2021年08月10日

番外(補遺[1227-27]) 鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市 長方形(双方中円形)の弥生墳丘墓 40×32(推定60)m

 脱線ついでに、前項と同じく弥生墳丘墓を取り上げます。
 福本明さんは、「鯉喰神社弥生墳丘墓については、特殊器台が出土していることから、低い丘陵の末端に築かれた弥生墳丘墓であることが知られていた。 方形をなす墳丘は、約四〇メートル×約三二メートル、高さ四メートル強の規模をもつ大形のもので、民家や参道の石段の造成によりはっきりとはしないが、楯築弥生墳丘墓と同様に、墳丘の両側に突出部をもっていた可能性も指摘されている。埋葬主体については、一九一六年に社殿の改築がおこなわれた際に石槨が確認されたといわれている。」(『吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓』(pp.69~71)と述べています。
 一方、春成秀爾さんは、「立坂 1式特殊器台と大小 2個の弧帯石をもつ全長約 80m の楯築墳丘墓に後続する西山式をもつ鯉喰神社は,推定全長 60m の超大型墳丘墓であって(略),楯築墳丘墓の弧帯石を継承する弧帯石の破片も採集されている(略)。ちなみに,楯築墳丘墓の中心被葬者は,棺の大きさ,棺内の朱の起伏とわずかに残存していた歯冠の破片から推定すると,身長約 150cm の熟年女性である(略)。この人物の生前の地位と性格が問題であるが,このころは足守川地域の鯉喰神社墳丘墓の被葬者が,小田川・新本川地域の有力者よりも,そして総社東部地域の有力者よりも優勢であって,足守川地域に西山式特殊器台を製作した人物の居住地を想定することは可能であろう。」(「向木見系特殊器台の研究」、『国立歴史民俗博物館研究報告 第212集 2018年12月』所収 p.222)と述べています。
 この鯉喰神社墳丘墓の推定全長が60mとするならば、「番外」ではなく「ランキング内」となり、墳形も楯築墳丘墓と同形ならば、双方中円形となります。ここでは、両論併記として、後者を( )に示しました。なお、古墳だけでなく弥生時代の墳丘墓もランキングしているのは、参考にさせていただいているHP.「古墳探訪」によるものです。
 余談ですが、最近HP.「古墳探訪」が検索から消えてしまったので、紙でコピーしたモノしか残っていません。「jpn-hayashi.com」の復活を祈っています。
 余談の余談ですが、春成さんの上記論文は、「埴輪の起源」の共著者だけあって、近年出土した特殊器台・特殊壺を整理してその文様などの精緻な分析で、新たな変遷案を提起しています。素人のおっさんにとっては、「チンプンカンプン」でした・・・。ただ、上記の引用文から、鯉喰神社墳丘墓の被葬者は、「鬼道を事とする」卑弥呼的人物なのでは、という妄想が膨らんでしまいました。
 余談の余談の余談ですが、下記説明板の「温羅伝説」は、その後「桃太郎伝説」のモデルとなったとさ。メデタシメデタシ。


 「鯉喰神社」石碑。
番外(補遺[1227-27]) 鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市 長方形(双方中円形)の弥生墳丘墓 40×32(推定60)m

 岡山県・倉敷市・鯉喰神社の説明板。
番外(補遺[1227-27]) 鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市 長方形(双方中円形)の弥生墳丘墓 40×32(推定60)m
            以上2008年9月撮影。


 東から。
番外(補遺[1227-27]) 鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市 長方形(双方中円形)の弥生墳丘墓 40×32(推定60)m


 西から。
番外(補遺[1227-27]) 鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市 長方形(双方中円形)の弥生墳丘墓 40×32(推定60)m


 北東から。
番外(補遺[1227-27]) 鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市 長方形(双方中円形)の弥生墳丘墓 40×32(推定60)m


 境内に祀られている石。
番外(補遺[1227-27]) 鯉喰神社墳丘墓 岡山県倉敷市 長方形(双方中円形)の弥生墳丘墓 40×32(推定60)m
            以上2014年3月撮影。



Posted by じこま at 08:08│Comments(0)
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