2021年06月17日

番外 岡田山1号墳 島根県松江市 前方後方墳 24(22)m

 「八雲立つ風土記の丘公園」内にある前方後方墳です。下記のように、銘文のある大刀の出土で知られています。
 松江市のHP.の「出雲岡田山古墳出土品」の項目で、「岡田山1号墳から大正4(1915)年に出土した武具類、馬具類、須恵器、その他多数の副葬品。なかでも円頭大刀は「額田部臣(ぬかたべおみ)」の銀象嵌銘文を有し、古代の部民制や氏姓制度を解明するうえで貴重な資料です。」と記されています。
 島根県教育委員会が発行した報告書『出雲岡田山古墳』では、「岡田山1号墳の墳丘は、築造時の全長約24m、後方部幅約14m、前方部幅約14m、前方部先端幅約14mを測り、その前部に長さ約23m、幅28~29m、高さ約1.6mのいびつな長方形を呈するテラス状の造り出しを備えた特異な形態をもつ三段築成の前方後方墳である。この古墳の造り出し部には盛土は見られず、地山を整形したのみの構造であり、また墳丘部の下段も基本的には地山によるものである。(中略)つまり、この古墳は三段築成とはいっても、先端にテラス状の部分を備えた長方形の地山の上に二段築成の前方後方墳を載せたものであるとみることもでき、造り出し部を含めて約47mの規模をもつ古墳としては、その割に労力を節約して築造されたものであるということができよう。」(pp.37~38)と述べています。 
 ただし、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「岡田山1号墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後方 築成:前方部2段、後円(ママ)部:2段 墳長:21.5m 後円(ママ)部:径(ママ)11.5m 高3m 前方部:幅11.5m 長10m 高2.5m 特記事項【造出】なし。【周濠】なし。【その他】整備・保存。国史跡(岡田山古墳)。出土品が国文化財(出雲岡田山古墳出土品)」と記されています。報告書の図面からも一般的な「造り出し」とは思えないので、ここでは墳丘長(全長)を「造り出し」部分を含めないものとして考えていきます。
 上記データベースの記述にあるように、この1号墳は、2号墳とともに「岡田山古墳」という名称で国の史跡に、出土品は国の重要文化財に指定されています。

 前項まで掲載した出雲西部の「松本古墳群」に属する前方後方墳や神原神社古墳は、古墳時代前期に築造された古墳でした。ところが、出雲東部に築造された前方後方墳の多くは、山代二子塚古墳(ランキング370位)に代表されるように、中期末から後期にかけて築造されています。この岡田山1号墳も後期後半に築造されたと考えられています。他の地域では、中期以降ほとんど前方後方墳が築造されなくなるのと対照的です。また、このエリアでは前期から後期にかけて規模の大きな方墳が築造され、前方後円墳よりも方墳が優越する傾向がみられます。
 おっさんは、『記紀』や『風土記』などに記された出雲神話の意味するところはよくわかりません。しかし、上記の例や四隅突出型墳丘墓の存在、また弥生時代の加茂岩倉遺跡や神庭荒神谷遺跡で発見された大量の銅鐸や銅剣などの青銅製祭器や「神在月」伝承など、この出雲地域の「葬送形態」や「神まつり」の独自性・特殊性を否定することはできません。
 余談ですが、近江俊秀さんは、『境界の日本史』の「図2-1-2 方言の区分」で、北海道を除く日本列島の方言エリアを14の地域に区分し、その一つに「雲伯地方」(おっさん註 島根県西部から鳥取県東部)を挙げています(森先一貴・近江俊秀著『境界の日本史』p.138)。出雲地域と伯耆地域では、古墳の築造様式は全く異なっていますが、四隅突出型墳丘墓の築造エリアと重複します。ヤマト王権によって分断されたエリアという妄想が湧いてしまいましたが、鼻で笑われそうなので、ここまで。


 説明板。


 石室の説明板。

 石室入口。内部。

 閉塞石。その説明板。


 後方部端全景。


 2つで全景。後方部。左が後方部、右が前方部。


 ほぼ全景。右が前方部、左が後方部。
              以上2010年7月撮影。  


Posted by じこま at 08:08Comments(0)