2025年03月10日
追加219 木取山古墳[佐紀古墳群東群] 奈良県奈良市 110m
前回の(仮称)佐紀池之尻古墳は、平城京造営に伴って全面破壊された最大規模の古墳だそうですが、この木取山古墳も被破壊古墳です。2018年3月25日のブログでこの古墳(ランキング219位)を取り上げていますが、再訪したので新しい絵を追加記載しました。
今尾文昭さんは、「自衛隊学校のゲートは東にウワナベ古墳、西にコナベ古墳の間に位置する。ゲート前の道路を南に下ると、ほどなく西方に小高くなった墓地を見る。コナベ古墳南側外堤から南方約二〇〇メートル、木取山古墳の後円部だ。前方部は平城京関連の造営で削平されたとみられる。墳長一一〇メートル、埴輪を備える中期前葉に築かれた中形前方後円墳(おっさん註)である。」(『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』pp.76~77)と述べています。
おっさん註 今尾さんは、同上書で墳長200mを超える「大形前方後円墳」、墳長70m前後~120m前後のものを「中形前方後円墳」と分類しています。おっさんは、このブログでは墳長60m以上の古墳を「大型古墳」としています。ただし、墳長57m以上の古墳もランキング古墳として取り上げています。
後円部中央。右側。左側跡。


前方部右側。左側跡。

前方部端跡付近。法華寺町1132付近。南から。
前方部南東端跡付近。法華寺町1133-1付近。南から。
やや全景。中央が後円部跡、左奥が前方部跡。北東から。
遠景。右が前方部跡、左が後円部跡。(仮)佐紀池之尻古墳から見る。西から。
以上2025年3月撮影。
今尾文昭さんは、「自衛隊学校のゲートは東にウワナベ古墳、西にコナベ古墳の間に位置する。ゲート前の道路を南に下ると、ほどなく西方に小高くなった墓地を見る。コナベ古墳南側外堤から南方約二〇〇メートル、木取山古墳の後円部だ。前方部は平城京関連の造営で削平されたとみられる。墳長一一〇メートル、埴輪を備える中期前葉に築かれた中形前方後円墳(おっさん註)である。」(『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』pp.76~77)と述べています。
おっさん註 今尾さんは、同上書で墳長200mを超える「大形前方後円墳」、墳長70m前後~120m前後のものを「中形前方後円墳」と分類しています。おっさんは、このブログでは墳長60m以上の古墳を「大型古墳」としています。ただし、墳長57m以上の古墳もランキング古墳として取り上げています。
後円部中央。右側。左側跡。
前方部右側。左側跡。
前方部端跡付近。法華寺町1132付近。南から。
前方部南東端跡付近。法華寺町1133-1付近。南から。
やや全景。中央が後円部跡、左奥が前方部跡。北東から。
遠景。右が前方部跡、左が後円部跡。(仮)佐紀池之尻古墳から見る。西から。
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07:07
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2025年03月08日
補遺[38](仮称)佐紀池之尻古墳←(仮称)シリ古墳[佐紀古墳群東群] 奈良県奈良市 約200m
おっさんがこの古墳の存在を知ったのは、奈良市が2月6日にLINEで配信した「令和6年度春季発掘調査速報展」のチラシからでした。そのチラシには、「佐紀古墳群に未知の大型前方後円墳を発見!(仮称)シリ古墳」と見出しがあり、チラシの地図からその巨大さに驚きました。「いざ鎌倉」の思いを強くし、和歌山市の天王山古墳石室公開の前日に訪問しました。
この古墳は、コナベ古墳(ランキング33位)とほぼ同規模であり、その周濠から約100m南に後円部端、墓地と化した木取山古墳(ランキング219位)の約100m西にくびれ部東端が位置する消滅古墳です。後円部跡付近の道路は半円形にカーブし、くびれ部付近から中央付近にかけては少し傾斜がうかがえました。また、県道104号線南側の農地から段差がみられ、前方部端と周溝跡と思われました。
奈良市のHP.の「令和6年度春季発掘調査速報展」(更新日:2025年2月4日更新)中の「(仮称)佐紀池之尻古墳の調査」の項目で、「調査地は法華寺町で、発掘調査で検出した東西方向の溝は幅30m、長さ60m以上に及ぶ規模に復元され、底面近くからは古墳時代前期末の円筒埴輪・形象埴輪(盾形)、初期須恵器が出土しました。近隣で過去に行われた発掘調査成果や佐紀古墳群の航空レーザ測量成果を再検討した結果、墳丘長200mクラスの大型前方後円墳が存在していたことが明らかになりました。溝は奈良時代に埋められており、平城京の造営によって古墳が削平されたと考えられます。(以下略)」と記されています。
