2019年09月14日
補遺 「勝川大塚古墳」 愛知県春日井市
消滅「古墳」です。後述しますが、古墳の可能性を否定する見解もありますので、ここではランキングの順位や墳長は示してありません。
財団法人 愛知県埋蔵文化財センターの『町田遺跡』では、「62A・B両区の遺構検出時や条里制遺構耕作土内より約500点の多量の埴輪片が出土した。調査区では、この埴輪が樹立していたと考えられる古墳や遺構は確認されなかったが、西側に所在が推定されている勝川大塚古墳(前方後円墳)の埴輪の可能性が強いと考えられる。」(p.27)と述べています。大下武さんも、「勝川大塚古墳については、愛知県埋蔵文化財センターが当該地を調査され、その報告では前方後円墳を想定されている。やや問題があるが、古墳の存在した可能性は認めて良いかと思われる。現状では墳形・規模とも不明で、周濠は伴わない可能性が強い。」(「味美二子山古墳の時代(1) -尾張の段丘・丘陵地帯の古墳分布論ー」p.5 『味美二子山古墳の時代 第一分冊』所収)と述べています。そして、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「勝川大塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:80? 特記事項【その他】滅失。」と記されています。
ただし、伊藤秋男さんは、「以上のような理由(おっさん註 ①周溝遺構がない②埴輪片は客土による混入③地籍図上では「前方後円」形をしているが周溝情報が欠ける④地域の古墳は段丘上にあり、立地条件が異なる)により、『勝川大塚古墳』が古墳である確率は、極めて低いと言わざるを得ない。もう少し踏み込んで、ここでは『古墳の存在はあり得ない』と断言しておきたい。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.77)とその存在を強く否定しています。
約200m南にオシメンド森古墳がありました。
「跡地」付近。東から。
勝川町10丁目7-10付近。
「跡地」付近。東から。
右の橋脚は名古屋第二環状自動車道。
「跡地」付近。南西から。
勝川町10丁目7付近。 以上2019年9月撮影。
財団法人 愛知県埋蔵文化財センターの『町田遺跡』では、「62A・B両区の遺構検出時や条里制遺構耕作土内より約500点の多量の埴輪片が出土した。調査区では、この埴輪が樹立していたと考えられる古墳や遺構は確認されなかったが、西側に所在が推定されている勝川大塚古墳(前方後円墳)の埴輪の可能性が強いと考えられる。」(p.27)と述べています。大下武さんも、「勝川大塚古墳については、愛知県埋蔵文化財センターが当該地を調査され、その報告では前方後円墳を想定されている。やや問題があるが、古墳の存在した可能性は認めて良いかと思われる。現状では墳形・規模とも不明で、周濠は伴わない可能性が強い。」(「味美二子山古墳の時代(1) -尾張の段丘・丘陵地帯の古墳分布論ー」p.5 『味美二子山古墳の時代 第一分冊』所収)と述べています。そして、奈良女子大学の前方後円墳データベースの「勝川大塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円 墳長:80? 特記事項【その他】滅失。」と記されています。
ただし、伊藤秋男さんは、「以上のような理由(おっさん註 ①周溝遺構がない②埴輪片は客土による混入③地籍図上では「前方後円」形をしているが周溝情報が欠ける④地域の古墳は段丘上にあり、立地条件が異なる)により、『勝川大塚古墳』が古墳である確率は、極めて低いと言わざるを得ない。もう少し踏み込んで、ここでは『古墳の存在はあり得ない』と断言しておきたい。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』p.77)とその存在を強く否定しています。
約200m南にオシメンド森古墳がありました。
「跡地」付近。東から。
「跡地」付近。東から。
「跡地」付近。南西から。
Posted by じこま at
08:08
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