2024年09月19日
追加1152 円満寺山古墳[円満寺山古墳群] 岐阜県海津市 60(53)m
2019年2月10日のブログで紹介していた古墳です。再訪時の画像があったので、取り上げました。ただし、画像の回転を訂正する技術がなく、下記のように見苦しい絵となってしまい申し訳ありません。
古墳は、大規模な「圓(円)満寺霊園」を見下ろす山頂に位置しています。最初の訪問では、古墳に向かうルートがわからず苦労しましたが、霊園の最高所にある駐車場付近に下記の説明板と案内板が設置されており、難なく墳丘にたどり着くことができました。また、後円部のコンクリート製の構築物は撤去されていました。
海津市のHP.の「海津市史跡」にある「円満寺山古墳」の項目で、「養老山地の東麓、庭田集落をとり囲んで北に延びる支丘上、標高96メートルの位置にある南向きの前方後円墳です。全長60メートル、後円部直径35メートル、高さ5メートル、前方部幅約19メートル、高さ1.5メートルあり、自然の丘陵に若干手を加えた程度であって、前方部の低い狭長な古墳時代前期様式を示しています。 昭和42年8月に発見され同年12月に発掘調査されました。石室は主軸に平行につくられた河原石積みの竪穴式石室で、長さ4.67メートル、幅0.9メートル~1.2メートルです。石室床面は平坦で、この上に木棺がおかれたようです。 副葬の遺物は鏡三面(三角縁波文帯三神二獣博山炉鏡、三角縁唐草文帯天王日月二神二獣鏡、画文帯神獣鏡)、直刀3、剣2、鎗1、鉄鏃5、鉄斧2、不明尖頭鉄器1で玉類や石製品を含んでいません。 外形の形態や主体部の構造および出土遺物の観察から、築造の年代は四世紀中葉から後半期にかけてと判断されました。しかも、竪穴式石室の構造や副葬された三面の鏡からみて、この古墳の被葬者が畿内地方の政権と何らかのつながりのある地位にあったことも推察できます。」と記されています。
ただし、下記の説明板では、「南の最も高く広い地点に立地する円満寺山古墳(1号古墳)は、全長五十三メートルの前方後円墳」と記されており、タイトルでは、「60(53)m」としました。
古墳は、海津市の史跡に指定されています。
海津市教委の説明板。説明板と案内板。
180度回転しています。
90度回転しています。
後円部右側。中央。左側。

90度回転しています。
前方部右側。左側。

90度回転しています。
前方部から後円部。
90度回転しています。
後円部墳頂。
180度回転しています。
2つで全景(横から)。
180度回転しています。
後円部墳頂から見る大垣市方面。
180度回転しています。 以上2020年4月撮影。
古墳は、大規模な「圓(円)満寺霊園」を見下ろす山頂に位置しています。最初の訪問では、古墳に向かうルートがわからず苦労しましたが、霊園の最高所にある駐車場付近に下記の説明板と案内板が設置されており、難なく墳丘にたどり着くことができました。また、後円部のコンクリート製の構築物は撤去されていました。
海津市のHP.の「海津市史跡」にある「円満寺山古墳」の項目で、「養老山地の東麓、庭田集落をとり囲んで北に延びる支丘上、標高96メートルの位置にある南向きの前方後円墳です。全長60メートル、後円部直径35メートル、高さ5メートル、前方部幅約19メートル、高さ1.5メートルあり、自然の丘陵に若干手を加えた程度であって、前方部の低い狭長な古墳時代前期様式を示しています。 昭和42年8月に発見され同年12月に発掘調査されました。石室は主軸に平行につくられた河原石積みの竪穴式石室で、長さ4.67メートル、幅0.9メートル~1.2メートルです。石室床面は平坦で、この上に木棺がおかれたようです。 副葬の遺物は鏡三面(三角縁波文帯三神二獣博山炉鏡、三角縁唐草文帯天王日月二神二獣鏡、画文帯神獣鏡)、直刀3、剣2、鎗1、鉄鏃5、鉄斧2、不明尖頭鉄器1で玉類や石製品を含んでいません。 外形の形態や主体部の構造および出土遺物の観察から、築造の年代は四世紀中葉から後半期にかけてと判断されました。しかも、竪穴式石室の構造や副葬された三面の鏡からみて、この古墳の被葬者が畿内地方の政権と何らかのつながりのある地位にあったことも推察できます。」と記されています。
ただし、下記の説明板では、「南の最も高く広い地点に立地する円満寺山古墳(1号古墳)は、全長五十三メートルの前方後円墳」と記されており、タイトルでは、「60(53)m」としました。
古墳は、海津市の史跡に指定されています。
海津市教委の説明板。説明板と案内板。
後円部右側。中央。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
後円部墳頂。
2つで全景(横から)。
後円部墳頂から見る大垣市方面。
Posted by じこま at
07:07
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