余談ですが、3月2日の奈良県エリアの新聞各紙にこの古墳の記事が掲載されていました。ただし、おっさんの住む愛知県エリアでは朝日新聞と日本経済新聞以外は該当する記事が見つけられませんでした。県下最大販売部数を誇る新聞や「旧石器捏造問題」をスクープした新聞は無視でした。「グスン」。
後円部西端付近。法華寺町1037付近。北東から。
後円部東端付近。法華寺町1072付近。北西から。
後円部東端付近から前方部方面。法華寺町988-5付近。北から。
くびれ部西端付近。法華寺町988-25付近。西から。
くびれ部東端付近。法華寺町989-1付近。東から。
前方部南西端付近。法華寺町935-2付近。南から。
前方部南東端付近。法華寺町1116付近。南から。
やや全景(右が後円部跡、左が前方部跡)。木取山古墳跡から見る。東から。
以上2025年3月撮影。
この古墳は、コナベ古墳(ランキング33位)とほぼ同規模であり、その周濠から約100m南に後円部端、墓地と化した木取山古墳(ランキング219位)の約100m西にくびれ部東端が位置する消滅古墳です。後円部跡付近の道路は半円形にカーブし、くびれ部付近から中央付近にかけては少し傾斜がうかがえました。また、県道104号線南側の農地から段差がみられ、前方部端と周溝跡と思われました。
奈良市のHP.の「令和6年度春季発掘調査速報展」(更新日:2025年2月4日更新)中の「(仮称)佐紀池之尻古墳の調査」の項目で、「調査地は法華寺町で、発掘調査で検出した東西方向の溝は幅30m、長さ60m以上に及ぶ規模に復元され、底面近くからは古墳時代前期末の円筒埴輪・形象埴輪(盾形)、初期須恵器が出土しました。近隣で過去に行われた発掘調査成果や佐紀古墳群の航空レーザ測量成果を再検討した結果、墳丘長200mクラスの大型前方後円墳が存在していたことが明らかになりました。溝は奈良時代に埋められており、平城京の造営によって古墳が削平されたと考えられます。(以下略)」と記されています。
余談ですが、3月2日の奈良県エリアの新聞各紙にこの古墳の記事が掲載されていました。ただし、おっさんの住む愛知県エリアでは朝日新聞と日本経済新聞以外は該当する記事が見つけられませんでした。県下最大販売部数を誇る新聞や「旧石器捏造問題」をスクープした新聞は無視でした。「グスン」。
後円部西端付近。法華寺町1037付近。北東から。
後円部東端付近。法華寺町1072付近。北西から。
後円部東端付近から前方部方面。法華寺町988-5付近。北から。
くびれ部西端付近。法華寺町988-25付近。西から。
くびれ部東端付近。法華寺町989-1付近。東から。
前方部南西端付近。法華寺町935-2付近。南から。
前方部南東端付近。法華寺町1116付近。南から。
やや全景(右が後円部跡、左が前方部跡)。木取山古墳跡から見る。東から。
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2025年03月06日
追加469 天王塚古墳[岩橋千塚古墳群和佐支群] 和歌山県和歌山市 88m
先日、天王塚古墳の墳丘公開及び横穴式石室の限定公開(抽選により80人限定)があり、運よく当選することができたので訪問しました。
当日配布された、和歌山県立紀伊風土記の丘による「令和6年度古墳公開資料(天王塚古墳石室&墳丘公開) 令和7年3月2日(日)」では次のように記されていました。
「天王塚古墳は、6世紀中頃に築造された和歌山県内最大規模の前方後円墳(墳長約88m)で、首長墓の一つとみられています。岩橋山塊の最高所となる標高155mの天王塚山山頂に位置し、眼下に和歌山平野や紀の川をみることができます。」
「後円部に設置された南側に開口部をもつ横穴式石室は、結晶片岩の割石を用いて構築され、垂直石梁8本と石棚2枚を持つ岩橋型横穴式石室です。 石室は全長11.35m、天井までの高さ5.9mで、熊本県の大野窟古墳の横穴式石室(高さ6.48m)に続く、国内で2番目の高さをもつ横穴式石室として知られています。」
この古墳は、自分にとって因縁深い超発見困難古墳でした。数回のチャレンジ失敗を経て、2013年3月に初めて藪だらけの絵を撮ることができ、2015年10月に開催された現地説明会でようやく墳丘の様子がわかる絵が撮れました。(詳細は、2018年5月17日のブログ「469 天王塚古墳」で紹介)
