2023年12月26日
番外 静岡県の古墳㉔ー1 東谷8号墳[二本ケ谷積石塚群] 浜松市(旧浜北市) 不定形 6×7?m
この二本ケ谷積石塚群は、「つみいしづか広場」に再現・保存されています。ただ、長野県長野市の大室古墳群(2023年7月27日~8月22日のブログで紹介)の積石塚とは異なり、墳丘の盛土(というか盛石)の高まりがほとんどない特徴があります。
静岡県のHP.の「しずおか文化財ナビ 二本ケ谷積石塚群」の項目で、「【指定資料】 二本ヶ谷積石塚群は、三方原台地東縁部に形成された谷の中に立地する。これまでの調査で28基の積石塚が確認されているが、現存しているのは8基である。今回そのうちの6基を指定する。積石塚は、渡来系の集団によって営まれたものと推定されており、本遺跡は出土品等からその多くが5世紀中葉頃に築かれたものと考えられる。 本遺跡は積石塚によって構成された県内唯一の古墳群であり、三方原台地における古墳時代の地域社会の実態や渡来系集団の動向を知る上できわめて重要な遺跡である。」と記されています。
また、鈴木一有さんは、「浜松市二本ケ谷積石塚群は、谷地形の空間に築かれ、方形墳を中心として石を低く積むことを特徴とする。築造時期の中心は、中期後葉(7期)から中期末葉(8期)である。二本ケ谷積石塚群の埋葬施設には積石木槨状のものがあり、被葬者の出自を伝えている。二本ケ谷積石塚群に見る特徴は在来の墓制のなかに系譜がみられないことから、朝鮮半島系の渡来人が葬られている可能性が高い。」(「六東海 【東海東部】」pp.347~348、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)と述べています。
下記の8号墳の説明板では、「残り具合が極めて悪く、墳丘や埋葬施設の形態は不明です。」、「この積石塚は、発掘調査で検出された状態を見学用に再現したもので、実際の積石塚は直下に保存されています。」と記されています。
ただし、「表1 二本ケ谷積石塚群の詳細」では、「古墳名 二本ケ谷東谷8号、墳形 不定形、規模(m) 約6.0×7.0?(以下略)」(鈴木一有「2 遠江」p.150、土生田純之編『積石塚大全』所収)と記されています。ここでは、後者「表1」のデータを参考にしました。
「二本ケ谷積石塚群」を構成する一基として、静岡県の史跡に指定されています。
説明板の一部。
8号墳の説明板。
再現ほぼ全景。
再現全景。
以上2011年11月撮影。
静岡県のHP.の「しずおか文化財ナビ 二本ケ谷積石塚群」の項目で、「【指定資料】 二本ヶ谷積石塚群は、三方原台地東縁部に形成された谷の中に立地する。これまでの調査で28基の積石塚が確認されているが、現存しているのは8基である。今回そのうちの6基を指定する。積石塚は、渡来系の集団によって営まれたものと推定されており、本遺跡は出土品等からその多くが5世紀中葉頃に築かれたものと考えられる。 本遺跡は積石塚によって構成された県内唯一の古墳群であり、三方原台地における古墳時代の地域社会の実態や渡来系集団の動向を知る上できわめて重要な遺跡である。」と記されています。
また、鈴木一有さんは、「浜松市二本ケ谷積石塚群は、谷地形の空間に築かれ、方形墳を中心として石を低く積むことを特徴とする。築造時期の中心は、中期後葉(7期)から中期末葉(8期)である。二本ケ谷積石塚群の埋葬施設には積石木槨状のものがあり、被葬者の出自を伝えている。二本ケ谷積石塚群に見る特徴は在来の墓制のなかに系譜がみられないことから、朝鮮半島系の渡来人が葬られている可能性が高い。」(「六東海 【東海東部】」pp.347~348、広瀬和雄・和田晴吾編『講座 日本の考古学7 古墳時代上』所収)と述べています。
下記の8号墳の説明板では、「残り具合が極めて悪く、墳丘や埋葬施設の形態は不明です。」、「この積石塚は、発掘調査で検出された状態を見学用に再現したもので、実際の積石塚は直下に保存されています。」と記されています。
ただし、「表1 二本ケ谷積石塚群の詳細」では、「古墳名 二本ケ谷東谷8号、墳形 不定形、規模(m) 約6.0×7.0?(以下略)」(鈴木一有「2 遠江」p.150、土生田純之編『積石塚大全』所収)と記されています。ここでは、後者「表1」のデータを参考にしました。
「二本ケ谷積石塚群」を構成する一基として、静岡県の史跡に指定されています。
説明板の一部。
8号墳の説明板。
再現ほぼ全景。
再現全景。
Posted by じこま at
07:07
│Comments(0)