2019年09月15日
補遺[1227-16] 時之島南墓地古墳 愛知県一宮市 60m前後
墓地古墳です。後述のように、伊藤秋男さんが古墳の可能性を指摘しています。
伊藤秋男さんは、「この集落(おっさん註 時之島集落)を背にして南を望むと、今日、墓地として利用されている東西に細長い高台が見える。これがもともと古墳であったことはほぼ間違いないと思う。現在の形状は、地籍図(略)の上にもよく残されている。 墓地は東西約七〇メートル、東幅一二メートル、西幅二八メートルの長方形に近いが、西北辺は丸く円弧を描いている。西北隅の所がもっとも高く、水田面から二・五メートル、東辺のところは約一・五メートルとやや低い。おそらく全長六〇メートル前後の前方後円墳が引きならされたものと考えられる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』pp.52~53)と述べています。
現地を訪問した時に典型的な墓地古墳と思いました。墓地の北側は一直線状ですが、南側は西の部分が丸く出っ張っており後円部の様子がうかがえました。東端の墓地入口付近に丸い石製の盤が設置され、「弘化四」という文字が見えたので、遅くても江戸時代後半(1840年代)には墓地として利用されていたと思われます。
墓地内の石製盤。盤上にある銘の拡大部分。
「弘化四丁未八月 丹羽郡 東時之嶋村中」と読める。
後円部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後円部。東から。
前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。

全景。右奥が後円部、左手前が前方部。
左端の家が時之島二本松22-1。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。北から。
以上2019年9月撮影。
伊藤秋男さんは、「この集落(おっさん註 時之島集落)を背にして南を望むと、今日、墓地として利用されている東西に細長い高台が見える。これがもともと古墳であったことはほぼ間違いないと思う。現在の形状は、地籍図(略)の上にもよく残されている。 墓地は東西約七〇メートル、東幅一二メートル、西幅二八メートルの長方形に近いが、西北辺は丸く円弧を描いている。西北隅の所がもっとも高く、水田面から二・五メートル、東辺のところは約一・五メートルとやや低い。おそらく全長六〇メートル前後の前方後円墳が引きならされたものと考えられる。」(『地籍図で探る古墳の姿(尾張編)』pp.52~53)と述べています。
現地を訪問した時に典型的な墓地古墳と思いました。墓地の北側は一直線状ですが、南側は西の部分が丸く出っ張っており後円部の様子がうかがえました。東端の墓地入口付近に丸い石製の盤が設置され、「弘化四」という文字が見えたので、遅くても江戸時代後半(1840年代)には墓地として利用されていたと思われます。
墓地内の石製盤。盤上にある銘の拡大部分。
後円部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。東から。
前方部右隅から後円部。前方部左隅から後円部。
全景。右奥が後円部、左手前が前方部。
全景(横から)。右が後円部、左が前方部。北から。
Posted by じこま at
08:08
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