2020年12月11日
補遺[824-23] 亀塚古墳 岐阜県高山市 円墳 径約70m前後
現在の高山市立国府小学校に位置していた消滅古墳です。10年ほど前に小学校の絵を撮っていましたが、当時は古墳名や詳細な場所も不明な状況でした。現在、小学校の敷地内に、2018年に「国府町まちづくり協議会」によって設置された説明板が立っているそうです。
岐阜女子大学の「飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ」の「亀塚古墳(2019年04月24日)」の項目で、「<遺構と遺物> 墳丘は失われて古墳の規模を詳しく調査することができないが、ただ1つ当時の古墳の大きさを知る資料として、明治21年の広瀬町村の野(の)取(とり)丈量帳(じょうりょうちょう)の測量図によれば東西で73m、南北で70mを推定することができる。 また、明治28年7月号の飛州の記事(岡村季坪、「岡村利平の事」)では墳墓の大きさを記述している。一部抜粋すると「墳墓の周囲120間(218.4m、直径69.4m)、高さは5間(9.1m)、円形でアーチ形をしている。その形が亀の甲に似ているというので亀の字を用いたのであるが、瓶塚(かめづか)と書く一説もある。」 広瀬町村大塚(亀塚)の測量図が岡村季坪の斐太温古志料「楲田之(ひだの)玉(たま)秧(お)」吉城郡三に書かれている。その測量図によると古墳の基底が凡(おおよ)そ34間(61.9m)とあり、大きな違いは、野取丈量帳では亀の頭に似た出張り部分があるが、岡村季坪の斐太温古志料『楲田之玉秧』では、この部分が無いことである。おそらく明治21年から小学校建設当時の明治28年4月の間に削られたと思われる。亀塚古墳の基底の直径は、明治21年当初は70m前後の2段築成の円墳であった。」と記されています。
上記の文の「亀の頭に似た出張り部分」を「造り出し」と見るなら、造り出し付円墳とも考えられます。ここでは、直径70mの円墳としてランキングしました。
遠景。中央の建物が国府小学校。![補遺[824-23] 亀塚古墳 岐阜県高山市 円墳 径約70m前後](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/PA0_0281_2.JPG)
遠景。
以上2010年10月撮影。
岐阜女子大学の「飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ」の「亀塚古墳(2019年04月24日)」の項目で、「<遺構と遺物> 墳丘は失われて古墳の規模を詳しく調査することができないが、ただ1つ当時の古墳の大きさを知る資料として、明治21年の広瀬町村の野(の)取(とり)丈量帳(じょうりょうちょう)の測量図によれば東西で73m、南北で70mを推定することができる。 また、明治28年7月号の飛州の記事(岡村季坪、「岡村利平の事」)では墳墓の大きさを記述している。一部抜粋すると「墳墓の周囲120間(218.4m、直径69.4m)、高さは5間(9.1m)、円形でアーチ形をしている。その形が亀の甲に似ているというので亀の字を用いたのであるが、瓶塚(かめづか)と書く一説もある。」 広瀬町村大塚(亀塚)の測量図が岡村季坪の斐太温古志料「楲田之(ひだの)玉(たま)秧(お)」吉城郡三に書かれている。その測量図によると古墳の基底が凡(おおよ)そ34間(61.9m)とあり、大きな違いは、野取丈量帳では亀の頭に似た出張り部分があるが、岡村季坪の斐太温古志料『楲田之玉秧』では、この部分が無いことである。おそらく明治21年から小学校建設当時の明治28年4月の間に削られたと思われる。亀塚古墳の基底の直径は、明治21年当初は70m前後の2段築成の円墳であった。」と記されています。
上記の文の「亀の頭に似た出張り部分」を「造り出し」と見るなら、造り出し付円墳とも考えられます。ここでは、直径70mの円墳としてランキングしました。
遠景。中央の建物が国府小学校。
遠景。
Posted by じこま at 08:08│Comments(0)