また、「54年ぶりの石室公開」として話題になった、7年前の石室公開にも参加することができ(2018年3月6日のブログ「1番があれば2番がある 天王塚古墳の石室」で紹介)、今回で2度目の石室体験となりました。現在、墳丘の復元整備も北側部分がほぼ完了し、石室入口のある南側部分が今後の整備区域だと思われます。そして、前回は尾根上の小道を歩きましたが、今回は舗装道路ができており、前方部の西側にあった円形のタンク(給水タンク?)の跡地には、関係者の軽自動車が駐車してありました。10年以上前からは、想像できない光景でした。
余談ですが、墳丘・石室公開は午後からだったので、午前中、大阪府岬町の西陵古墳(ランキング29位)や和歌山市の大谷古墳(ランキング778位)などを訪問しました。偶然同じ場所で、石室公開当選者の方とお会いしました。石室見学時間も自分の次の回ということで、天王塚古墳のある「紀伊風土記の丘」でも再会し、大野窟古墳(ランキング[139]位)などの話ができ、初対面ながら旧知の友人と出会った気分でした。ただし、せっかちな自分は、大日山35号墳や将軍塚・知事塚古墳などを先に見学してから天王塚古墳に向かったので、大量の汗をかいてヘトヘトになりながら山道を進み、集合時間ギリギリ(少し遅れた?)になってしまいました。「古墳訪問は計画的に だらー」。
後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。


玄室入口(前壁)。
玄室の石梁。

玄室の石棚の一部。
玄室の死床の板石。
玄室の排水溝。
墳頂から市街地を望む。
古墳に至る舗装道路。
以上2025年3月撮影。
当日配布された、和歌山県立紀伊風土記の丘による「令和6年度古墳公開資料(天王塚古墳石室&墳丘公開) 令和7年3月2日(日)」では次のように記されていました。
「天王塚古墳は、6世紀中頃に築造された和歌山県内最大規模の前方後円墳(墳長約88m)で、首長墓の一つとみられています。岩橋山塊の最高所となる標高155mの天王塚山山頂に位置し、眼下に和歌山平野や紀の川をみることができます。」
「後円部に設置された南側に開口部をもつ横穴式石室は、結晶片岩の割石を用いて構築され、垂直石梁8本と石棚2枚を持つ岩橋型横穴式石室です。 石室は全長11.35m、天井までの高さ5.9mで、熊本県の大野窟古墳の横穴式石室(高さ6.48m)に続く、国内で2番目の高さをもつ横穴式石室として知られています。」
この古墳は、自分にとって因縁深い超発見困難古墳でした。数回のチャレンジ失敗を経て、2013年3月に初めて藪だらけの絵を撮ることができ、2015年10月に開催された現地説明会でようやく墳丘の様子がわかる絵が撮れました。(詳細は、2018年5月17日のブログ「469 天王塚古墳」で紹介)
また、「54年ぶりの石室公開」として話題になった、7年前の石室公開にも参加することができ(2018年3月6日のブログ「1番があれば2番がある 天王塚古墳の石室」で紹介)、今回で2度目の石室体験となりました。現在、墳丘の復元整備も北側部分がほぼ完了し、石室入口のある南側部分が今後の整備区域だと思われます。そして、前回は尾根上の小道を歩きましたが、今回は舗装道路ができており、前方部の西側にあった円形のタンク(給水タンク?)の跡地には、関係者の軽自動車が駐車してありました。10年以上前からは、想像できない光景でした。
余談ですが、墳丘・石室公開は午後からだったので、午前中、大阪府岬町の西陵古墳(ランキング29位)や和歌山市の大谷古墳(ランキング778位)などを訪問しました。偶然同じ場所で、石室公開当選者の方とお会いしました。石室見学時間も自分の次の回ということで、天王塚古墳のある「紀伊風土記の丘」でも再会し、大野窟古墳(ランキング[139]位)などの話ができ、初対面ながら旧知の友人と出会った気分でした。ただし、せっかちな自分は、大日山35号墳や将軍塚・知事塚古墳などを先に見学してから天王塚古墳に向かったので、大量の汗をかいてヘトヘトになりながら山道を進み、集合時間ギリギリ(少し遅れた?)になってしまいました。「古墳訪問は計画的に だらー」。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
玄室入口(前壁)。
玄室の石梁。
玄室の石棚の一部。
玄室の死床の板石。
玄室の排水溝。
墳頂から市街地を望む。
古墳に至る舗装道路。
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07:07
