2024年03月15日
番外 愛知県の古墳⑥ 寺西1号墳 豊橋市 円墳 径25~30m
古墳は、台地の西端に立地し、約1km北東の丘陵地には北長尾8号墳や向山1号墳が築造されています。ただし、1965年の堤防用の土取り工事にともなう発掘調査後に消失しています。現在、跡地付近は果樹園(柿木畑)となっています。
2023年3月、愛知大学文学部歴史地理学科発行の『豊橋市寺西1号墳の研究(1) 報告編』によると、「平面形はわずかに楕円形を呈した2段築成の精美な形状で、墳丘上には付近で産出される石材を用いた2段からなる葺石および石列が存在した。楕円形を呈した円墳で、直径は25m~30m、高さ約4.0mを測る、東三河地方の後期古墳としては大型の古墳である。」(p.12)と述べられています。
また、横穴式石室が未盗掘で完存していたこの古墳からは、豊富な副葬品(特に刀身と鍔に銀象嵌を持つ大刀・鳥形のつまみがついた蓋を持つ脚付壺)が出土しています。
そのため、岩原剛さんは、「寺西一号墳が築かれた時期は、出土した須恵器から後期後葉、六世紀後葉と考えられる。葬られた人物(被葬者)は、豊橋市北部地域を代表する首長の一人であったといえるだろう。また豊富な鉄製武器類や実用的な鉄製馬具から、被葬者の武人としてのこだわりを見て取ることができる。」(『東三河の古墳』p.48)と指摘しています。
余談ですが、鳥形装飾須恵器は尾張・三河・美濃エリアを中心に出土しています。初期の鳥形装飾須恵器の分布状況から、赤塚次郎さんは、「・「鈴鏡」「鳥紐」「尾張型埴輪」の分布からは草香(おっさん註 名古屋市の断夫山古墳の被葬者と考えられている尾張連草香)の意図が見えてくる。すなわち重視した「中濃」「揖斐川水系」ルート、これはヲホド王擁立に至る北陸との文化路整備を前提として評価できよう。」と述べています。(「尾張連草香の文化遺跡群 鳥のデザイン・塩作り・焼物産業・東の海道とアユチ潟」、しだみゅー歴史セミナー 資料集『尾張連草香の國』所収、2024年3月10日開催)
跡地付近。東から。
跡地付近。北から。
跡地付近。東から。
以上2024年2月撮影。
2023年3月、愛知大学文学部歴史地理学科発行の『豊橋市寺西1号墳の研究(1) 報告編』によると、「平面形はわずかに楕円形を呈した2段築成の精美な形状で、墳丘上には付近で産出される石材を用いた2段からなる葺石および石列が存在した。楕円形を呈した円墳で、直径は25m~30m、高さ約4.0mを測る、東三河地方の後期古墳としては大型の古墳である。」(p.12)と述べられています。
また、横穴式石室が未盗掘で完存していたこの古墳からは、豊富な副葬品(特に刀身と鍔に銀象嵌を持つ大刀・鳥形のつまみがついた蓋を持つ脚付壺)が出土しています。
そのため、岩原剛さんは、「寺西一号墳が築かれた時期は、出土した須恵器から後期後葉、六世紀後葉と考えられる。葬られた人物(被葬者)は、豊橋市北部地域を代表する首長の一人であったといえるだろう。また豊富な鉄製武器類や実用的な鉄製馬具から、被葬者の武人としてのこだわりを見て取ることができる。」(『東三河の古墳』p.48)と指摘しています。
余談ですが、鳥形装飾須恵器は尾張・三河・美濃エリアを中心に出土しています。初期の鳥形装飾須恵器の分布状況から、赤塚次郎さんは、「・「鈴鏡」「鳥紐」「尾張型埴輪」の分布からは草香(おっさん註 名古屋市の断夫山古墳の被葬者と考えられている尾張連草香)の意図が見えてくる。すなわち重視した「中濃」「揖斐川水系」ルート、これはヲホド王擁立に至る北陸との文化路整備を前提として評価できよう。」と述べています。(「尾張連草香の文化遺跡群 鳥のデザイン・塩作り・焼物産業・東の海道とアユチ潟」、しだみゅー歴史セミナー 資料集『尾張連草香の國』所収、2024年3月10日開催)
跡地付近。東から。
跡地付近。北から。
跡地付近。東から。
Posted by じこま at
07:07
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