2023年04月10日

番外 千葉県の古墳㉑ー2 神門4号墳[神門古墳群] 市原市 49m

 この神門4号墳は消滅し現在は住宅地となっています。前回掲載の5号墳から、小さな谷を隔てて約100m北西に位置していました。
 千葉県のHP.の「神門5号墳(ごうど5ごうふん)の項目の「概要」で、「(前略)こうした神門5号墳の内容と、昭和50年(1975)に調査された全長49mの神門4号墳、そして昭和62年(1987)に調査された全長49.1~55mの神門3号墳の内容から、この3基は連続(5号墳→4号墳→3号墳)して築造されたと考えられている。これらの年代は3世紀中葉前後に位置付けられ、古墳時代で最も初期のもので、県内はもとより東日本で最古の古墳と考えられる。また、これら3基の古墳から出土した土器に、在来の土器に混じって、近畿・東海・北陸地方の系譜をもつ土器が数多く含まれることから、外来的な要素の強い古墳としても注目されている。 前方後方墳が圧倒的に多い古墳出現期の東日本にあって、房総半島の中央部に出現した初期の前方後円墳である神門古墳群の時期や系譜についてはまだ多くの謎が残されている。」と記されています。
 さらに、白石太一郎さんは、「近畿の邪馬台(ヤマト)より東で、邪馬台を中心とする西日本の連合と対等に戦える勢力としては、濃尾平野の勢力を考えるのが自然であろう。おそらくこの前方後方形墳丘墓は、この濃尾平野を中心に展開した狗奴国とその影響下にあった東日本各地で盛んに造営されたものであろう。」、「ただ、千葉県の上総地域では、庄内式並行期に、木更津市高部墳墓群ではともに中国鏡を副葬した高部三〇号墳と高部三二号墳の二基の前方後方形墳丘墓が営まれたのに対し、市原市の神門墳墓群では、ともに奈良県の纏向石塚墳丘墓と同じ墳丘形式をもつ神門一号(おっさん註 ママ、四号の誤り)、三号、五号墳の三基の前方後円形墳丘墓が営まれている。このことは上総の一角にヤマトの勢力と密接な関係をもつ勢力が存在したことを示唆するものであり、狗奴国を中心とする東日本の政治連合が、それほど強固なものではなかったことを示しているのかもしれない。」(『古墳とヤマト政権』p.68)と述べています。
 余談ですが、高部30号墳や32号墳は、それぞれ2021年4月16日、同18日のブログに掲載しています。


 跡地付近。惣社5-6-5付近。
番外 千葉県の古墳㉑ー2 神門4号墳[神門古墳群] 市原市 49m


 跡地付近。惣社5-6-7付近。
番外 千葉県の古墳㉑ー2 神門4号墳[神門古墳群] 市原市 49m
        以上2015年11月撮影。

 5号墳方面から見た跡地付近。南から。惣社5-6-22付近。
番外 千葉県の古墳㉑ー2 神門4号墳[神門古墳群] 市原市 49m


 3号墳跡から見た跡地付近。惣社5-6-5付近。
番外 千葉県の古墳㉑ー2 神門4号墳[神門古墳群] 市原市 49m
        以上2023年2月撮影。



Posted by じこま at 07:07│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。