2024年07月19日
番外 愛知県の古墳㉚ー6 姫塚古墳[桜井古墳群] 安城市 方墳 辺28×25m又は円墳 復元径30m前後
古墳は、碧海台地の東端の微高地に立地し、古墳の約100m南には、桜井古墳群南部の盟主墳的存在の姫小川古墳(2018年9月18日のブログで紹介)があります。
墳頂には、宝篋印塔が建てられ、「姫宮墓」「白鳳十辛巳年」と刻まれているそうです。孝徳天皇の皇女で、配流された綾姫の墓という伝承から姫塚古墳という名称になったようです。
西島庸介さんは、「姫塚古墳の墳形は(略)2001年の墳丘測量調査を経た後も、円墳ないし方墳とされてきた。2008~2010年、古墳の西側と東(おっさん註 南の誤りか)側で範囲確認調査、開発に伴う記録保存調査が行われ、幅7.3m以上の周溝が確認されている。この周溝の位置・形状から、南北28m、東西25m程の方墳に復元できる。」(p.17)と述べています。
一方、安城市埋蔵文化財センターのHP.の「最近の調査から」の「平成20年度の調査」の「姫塚古墳 ひめづかこふん(姫小川町)の項目で、「姫塚古墳は、直径30m前後の円墳であると推定されます。」と記されています。
また同センターの「平成22年度の調査」の「姫塚遺跡 ひめづかいせき(姫小川町)」の項目で、「今回の発掘調査は、個人住宅建築にともなう緊急調査で、平成20年度の姫塚古墳の調査区と一部重複しています。今回の調査でも平成20年度の調査と同様、古墳を取り囲む溝(周溝 しゅうこう)とみられる遺構が確認できました。周溝の大きさは幅5.5m、深さ0.8mでした。周溝は現在の墳丘から少し離れたところに位置します。これは、もともと円形をしていた墳形が削られて現在のような形になったためだと考えられます。」と記されています。
同一の周溝の測量図でも、論者の見方によって、方墳または円墳と結論が異なっているので、両論併記としました。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
余談ですが、姫塚古墳が方墳であるとすれば、桜井古墳群には、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳と墳形が異なる多様な古墳が見られます。古墳時代前期に築造された古墳群としては、他に例を見ない特殊な例だと思います。この事実は、桜井古墳群の被葬者の居住域・生産域と考えられる鹿乗川流域遺跡群から、畿内系・近江系・北陸系・西濃系・駿河系など他地域の土器(外来系土器)が多数発見されている事と何らかの関連があると妄想してしまいました。
余談の余談ですが、この姫塚古墳や姫小川古墳の東側に隣接して、鹿乗川流域遺跡群の姫下遺跡があります。この姫下遺跡について、岡安雅彦さんは、「姫下遺跡はこの段階(おっさん註 古墳時代前期)に盛期を迎えている。遺物には人面文などの線刻資料の出土に加え、畿内の布留系の土器が多量に出土している。布留系土器がこれだけ出土した遺跡は東日本ではほとんどない。遺跡のすぐ西側の台地上に造営された全長65mを測る姫小川古墳は、前方後円墳であり、両者の関連が注目される。また、至近距離にある南北28m、東西25mの方墳である姫塚古墳や、墳丘は消滅しているが、内行花文鏡が出土したとされる八ツ塚古墳もこの時期の築造と推定されている。」(「鹿乗川流域遺跡群の概要」p.38、安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)と述べています。おっさんの妄想が・・・。
案内板。![番外 愛知県の古墳㉚ー6 姫塚古墳[桜井古墳群] 安城市 方墳 辺28×25m又は円墳 復元径30m前後](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390686_4.JPG)
安城市教委の説明板。![番外 愛知県の古墳㉚ー6 姫塚古墳[桜井古墳群] 安城市 方墳 辺28×25m又は円墳 復元径30m前後](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390687_4.JPG)
