2024年07月27日

番外 愛知県の古墳㉝ 中之郷古墳 西尾市 帆立貝形前方後円墳 復元約37m、または円墳 復元径約42m

 古墳は、正法寺古墳の約2.8km東、現在の海岸線から約130m北の小規模な台地上に立地しています。 
 横穴式石室を含む墳丘の西側部分が残存していますが、残存部も観音堂や天王社の建立によって削平されています。また、石室は「穴観音」として信仰の対象となっていました。横穴式石室が信仰の対象となっている著名な古墳として、福岡県福津市の宮地嶽古墳(2020年2月25日のブログで紹介)があります。
 また、下記のように墳形は未確定ですが、40m前後の規模が想定されています。
 三田敦司さんは、2014年3月に西尾市教育委員会によって実施された範囲確認調査により、「範囲確認調査で設定された3か所の調査区のうち、南側の第3トレンチで墳丘裾部の葺石が発見されたが(図3)、墳形及び規模の確定には至っていない。」、「円墳であったとすると、直径は42m前後となる。墳丘と石室の配置を考慮し第3トレンチで検出された墳端を突出部と考えると、帆立貝形古墳と想定することも可能となる。この場合の墳長は37m前後となる。」(「112 中之郷古墳」p.596、『新編西尾市史 資料編1 考古』所収)と述べています。
 さらに三田さんは、「出現期の石見型埴輪が出土したことから、中央政権との親密な関係が想定され、正法寺古墳(おっさん註 2018年5月10日のブログに「436 正法寺古墳」として掲載)・岩場古墳(おっさん註 前回掲載)・中之郷古墳と3代にわたる首長墳に築造にあたっては、政権中枢から各時代の最新の埴輪製作に関する情報がもたらされていたことが明らかとなった。その背景として、三河湾沿岸部の歴代の首長たちが海上交通を掌握することによって、世代を超えて政権と特別な関係を維持していたことが想定される。」(同上書p.597)とこの古墳を位置づけています。
 古墳は、西尾市の史跡に指定されています。


 説明板。


 石室入口。


 墳頂残存部。


 墳丘残存部。北西から。

 墳丘残存部。南西から。

 墳丘残存部。南西から。


 墳頂から見る前方部跡(帆立貝形前方後円墳の場合)。
        以上2024年7月撮影。  


Posted by じこま at 06:07Comments(0)