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2025年03月06日
お知らせ
「番外 福井県の古墳」の途中ですが、先日和歌山県や奈良県の大型古墳を訪問したので、そちらを紹介します。ご了承ください。
Posted by じこま at
07:06
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2025年03月04日
番外 福井県の古墳⑥ー2 御茸山31号墳[御茸山古墳群] 福井市 円墳 径約30m
2018年9月6日のブログ御茸山41号墳(ランキング800位)の「おまけ」として掲載していなかった、比較的小規模な円墳を紹介します。
下記の表示板では、「31号墳(円墳) 直径約30m」と記されています。
この古墳は、「御茸山古墳群」を構成する一基として、福井県の史跡に指定されています。
表示板。
位置図。
標柱。
ほぼ全景。
やや全景。
以上2014年5月撮影。
下記の表示板では、「31号墳(円墳) 直径約30m」と記されています。
この古墳は、「御茸山古墳群」を構成する一基として、福井県の史跡に指定されています。
表示板。
位置図。
標柱。
ほぼ全景。
やや全景。
Posted by じこま at
07:07
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2025年03月02日
番外 福井県の古墳⑥ー1 御茸山(みたけやま)44号墳[御茸山古墳群] 福井市 前方後方墳 約43m
この古墳は、御茸山41号墳(ランキング800位)の「おまけ」として絵のみ掲載していました。その絵は草木が繫茂して、墳丘上の様子がよく分からないものでした。そのため、5年後に再訪して撮った絵を掲載します。
HP.「福井の文化財」の「御茸山古墳群」の項目で、「一乗谷朝倉氏遺跡の西部山地、南北に延びる尾根上に存在する総数155基余からなる古墳群で、県有林内にある73基を県指定史跡としている。 古墳群は、丘陵先端部・山頂部・西麓部の3支群からなり、前方後円墳(41号墳:全長約70m、66号墳:全長約45m)・前方後方墳(44号墳:全長約43m)・円墳(62号墳:全長約42mなど)・方墳で構成されている。本古墳群は、古墳の分布状況から東郷地区一帯を基盤とした集団の造営と考えられる。また、本古墳群と足羽川を挟んだ対岸の酒生古墳群(総数300基余)とあわせて、越前平野でも中核的な古墳群と考えられる。」と記されています。
「御茸山古墳群」を構成する一基として、福井県の史跡に指定されています。
余談ですが、2019年7月10日のブログ「追加800 御茸山41号墳」でも書きましたが、酒生古墳群の訪問で山中を彷徨い疲弊したので、再訪時の御茸山古墳群は41号墳とこの44号墳の絵しかありません。
福井市の説明板。その一部分拡大。

標識。
後方部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

後方部墳頂。
前方部から後方部。
以上2019年3月撮影。
HP.「福井の文化財」の「御茸山古墳群」の項目で、「一乗谷朝倉氏遺跡の西部山地、南北に延びる尾根上に存在する総数155基余からなる古墳群で、県有林内にある73基を県指定史跡としている。 古墳群は、丘陵先端部・山頂部・西麓部の3支群からなり、前方後円墳(41号墳:全長約70m、66号墳:全長約45m)・前方後方墳(44号墳:全長約43m)・円墳(62号墳:全長約42mなど)・方墳で構成されている。本古墳群は、古墳の分布状況から東郷地区一帯を基盤とした集団の造営と考えられる。また、本古墳群と足羽川を挟んだ対岸の酒生古墳群(総数300基余)とあわせて、越前平野でも中核的な古墳群と考えられる。」と記されています。
「御茸山古墳群」を構成する一基として、福井県の史跡に指定されています。
余談ですが、2019年7月10日のブログ「追加800 御茸山41号墳」でも書きましたが、酒生古墳群の訪問で山中を彷徨い疲弊したので、再訪時の御茸山古墳群は41号墳とこの44号墳の絵しかありません。
福井市の説明板。その一部分拡大。
標識。
後方部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
後方部墳頂。
前方部から後方部。
Posted by じこま at
07:07
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