2025年03月24日

番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子(かんす)山古墳[杣之内古墳群] 天理市 群集墳

 この古墳は、天理大学付属天理参考館付近に位置していた消滅古墳です。下記の奈良県版の「データベース」により、200m超級のランキング古墳と思って訪問しました。
 奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(奈良県版)の「鑵子山古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円? 墳長:東西2町:約218m 特記事項 学校敷地となり消滅。」と記されています。
 しかし、同大学の「全国古墳データベース」では、同じ場所に「鑵子塚古墳」として、「墳丘:前方後円 墳長:47m 後円部:径径(ママ)22m 高4.5m 前方部:幅31m 高5m」と記されていました。
 おっさんは、約218mの鑵子山古墳か47mの鑵子塚古墳か頭が混乱してしまいました。ただし、次の文章を見つけて納得。そのため、タイトルを「番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子山古墳 天理市 群集墳」としました。

 2021年に天理市教育委員会が発行した『物部氏の古墳 杣之内古墳群』の「実在しなかった「鑵子山古墳」」の項目では、「ツルクビ古墳群の東にあった鑵子山はかつて古墳時代中期の200m以上の大型前方後円墳と考えられていた。鑵子山は明治40年代には既に造成され学校の校舎が建てられていたため、その実態は長らく不明であった。しかし、昭和57~58(1982~ 83)年の守目堂(ツルクビ)地区の鑵子山古墳の前方部にあたる箇所での調査では、前方後円墳の存在を示すような痕跡はなんら確認されなかったほか、前方部前面の周濠とみられた守目堂池は近世に掘削されたものであることが判明した。また、鑵子山古墳の後円部・くびれ部・前方部の北裾付近にあたる場所での調査(守目堂(鑵子山)地区)でも、前方後円墳の存在をうかがわせる遺構は検出されず、かえって古墳時代後期の多数の円筒埴輪片や5世紀末から6世紀後半の須恵器片が出土した。 これらは鑵子山から落下したものと考えられたことから、鑵子山は大型の前方後円墳ではなく、ここには、かつて複数の小古墳が存在したものと結論づけられた。 ツルクビ古墳群から東の鑵子山にかけての地域には、群集墳が造営されていたのである。」(p.39)と記されていました。

 余談ですが、おっさんが初めて天理市に足を踏み入れたのは、今から半世紀ほど前の高校生の時でした。天理教の関連施設が広がり、宗教的都市国家とはかくなるものかと驚嘆したことを覚えています。また、この地には古墳時代前期の標識土器である「布留式土器」を出土した「布留遺跡」があります。「天理参考館」には、布留遺跡の出土品をはじめ銅鐸や武人埴輪などの考古資料、各地の民俗資料などが展示されており、おっさんは、興味のない民俗資料エリアはスルーした記憶があります。「どいかん」。        


 跡地付近。建物の中央が「天理参考館」南から。
番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子(かんす)山古墳[杣之内古墳群] 天理市 群集墳

 跡地付近。東から。
番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子(かんす)山古墳[杣之内古墳群] 天理市 群集墳

 跡地付近。西から。
番外 奈良県の古墳⓪ 鑵子(かんす)山古墳[杣之内古墳群] 天理市 群集墳
        以上2025年3月撮影。



Posted by じこま at 07:07│Comments(0)
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