2025年03月20日
補遺[1301-6] 高山古墳[三宅古墳群] 奈良県三宅町 57m
前回の竹林寺古墳と同じく、下記の奈良県版の「データベース」を見ていたら、この古墳が墳長56.5mと記されていたので、ギリギリのランキング古墳として訪問しました。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「高山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:56.5m 後円部:径19m 高3m 前方部:幅33.2m 特記事項 盾形の周濠が全周するが、現在は水田になっている。墳丘は削平され畑地・果樹園になっている。」と記されています。
上記のように、古墳の前方部は植樹されていましたが後円部は荒れ、道路によって墳丘北側が一部分削られていました。また、説明板には、墳長や築造時期などの情報が無く、おっさんとしては・・・でした。
余談ですが、この高山古墳へのナビ設定が不十分で周辺をウロウロしていたところ、偶然説明板が目に入りました。立ち寄ったら、古墳ではなく「伴堂東遺跡」でした。後日このブログを書くために資料などを漁っていたら、下記のブログが目に留まりました。「欠山式土器」といえば、おっさんの住む東三河エリアの遺跡ではないですか。なんと、偶然の出会いに感謝・感激。「怪我の功名ダラー」。
ブログ「マサソイトの古墳見学日記」の「国道24号線バイパスから出てきた遺跡 古墳時代のパイオニア 伴堂東遺跡」(2012年11月23日)の項目で、「◆三河から多数の移住者 三宅町には三河(みかわ)、石見(いわみ)、但馬(たじま)などの地名がある。 三河は愛知県東部、石見は島根県西部、但馬は兵庫県北部の旧国名である。奈良盆地にはこのような旧国名をもつ地名が点在する。かつて、直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授は、平城京をつくるために、全国各地から移住者がやってきたことと関係するのではないかという見解を示された。 伴堂(ともんど)東(ひがし)遺跡は、三宅町の役場がある伴堂の集落から東へ300メートル、三河の集落からはすぐ南側の位置にある。京奈和自動車道の建設に伴う発掘調査で初めて確認された遺跡で、墓地・集落・耕作地など、この土地が時代を追って刻々と変化していく様子が目の当たりになった。 とりわけ注目されたのが古墳時代初めごろ(3世紀中頃)の様子である。ゴミ捨て場と考えられる穴から大量の土器や木製品などが出土し、その量は遺物箱で200箱にも及んだ。 遺跡のなかで、ひときわたくさんの遺物が出土した穴がある。その穴の中から、奈良盆地でつくられた地元産の土器のほかに、三河地方の特徴をもつ土器が大量に出土した。奈良盆地の甕が、平底で、小さな板を押し当てたタタキと呼ばれる製作痕跡をもつのに対し、三河地方の甕は、底に円錐(えんすい)形の台部を設け、板小口をこすりつけたハケと呼ばれる痕跡をもつ。三河地方で、土器を研究している研究者に調査に来てもらったが、紛れもなく欠山(かけやま)式と呼ばれる三河産の土器であった。これらの土器は、生活に使用したものであり、古墳時代の初めごろ、三河地方から多数の人々がやって来たことを示すものと考えられる。 しかしながら、三河(参河・三川とも表記された)の地名は、奈良時代までしかさかのぼれない。それ以前は、穂と呼ばれたともいわれているが、さだかではない。それよりもはるか前の古墳時代初めごろには、もちろん国の名称はない。三河地方の土器がこの場所から出土したことは偶然の一致にすぎないのかもしれない。しかし、偶然にしては、話ができすぎている。」と記されています。
三宅町教委の説明板。
後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。
前方部端ほぼ全景。東から。
2つで全景。後円部、北東から。前方部から後円部、北西から。。

やや全景。左手前が前方部、右奥が後円部。北東から。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部。南東から。

おまけ 伴堂(ともんど)東遺跡
三宅町教委の説明板。
遺跡周辺。
以上2025年3月撮影。
奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「高山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:56.5m 後円部:径19m 高3m 前方部:幅33.2m 特記事項 盾形の周濠が全周するが、現在は水田になっている。墳丘は削平され畑地・果樹園になっている。」と記されています。
上記のように、古墳の前方部は植樹されていましたが後円部は荒れ、道路によって墳丘北側が一部分削られていました。また、説明板には、墳長や築造時期などの情報が無く、おっさんとしては・・・でした。
余談ですが、この高山古墳へのナビ設定が不十分で周辺をウロウロしていたところ、偶然説明板が目に入りました。立ち寄ったら、古墳ではなく「伴堂東遺跡」でした。後日このブログを書くために資料などを漁っていたら、下記のブログが目に留まりました。「欠山式土器」といえば、おっさんの住む東三河エリアの遺跡ではないですか。なんと、偶然の出会いに感謝・感激。「怪我の功名ダラー」。
ブログ「マサソイトの古墳見学日記」の「国道24号線バイパスから出てきた遺跡 古墳時代のパイオニア 伴堂東遺跡」(2012年11月23日)の項目で、「◆三河から多数の移住者 三宅町には三河(みかわ)、石見(いわみ)、但馬(たじま)などの地名がある。 三河は愛知県東部、石見は島根県西部、但馬は兵庫県北部の旧国名である。奈良盆地にはこのような旧国名をもつ地名が点在する。かつて、直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授は、平城京をつくるために、全国各地から移住者がやってきたことと関係するのではないかという見解を示された。 伴堂(ともんど)東(ひがし)遺跡は、三宅町の役場がある伴堂の集落から東へ300メートル、三河の集落からはすぐ南側の位置にある。京奈和自動車道の建設に伴う発掘調査で初めて確認された遺跡で、墓地・集落・耕作地など、この土地が時代を追って刻々と変化していく様子が目の当たりになった。 とりわけ注目されたのが古墳時代初めごろ(3世紀中頃)の様子である。ゴミ捨て場と考えられる穴から大量の土器や木製品などが出土し、その量は遺物箱で200箱にも及んだ。 遺跡のなかで、ひときわたくさんの遺物が出土した穴がある。その穴の中から、奈良盆地でつくられた地元産の土器のほかに、三河地方の特徴をもつ土器が大量に出土した。奈良盆地の甕が、平底で、小さな板を押し当てたタタキと呼ばれる製作痕跡をもつのに対し、三河地方の甕は、底に円錐(えんすい)形の台部を設け、板小口をこすりつけたハケと呼ばれる痕跡をもつ。三河地方で、土器を研究している研究者に調査に来てもらったが、紛れもなく欠山(かけやま)式と呼ばれる三河産の土器であった。これらの土器は、生活に使用したものであり、古墳時代の初めごろ、三河地方から多数の人々がやって来たことを示すものと考えられる。 しかしながら、三河(参河・三川とも表記された)の地名は、奈良時代までしかさかのぼれない。それ以前は、穂と呼ばれたともいわれているが、さだかではない。それよりもはるか前の古墳時代初めごろには、もちろん国の名称はない。三河地方の土器がこの場所から出土したことは偶然の一致にすぎないのかもしれない。しかし、偶然にしては、話ができすぎている。」と記されています。
三宅町教委の説明板。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。
前方部端ほぼ全景。東から。
2つで全景。後円部、北東から。前方部から後円部、北西から。。
やや全景。左手前が前方部、右奥が後円部。北東から。
全景(横から)。右が前方部、左が後円部。南東から。
おまけ 伴堂(ともんど)東遺跡
三宅町教委の説明板。
遺跡周辺。
Posted by じこま at
07:07
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