右側。左側。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m


 後円部残存部。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
 
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
 
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m

 残存部全景。
番外 愛知県の古墳㊷ー1 富士塚古墳[小折古墳群] 江南市 推35~40m
        以上2024年2月撮影。



Posted by じこま at 07:07│Comments(0)
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