2018年07月08日
635 山田高塚古墳 大阪府太子町 方墳 辺75(59×55)m
宮内庁は、推古天皇の「磯長山田陵」及び敏達天皇皇子の「竹田皇子墓」として合葬陵墓に治定しています。多くの研究者もこの古墳の被葬者を推古大王(天皇)と考えています。白石太一郎さんも、「六世紀末葉における前方後円墳の造営停止は、当然大王墓にも及んだ。六世紀末葉の大王墓の実態は不明なところが多いが、七世紀前半の方墳と推定される大阪府太子町山田高塚古墳が推古の墓である可能性は大きい。」(『古墳とヤマト政権』p.191)と述べています。
太子町のHP.の「推古天皇陵」の項目で、「現在、推古天皇陵と伝えられる御陵は、太子町山田の南端にある東西59メートル、南北55メートルの大方墳です。」と記されています。この太子町は、6世紀末から7世紀初頭以降に築造された大王クラスの終末期古墳が多数みられる地域です。約500m西に、前項の葉室塚古墳(ランキング634位)、約200m南東に二子塚古墳があります。
再訪時は、拝所の工事らしく、墳丘近くまで立ち入れませんでした。
石柱。立札(制札)。

3つで全景。左側。中央。右側。


全景。南東から。
以上2010年3月撮影。
石柱。
全景。南西から。
全景。南東の二子塚古墳より。
以上2014年1月撮影。
太子町のHP.の「推古天皇陵」の項目で、「現在、推古天皇陵と伝えられる御陵は、太子町山田の南端にある東西59メートル、南北55メートルの大方墳です。」と記されています。この太子町は、6世紀末から7世紀初頭以降に築造された大王クラスの終末期古墳が多数みられる地域です。約500m西に、前項の葉室塚古墳(ランキング634位)、約200m南東に二子塚古墳があります。
再訪時は、拝所の工事らしく、墳丘近くまで立ち入れませんでした。
石柱。立札(制札)。


3つで全景。左側。中央。右側。



全景。南東から。

石柱。
全景。南西から。
全景。南東の二子塚古墳より。
Posted by じこま at 13:05│Comments(0)