2022年04月17日
追加290 青塚古墳 宮城県古川市 約100m→推定90m
大崎平野周辺の古墳探訪をしていたので、少し足を延ばして再訪しました。下記のように、円墳状の巨大な墳丘が、神社の境内として残されています。ただし、周溝跡と考えられている前方部跡東隣の土地は、住宅建設が進められており、墳形を確定する再調査の機会が失われることを危惧しました。
大崎市教育委員会文化財課が2022年に発行した「市指定史跡 青塚古墳 古墳時代前期最北の前方後円墳」では、「現在、前方部は宅地化され残存していませんが、昭和55年(1980)に旧古川市教育委員会が行った調査では、古墳の周囲から幅30~40m、深さ20~30cm程の溝跡(周溝)が確認されており、全長90m、後円部径55~60mの前方後円墳と推定されています。」と述べられています。
ただし、辻秀人さんは、この古墳を円墳として図示(「十 東北南部」p.480、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)しており、円墳と考えている専門家もいるようです。
前回のブログ(2018年4月6日掲載)と同様に、ここでは大崎市の公式見解を尊重し、「前方後円墳」として書いていきますが・・・。「役所の権威に弱いだらー」。
また、前回は、ランキングの参考にさせていただいたHP.『古墳探訪』(おっさん註 現在は、何故か閲覧できなくなっています。このHP.との出会いがなければ、墳長60m以上の古墳の全国制覇という狂気じみた行動はなかったです。「世の中に絶えて古墳のなかりせば、冬の心はのどけからまし」) により、墳長を「約100m」としましたが、今回は上記大崎市の資料により「推定90m」としました。
古墳は市の史跡に指定されています。余談ですが、2006年の市町村合併により、古川市から大崎市に名称変更されましたが、説明板は古川市のままでした。
別件ですが、おっさんの青塚古墳についての質問に対して、資料や私見も添えて真摯な回答をいただいた、大崎市教育委員会 文化財課の担当者の方に感謝申し上げます。どうもありがとうございました。
古川市教委の説明板。
後円部。
周溝跡付近。
前方部跡(画面左端)付近から後円部。
後円部墳頂。
後円部近景。南西から。
後円部遠景。西から。
以上2022年3月撮影。
大崎市教育委員会文化財課が2022年に発行した「市指定史跡 青塚古墳 古墳時代前期最北の前方後円墳」では、「現在、前方部は宅地化され残存していませんが、昭和55年(1980)に旧古川市教育委員会が行った調査では、古墳の周囲から幅30~40m、深さ20~30cm程の溝跡(周溝)が確認されており、全長90m、後円部径55~60mの前方後円墳と推定されています。」と述べられています。
ただし、辻秀人さんは、この古墳を円墳として図示(「十 東北南部」p.480、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)しており、円墳と考えている専門家もいるようです。
前回のブログ(2018年4月6日掲載)と同様に、ここでは大崎市の公式見解を尊重し、「前方後円墳」として書いていきますが・・・。「役所の権威に弱いだらー」。
また、前回は、ランキングの参考にさせていただいたHP.『古墳探訪』(おっさん註 現在は、何故か閲覧できなくなっています。このHP.との出会いがなければ、墳長60m以上の古墳の全国制覇という狂気じみた行動はなかったです。「世の中に絶えて古墳のなかりせば、冬の心はのどけからまし」) により、墳長を「約100m」としましたが、今回は上記大崎市の資料により「推定90m」としました。
古墳は市の史跡に指定されています。余談ですが、2006年の市町村合併により、古川市から大崎市に名称変更されましたが、説明板は古川市のままでした。
別件ですが、おっさんの青塚古墳についての質問に対して、資料や私見も添えて真摯な回答をいただいた、大崎市教育委員会 文化財課の担当者の方に感謝申し上げます。どうもありがとうございました。
古川市教委の説明板。
後円部。
周溝跡付近。
前方部跡(画面左端)付近から後円部。
後円部墳頂。
後円部近景。南西から。
後円部遠景。西から。
Posted by じこま at
08:08
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