2020年08月18日
補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m
奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」の「豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳〈綜覧〉)」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:63.6m 後円部:径33.3m 高6.1m 前方部:幅28.8m 高4.5m 特記事項【周濠】あり。【その他】墳丘湮滅。 立地 丘陵中腹 標高 73m」と記されています。また、白石太一郎さんも、「伊勢崎市東方から東村にかけての殖蓮古墳群には荷鞍山古墳(同80メートル)、八寸雷電山古墳(同65メートル)、旧殖蓮村222号墳(同64メートル)、蛇塚古墳(同60メートル)などが、(中略)ある。(「関東の後期大型前方後円墳」p.21『国立歴史民俗博物館研究報告 第44集(1992)』所収)と述べています。ただし、上記「データベース」の「雷電山古墳(蛇塚古墳・殖蓮村299号墳〈綜覧〉)」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:56m」と記され、蛇塚古墳は雷電山古墳の別名で60(57)m未満の古墳となっていました。
脱線しましたが、この古墳に関する位置情報は上記「データベース」しか確認できず、しかも「立地 丘陵中腹」とあったので??でした。後日確認したところ、この「八寸(はちす)権現山」は、標高91mの群馬県で最小の山ということでした。そのため、絵を撮った跡地付近は「標高73mの丘陵中腹」でも矛盾はありませんでした。ここでは、グーグルアースの上空からの画像を参考に、前方部を西にむける前方後円墳と勝手に解釈して絵を撮りました。
余談ですが、古墳跡地の南方に小山(おっさん註 これが「八寸権現山」)があり、全景の絵を撮ろうとして上って行ったら、山頂付近に「権現山遺跡」の説明板がありました。あの岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんが、その後発見した旧石器時代の遺跡でした。偶然とはいえ、ビックリしました。中学時代に相沢さんの『岩宿の発見』を読み、一人の「好古学者」が当時の「考古学者」の常識を覆した記録として、一方で一人の青年の寂しい人生の労苦に共感した記憶がよみがえってきました。また、小山を降り鳥居をくぐって道路を横断した所に石碑が建てられており、よく見てみると「埴輪翳類出土之碑」とありました。この地で、貴人に差す日傘である翳(きぬがさ)形埴輪が出土していたということで二度ビックリしました。余談の余談ですが、伊勢崎市にある「相川考古館」が所蔵し、国の重要文化財に指定されている「正装男子立像」埴輪もこの付近で出土しているそうです。
後円部右側跡付近か。左側跡付近か。![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390361_22.JPG)
![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390362_21.JPG)
前方部跡付近か。前方部跡付近?の「豊城北児童遊園地」。![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390364_19.JPG)
![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390363_24.JPG)
後円部端右側跡付近か。左側跡付近か。![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390359_20.JPG)
![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390360_25.JPG)
跡地付近の「埴輪翳類出土之碑」。拡大。![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390375_13.JPG)
![補遺[978-2] 豊城二子山古墳(殖蓮村222号墳) 群馬県伊勢崎市 (64)m](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390373_19.JPG)
伊勢崎市教委の「権現山遺跡」の説明板。
以上2020年7月撮影。
脱線しましたが、この古墳に関する位置情報は上記「データベース」しか確認できず、しかも「立地 丘陵中腹」とあったので??でした。後日確認したところ、この「八寸(はちす)権現山」は、標高91mの群馬県で最小の山ということでした。そのため、絵を撮った跡地付近は「標高73mの丘陵中腹」でも矛盾はありませんでした。ここでは、グーグルアースの上空からの画像を参考に、前方部を西にむける前方後円墳と勝手に解釈して絵を撮りました。
余談ですが、古墳跡地の南方に小山(おっさん註 これが「八寸権現山」)があり、全景の絵を撮ろうとして上って行ったら、山頂付近に「権現山遺跡」の説明板がありました。あの岩宿遺跡を発見した相沢忠洋さんが、その後発見した旧石器時代の遺跡でした。偶然とはいえ、ビックリしました。中学時代に相沢さんの『岩宿の発見』を読み、一人の「好古学者」が当時の「考古学者」の常識を覆した記録として、一方で一人の青年の寂しい人生の労苦に共感した記憶がよみがえってきました。また、小山を降り鳥居をくぐって道路を横断した所に石碑が建てられており、よく見てみると「埴輪翳類出土之碑」とありました。この地で、貴人に差す日傘である翳(きぬがさ)形埴輪が出土していたということで二度ビックリしました。余談の余談ですが、伊勢崎市にある「相川考古館」が所蔵し、国の重要文化財に指定されている「正装男子立像」埴輪もこの付近で出土しているそうです。
後円部右側跡付近か。左側跡付近か。
前方部跡付近か。前方部跡付近?の「豊城北児童遊園地」。
後円部端右側跡付近か。左側跡付近か。
跡地付近の「埴輪翳類出土之碑」。拡大。
伊勢崎市教委の「権現山遺跡」の説明板。
Posted by じこま at 08:08│Comments(0)