2025年05月23日
番外 富山県の「古墳」⑥ 向野塚墳墓 富山市 前方後方形墳丘墓 25m
前回の六治古塚墳墓と同じく、この向野塚墳墓も古墳ではなく弥生時代終末期の墳丘墓なので、タイトルを「富山県の「古墳」」としました。
この墳丘墓は、後方部は高まりが見られますが、前方部はおっさんの眼力ではよくわからず、前方後方形を確認できませんでした。墳丘墓のある畑地で作業していた人の許可を得て、絵を撮りました。
富山市のHP.の「史跡 王塚・千坊山遺跡群」の「向野塚墳墓」の項目で、「標高52mの河岸段丘に立地し、六治古塚墳墓の110m北東に位置します。 弥生時代終末期に築かれた前方後方形墳丘墓です。 全長25.2m、前方部は長さ10.2m、幅8.1m、後方部は長さ15.0m、幅16.5m、頂部の高さ1.7m、くびれ部幅5.1mです。前方部は未発達で、墳丘周囲には溝がめぐらされています。 墳頂部中央には、1.7m×3.5m以上の長方形の墓坑が確認されましたが、内部は未調査です。 墳墓からは、壺、甕、蓋などの土器が、墳頂部やくびれ部を中心として出土しました。 首長墓の墳丘形態が、四隅突出型墳丘墓から前方後方墳へと移り変わっていく過渡期に築かれた墳墓です。 270m北東にある千坊山遺跡に居住した、この地域の首長の墓と推測されます。」と記されています。
この墳丘墓は、「王塚・千坊山遺跡群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
余談ですが、前方後方墳の祖型が前方後方形墳丘墓です。弥生時代の方形周溝墓(方形の墳丘墓)の一角が墓道として残され、その部分が発達して前方後方形墳丘墓になったと考えられています。同様に、四隅突出型墳丘墓はその四隅が、前方後円形墳丘墓は円形の墳丘墓の一角が墓道として発達したと考えた方が合理的な解釈だと思います。下垣仁志さんも、「結論的にいうと、弥生時代の墳丘墓において、周溝の一部を掘り残して墳丘本体への通路とした陸橋が前方部の起源であり、この陸橋=墓道が過剰発達した帰結が前方部であることが、現在ではおおむね定説になっている。」(『前方後円墳』p.20)と述べています。
余談の余談ですが、前方後円墳の墳形を宮車や壺・蓬莱山などを模倣したとする説は、己の知識をひけらかすソフィストの謬説だと、おっさんは思います。
ただし、青木敬さんは、「弥生墳丘墓から巨大前方後円墳の出現は、一系的に考えてよいのだろうか?」と「はじめに」で疑問を呈し、具体的に「曹魏の皇帝陵 曹操髙陵(220年)→曹休墓(228年)→西朱村1号墓(232年?)→正始八年墓(247年)≒巨大前方後円墳の出現期」と例示して、「巨大前方後円墳の成立は、中国など他地域のインパクトなしに考えることが難しい。邪馬台国~倭王権の対外関係。」と「まとめ」で述べています。(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館主催の第2回研究講座[2025年5月11日実施]レジュメ、「墳丘からみた巨大前方後円墳の出現と桜井茶臼山古墳」より抜粋) おっさんは、箸墓古墳や桜井茶臼山古墳などの巨大前方後円墳の築造技術については大陸の国々の影響を無視できないと思いますが、当時の倭人が外来の文物を巨大化してしまう志向性があると妄想しています。例えば、馬鐸→突線鈕4・5式銅鐸・手鏡→倭製の内行花文鏡・青銅製武器→武器形祭器のように・・・。「大きいことはいいことだ~♬ ダラー」。
富山県教委・富山市教委の説明板。
ほぼ全景。手前が前方部、奥が後方部。
ほぼ全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
以上2025年4月撮影。
この墳丘墓は、後方部は高まりが見られますが、前方部はおっさんの眼力ではよくわからず、前方後方形を確認できませんでした。墳丘墓のある畑地で作業していた人の許可を得て、絵を撮りました。
富山市のHP.の「史跡 王塚・千坊山遺跡群」の「向野塚墳墓」の項目で、「標高52mの河岸段丘に立地し、六治古塚墳墓の110m北東に位置します。 弥生時代終末期に築かれた前方後方形墳丘墓です。 全長25.2m、前方部は長さ10.2m、幅8.1m、後方部は長さ15.0m、幅16.5m、頂部の高さ1.7m、くびれ部幅5.1mです。前方部は未発達で、墳丘周囲には溝がめぐらされています。 墳頂部中央には、1.7m×3.5m以上の長方形の墓坑が確認されましたが、内部は未調査です。 墳墓からは、壺、甕、蓋などの土器が、墳頂部やくびれ部を中心として出土しました。 首長墓の墳丘形態が、四隅突出型墳丘墓から前方後方墳へと移り変わっていく過渡期に築かれた墳墓です。 270m北東にある千坊山遺跡に居住した、この地域の首長の墓と推測されます。」と記されています。
この墳丘墓は、「王塚・千坊山遺跡群」を構成する一基として、国の史跡に指定されています。
余談ですが、前方後方墳の祖型が前方後方形墳丘墓です。弥生時代の方形周溝墓(方形の墳丘墓)の一角が墓道として残され、その部分が発達して前方後方形墳丘墓になったと考えられています。同様に、四隅突出型墳丘墓はその四隅が、前方後円形墳丘墓は円形の墳丘墓の一角が墓道として発達したと考えた方が合理的な解釈だと思います。下垣仁志さんも、「結論的にいうと、弥生時代の墳丘墓において、周溝の一部を掘り残して墳丘本体への通路とした陸橋が前方部の起源であり、この陸橋=墓道が過剰発達した帰結が前方部であることが、現在ではおおむね定説になっている。」(『前方後円墳』p.20)と述べています。
余談の余談ですが、前方後円墳の墳形を宮車や壺・蓬莱山などを模倣したとする説は、己の知識をひけらかすソフィストの謬説だと、おっさんは思います。
ただし、青木敬さんは、「弥生墳丘墓から巨大前方後円墳の出現は、一系的に考えてよいのだろうか?」と「はじめに」で疑問を呈し、具体的に「曹魏の皇帝陵 曹操髙陵(220年)→曹休墓(228年)→西朱村1号墓(232年?)→正始八年墓(247年)≒巨大前方後円墳の出現期」と例示して、「巨大前方後円墳の成立は、中国など他地域のインパクトなしに考えることが難しい。邪馬台国~倭王権の対外関係。」と「まとめ」で述べています。(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館主催の第2回研究講座[2025年5月11日実施]レジュメ、「墳丘からみた巨大前方後円墳の出現と桜井茶臼山古墳」より抜粋) おっさんは、箸墓古墳や桜井茶臼山古墳などの巨大前方後円墳の築造技術については大陸の国々の影響を無視できないと思いますが、当時の倭人が外来の文物を巨大化してしまう志向性があると妄想しています。例えば、馬鐸→突線鈕4・5式銅鐸・手鏡→倭製の内行花文鏡・青銅製武器→武器形祭器のように・・・。「大きいことはいいことだ~♬ ダラー」。
富山県教委・富山市教委の説明板。
ほぼ全景。手前が前方部、奥が後方部。
ほぼ全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
Posted by じこま at 07:07│Comments(0)