2025年03月30日
追加番外 牽午子塚(けんごしづか)古墳 奈良県明日香村 八角墳 対辺長約22m
この古墳は、真の斉明大王(天皇)[皇極大王が重祚]の墓と多くの研究者が指摘しています。下記の明日香村の説明板「牽午子塚古墳と八角墳」でも、「牽午子塚古墳は斉明天皇の小市岡上陵、中尾山古墳は文武天皇の檜隈安古岡上陵の可能性が高いと考えられています。」と記されています。ただし、宮内庁は別の古墳を斉明天皇の陵墓と治定しています。
2020年5月22日のブログ「番外 牽午子塚古墳」で、2011年4月・2015年10月の発掘調査時に訪問した絵を掲載しています。ただし、復元整備以前の訪問だったので、今回は白色の優美な八角墳を期待していました。ところが、全体としては灰色で、部分的に黒い縞模様が・・・。おっさんは、斉明大王の宮内庁に対する抗議の涙に見えてしまいました。「見えすぎダラー」。
古墳は、1923年に「牽午子塚古墳」として国の史跡に指定されていました。2014年に、隣接する越塚御門古墳を追加して「牽午子塚古墳・塚御門古墳」という名称で再指定されています。
余談ですが、宮内庁が斉明天皇の陵墓と治定している「車木ケンノウ古墳」は、2020年5月24日のブログに掲載しています。
余談の余談ですが、下垣仁志さんは、近著『前方後円墳』の中で、「一口に古墳時代といっても四〇〇年近い時間幅があり、上位ランクの墳丘規模が小期ごとに大きく変動したという事実である。ある小期ではトップクラスの墳丘規模も、別の小期だと一〇位以下になってしまうことがざらにある。それゆえ、時期差を捨象して墳丘規模の階層構成を論じるのは無意味である。時代背景を無視して、寛永寺五重塔(江戸時代)と浅草凌雲閣(明治期)と東京タワー(昭和期)の高さを比較しても意味がないのと同じことである。」(p.153)と述べています。耳の痛い話ですが、おっしゃる通りです。中期の大山古墳と終末期の牽午子塚古墳の墳丘規模を比較してランキングするのは「愚の骨頂」と言わざるを得ません。ただ、「無知の知」ならぬ「愚知の知」ということで、お許しください。
石柱。
明日香村の説明板。「逆さまです」。
明日香村の説明板「牽午子塚古墳と八角墳」。
明日香村の説明板「石槨を囲う切石」。
石槨を囲う切石。
全景。西から。北西から。北から。

以上2025年3月撮影。
2020年5月22日のブログ「番外 牽午子塚古墳」で、2011年4月・2015年10月の発掘調査時に訪問した絵を掲載しています。ただし、復元整備以前の訪問だったので、今回は白色の優美な八角墳を期待していました。ところが、全体としては灰色で、部分的に黒い縞模様が・・・。おっさんは、斉明大王の宮内庁に対する抗議の涙に見えてしまいました。「見えすぎダラー」。
古墳は、1923年に「牽午子塚古墳」として国の史跡に指定されていました。2014年に、隣接する越塚御門古墳を追加して「牽午子塚古墳・塚御門古墳」という名称で再指定されています。
余談ですが、宮内庁が斉明天皇の陵墓と治定している「車木ケンノウ古墳」は、2020年5月24日のブログに掲載しています。
余談の余談ですが、下垣仁志さんは、近著『前方後円墳』の中で、「一口に古墳時代といっても四〇〇年近い時間幅があり、上位ランクの墳丘規模が小期ごとに大きく変動したという事実である。ある小期ではトップクラスの墳丘規模も、別の小期だと一〇位以下になってしまうことがざらにある。それゆえ、時期差を捨象して墳丘規模の階層構成を論じるのは無意味である。時代背景を無視して、寛永寺五重塔(江戸時代)と浅草凌雲閣(明治期)と東京タワー(昭和期)の高さを比較しても意味がないのと同じことである。」(p.153)と述べています。耳の痛い話ですが、おっしゃる通りです。中期の大山古墳と終末期の牽午子塚古墳の墳丘規模を比較してランキングするのは「愚の骨頂」と言わざるを得ません。ただ、「無知の知」ならぬ「愚知の知」ということで、お許しください。
石柱。
明日香村の説明板。「逆さまです」。
明日香村の説明板「牽午子塚古墳と八角墳」。
明日香村の説明板「石槨を囲う切石」。
石槨を囲う切石。
全景。西から。北西から。北から。
Posted by じこま at
07:07
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