2024年03月19日
番外 愛知県の古墳⑧ 磯辺王塚古墳 豊橋市 円墳(前方後円墳の可能性) 径約25m
消滅古墳です。跡地付近は住宅地となっており、その一画に標柱と説明板が立てられています。
築造当時、三河湾を望む柳生川の河口付近の段丘端に立地していました。跡地付近には王ケ崎貝塚があり、約250m北東の神明社境内には小浜貝塚の標柱が立てられています。柳生川をはさんで、約1km北西に市杵嶋神社古墳や牟呂大塚古墳があります。
『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「遺跡一覧表」では、「古墳名 磯部王塚古墳 、所在地 同 王ケ崎町、墳形・規模・主な副葬品 円墳(径約25m)後略」(p.797)と記されています。
ただし、岩原剛さんは、同上書の「242 磯部王塚古墳」の中で、「発掘調査によって周溝の一部が確認され、現状では直径20~25mの円墳と想定されているが、前後する同一系譜上にある首長墳はともに前方後円墳であることから、本墳も前方後円墳であった可能性がある。」(p.697)と述べています。そのため、タイトルでは「円墳(前方後円墳の可能性) 径約25m」としました。
古墳は、幕末から現在まで少なくとも4回の発掘が行われており、4種類の飾大刀や金銅装馬具、玉類(銀製空玉・ガラス製トンボ玉など)をはじめとする豪華な副葬品が出土しています。
岩原さんは、同上書で、「本墳は、渥美湾沿岸部(市域の三河湾沿岸)における首長墳系列を構成するものである。本墳の被葬者は、柳生川の河口部を主要な交通・経済基盤である港湾として活用した、旧渥美郡域のトップクラスの人物と推定される。」(p.698)と述べています。
余談ですが、この古墳の所在地名「王ケ崎町王郷」からも、古墳の被葬者がこの地域を代表する有力者であったと想定できると思いました。
標柱。王ケ崎町王郷14付近。
豊橋市教委の説明板。
跡地付近。
跡地付近。
神明社境内の小浜貝塚。
標柱。標柱(裏面)。

神明社。
以上2022年11月撮影。
築造当時、三河湾を望む柳生川の河口付近の段丘端に立地していました。跡地付近には王ケ崎貝塚があり、約250m北東の神明社境内には小浜貝塚の標柱が立てられています。柳生川をはさんで、約1km北西に市杵嶋神社古墳や牟呂大塚古墳があります。
『愛知県史 資料編3 考古3古墳』の「遺跡一覧表」では、「古墳名 磯部王塚古墳 、所在地 同 王ケ崎町、墳形・規模・主な副葬品 円墳(径約25m)後略」(p.797)と記されています。
ただし、岩原剛さんは、同上書の「242 磯部王塚古墳」の中で、「発掘調査によって周溝の一部が確認され、現状では直径20~25mの円墳と想定されているが、前後する同一系譜上にある首長墳はともに前方後円墳であることから、本墳も前方後円墳であった可能性がある。」(p.697)と述べています。そのため、タイトルでは「円墳(前方後円墳の可能性) 径約25m」としました。
古墳は、幕末から現在まで少なくとも4回の発掘が行われており、4種類の飾大刀や金銅装馬具、玉類(銀製空玉・ガラス製トンボ玉など)をはじめとする豪華な副葬品が出土しています。
岩原さんは、同上書で、「本墳は、渥美湾沿岸部(市域の三河湾沿岸)における首長墳系列を構成するものである。本墳の被葬者は、柳生川の河口部を主要な交通・経済基盤である港湾として活用した、旧渥美郡域のトップクラスの人物と推定される。」(p.698)と述べています。
余談ですが、この古墳の所在地名「王ケ崎町王郷」からも、古墳の被葬者がこの地域を代表する有力者であったと想定できると思いました。
標柱。王ケ崎町王郷14付近。
豊橋市教委の説明板。
跡地付近。
跡地付近。
神明社境内の小浜貝塚。
標柱。標柱(裏面)。
神明社。
Posted by じこま at
07:07
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