墳頂の宝篋印塔。![番外 愛知県の古墳㉚ー6 姫塚古墳[桜井古墳群] 安城市 方墳 辺28×25m又は円墳 復元径30m前後](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390688_5.JPG)
全景。南から。![番外 愛知県の古墳㉚ー6 姫塚古墳[桜井古墳群] 安城市 方墳 辺28×25m又は円墳 復元径30m前後](//img01.dosugoi.net/usr/k/o/f/kofun/CA390691_2.JPG)
全景。北西から。
以上2013年12月撮影。
墳頂には、宝篋印塔が建てられ、「姫宮墓」「白鳳十辛巳年」と刻まれているそうです。孝徳天皇の皇女で、配流された綾姫の墓という伝承から姫塚古墳という名称になったようです。
西島庸介さんは、「姫塚古墳の墳形は(略)2001年の墳丘測量調査を経た後も、円墳ないし方墳とされてきた。2008~2010年、古墳の西側と東(おっさん註 南の誤りか)側で範囲確認調査、開発に伴う記録保存調査が行われ、幅7.3m以上の周溝が確認されている。この周溝の位置・形状から、南北28m、東西25m程の方墳に復元できる。」(p.17)と述べています。
一方、安城市埋蔵文化財センターのHP.の「最近の調査から」の「平成20年度の調査」の「姫塚古墳 ひめづかこふん(姫小川町)の項目で、「姫塚古墳は、直径30m前後の円墳であると推定されます。」と記されています。
また同センターの「平成22年度の調査」の「姫塚遺跡 ひめづかいせき(姫小川町)」の項目で、「今回の発掘調査は、個人住宅建築にともなう緊急調査で、平成20年度の姫塚古墳の調査区と一部重複しています。今回の調査でも平成20年度の調査と同様、古墳を取り囲む溝(周溝 しゅうこう)とみられる遺構が確認できました。周溝の大きさは幅5.5m、深さ0.8mでした。周溝は現在の墳丘から少し離れたところに位置します。これは、もともと円形をしていた墳形が削られて現在のような形になったためだと考えられます。」と記されています。
同一の周溝の測量図でも、論者の見方によって、方墳または円墳と結論が異なっているので、両論併記としました。
古墳は、安城市の史跡に指定されています。
余談ですが、姫塚古墳が方墳であるとすれば、桜井古墳群には、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳と墳形が異なる多様な古墳が見られます。古墳時代前期に築造された古墳群としては、他に例を見ない特殊な例だと思います。この事実は、桜井古墳群の被葬者の居住域・生産域と考えられる鹿乗川流域遺跡群から、畿内系・近江系・北陸系・西濃系・駿河系など他地域の土器(外来系土器)が多数発見されている事と何らかの関連があると妄想してしまいました。
余談の余談ですが、この姫塚古墳や姫小川古墳の東側に隣接して、鹿乗川流域遺跡群の姫下遺跡があります。この姫下遺跡について、岡安雅彦さんは、「姫下遺跡はこの段階(おっさん註 古墳時代前期)に盛期を迎えている。遺物には人面文などの線刻資料の出土に加え、畿内の布留系の土器が多量に出土している。布留系土器がこれだけ出土した遺跡は東日本ではほとんどない。遺跡のすぐ西側の台地上に造営された全長65mを測る姫小川古墳は、前方後円墳であり、両者の関連が注目される。また、至近距離にある南北28m、東西25mの方墳である姫塚古墳や、墳丘は消滅しているが、内行花文鏡が出土したとされる八ツ塚古墳もこの時期の築造と推定されている。」(「鹿乗川流域遺跡群の概要」p.38、安城市教育委員会・土生田純之編『三河国、ここにはじまる!』所収)と述べています。おっさんの妄想が・・・。
案内板。
安城市教委の説明板。
墳頂の宝篋印塔。
全景。南から。
全景。北西から。
Posted by じこま at 07:07│Comments(0)