2020年06月06日
番外 梶山古墳のおまけ 広峯15号墳 京都府福知山市 40m
前回の梶山古墳の項目で書きましたが、脱線ついでに偶然見つけた復元広峯15号墳を紹介します。古墳見学を終え、JR.福知山駅の南、国道9号線沿いのカプセルホテルに宿泊しようとしましたが、一本道を間違えてしまいUターンしようとした所に「広峯古墳記念公園」がありました。確か、邪馬台国の所在地論争に関心があった時だけに、偶然の一致にビックリしました。また、日没近くだったので、焦りながら絵を撮った記憶があります。
下記のように、15号墳は消滅古墳ですが、「広峯古墳記念公園」内に墳丘は3/4、埋葬施設は2/5のスケールで復元されています。
この古墳を一躍有名にしたのは、一面の銅鏡の存在でした。銅鏡の銘「景初四年」は実際には存在しない年号であり、「景初三年」は卑弥呼が魏の皇帝に使者を送り「銅鏡百枚」などを下賜された年で、邪馬台国論争に一石を投じた古墳です。銅鏡をはじめとする出土品は、国の重要文化財に指定されています。
福知山市のHP.の「広峯十五墳出土品」の項目で、「広峯(ひろみね)15号墳は、福知山駅の南、市街地を一望のもとに見渡すことのできる丘陵上に立地していた古墳で、昭和61年(1986)に、区画整理事業に伴い発掘調査が実施された。広峯古墳群は、古墳時代初頭に築造が始まり、中期にまで造墓活動が続き、南から伸びる樹枝状丘陵の狭小な稜線上に連綿と古墳が築かれていた。 広峯15号墳は、古墳群の盟主と目され、丘陵前面の最高所を占めて築造されていた。後円部の約2分の1と前方部の側面が失われていたが、全長40m、後円部径25mの前方後円墳に復元されるものであった。墳丘は、盛土を用いず地山の削り出しによって形成され、段築(だんちく)・埴輪(はにわ)・葺石(ふきいし)など外表施設はもたない。(中略) 盤龍鏡は、面径16.8cm、(中略)銘帯には、「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之母子宜孫寿如金石兮」の35文字の銘文が鋳出されている。なお、景初四年は魏の年号で、西暦240年にあたる。 現在までに日本で500面以上の鏡が出土しているが、紀年銘鏡は8種11面にすぎない。出土状況の明らかな本例は、我が国の紀年銘鏡の様相や対大陸交渉をはじめとした古墳時代の社会の実態を解明する上で、その学術的価値は極めて高い。」と記されています。
福知山市教委の説明板。4つで全体。



復元後円部。
復元前方部。
復元後円部墳頂。
2つで全景(横から)。左が復元前方部。右が復元後円部。

ほぼ全景。手前が復元前方部、右奥が復元後円部。
以上2009年6月撮影。
下記のように、15号墳は消滅古墳ですが、「広峯古墳記念公園」内に墳丘は3/4、埋葬施設は2/5のスケールで復元されています。
この古墳を一躍有名にしたのは、一面の銅鏡の存在でした。銅鏡の銘「景初四年」は実際には存在しない年号であり、「景初三年」は卑弥呼が魏の皇帝に使者を送り「銅鏡百枚」などを下賜された年で、邪馬台国論争に一石を投じた古墳です。銅鏡をはじめとする出土品は、国の重要文化財に指定されています。
福知山市のHP.の「広峯十五墳出土品」の項目で、「広峯(ひろみね)15号墳は、福知山駅の南、市街地を一望のもとに見渡すことのできる丘陵上に立地していた古墳で、昭和61年(1986)に、区画整理事業に伴い発掘調査が実施された。広峯古墳群は、古墳時代初頭に築造が始まり、中期にまで造墓活動が続き、南から伸びる樹枝状丘陵の狭小な稜線上に連綿と古墳が築かれていた。 広峯15号墳は、古墳群の盟主と目され、丘陵前面の最高所を占めて築造されていた。後円部の約2分の1と前方部の側面が失われていたが、全長40m、後円部径25mの前方後円墳に復元されるものであった。墳丘は、盛土を用いず地山の削り出しによって形成され、段築(だんちく)・埴輪(はにわ)・葺石(ふきいし)など外表施設はもたない。(中略) 盤龍鏡は、面径16.8cm、(中略)銘帯には、「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之母子宜孫寿如金石兮」の35文字の銘文が鋳出されている。なお、景初四年は魏の年号で、西暦240年にあたる。 現在までに日本で500面以上の鏡が出土しているが、紀年銘鏡は8種11面にすぎない。出土状況の明らかな本例は、我が国の紀年銘鏡の様相や対大陸交渉をはじめとした古墳時代の社会の実態を解明する上で、その学術的価値は極めて高い。」と記されています。
福知山市教委の説明板。4つで全体。
復元後円部。
復元前方部。
復元後円部墳頂。
2つで全景(横から)。左が復元前方部。右が復元後円部。
ほぼ全景。手前が復元前方部、右奥が復元後円部。
Posted by じこま at 08:08│Comments(0)