2021年06月09日
番外 松本1号墳 島根県雲南市 前方後方墳 50m
「景初3年」銘の三角縁神獣鏡の出土で有名な神原神社古墳のついでに訪問しました。神原神社古墳の約5km南の台地上に立地しています。県道271号線沿いにある「給下簡易郵便局」の北側の空き地に駐車し、その傍らに「松本古墳群」の石柱と説明板が設置されていました。その時の記憶は曖昧でしたが、グーグルマップで確認すると、県道沿いに「松本古墳を考える会」による「松本古墳公園」という大型の案内板が設置されていました。そこから、丘陵地を上っていくと古墳があります。 当初、あまり期待せずに立ち寄りましたが、墳丘の状態が良く喜び勇んで絵を撮りました。
HP.「島根 雲南チャレンジ」の中の「これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト)の「歴史の幸 雲南最大の古墳群ー松本古墳群」の項目で、「松本1号墳は、1961年、畑から土器片が出土したことから、古墳であることがわかりました。現地調査の結果、全長が50mという大きな古墳で、しかも古墳の形は古墳時代前期にみられる前方後方墳であることがわかりました。前方部では、埋葬にかかわる儀式が行われ、被葬者は後方部に埋葬されています。全長が50mもある古墳は、雲南地方ではほかにはありません。 この古墳には、主体部とよばれる埋葬施設が3か所ありました。盟主が埋葬されたとみられる第1主体部は、床面に粘土が敷かれ、長さ約5.2mの箱型木棺が置かれていたと考えられています。木棺には、斜縁獣帯鏡とよばれる鏡や、ガラスの小玉、刀子、針などが副葬されていました。 古墳が築造された時期は、出土した土器から、神原神社古墳よりやや後の古墳時代前期後半ごろとみられ、数少ない前期古墳として島根県の史跡に指定されています(指定名称:「松本第1号古墳」)。」と記されています。
上記のように、「松本第1号古墳」という名称で島根県の史跡に指定されています。
島根県教委・三刀屋町教委の説明板。
後方部右側。左側。

前方部右側。左側。

前方部から後方部。前方部右隅から後方部。前方部左隅から後方部。


後方部墳頂。
石柱と説明板。島根県教委・三刀屋町教委の説明板。説明板。


古墳群の立地する丘陵地遠景。
以上2016年3月撮影。
HP.「島根 雲南チャレンジ」の中の「これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト)の「歴史の幸 雲南最大の古墳群ー松本古墳群」の項目で、「松本1号墳は、1961年、畑から土器片が出土したことから、古墳であることがわかりました。現地調査の結果、全長が50mという大きな古墳で、しかも古墳の形は古墳時代前期にみられる前方後方墳であることがわかりました。前方部では、埋葬にかかわる儀式が行われ、被葬者は後方部に埋葬されています。全長が50mもある古墳は、雲南地方ではほかにはありません。 この古墳には、主体部とよばれる埋葬施設が3か所ありました。盟主が埋葬されたとみられる第1主体部は、床面に粘土が敷かれ、長さ約5.2mの箱型木棺が置かれていたと考えられています。木棺には、斜縁獣帯鏡とよばれる鏡や、ガラスの小玉、刀子、針などが副葬されていました。 古墳が築造された時期は、出土した土器から、神原神社古墳よりやや後の古墳時代前期後半ごろとみられ、数少ない前期古墳として島根県の史跡に指定されています(指定名称:「松本第1号古墳」)。」と記されています。
上記のように、「松本第1号古墳」という名称で島根県の史跡に指定されています。
島根県教委・三刀屋町教委の説明板。
後方部右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後方部。前方部右隅から後方部。前方部左隅から後方部。
後方部墳頂。
石柱と説明板。島根県教委・三刀屋町教委の説明板。説明板。
古墳群の立地する丘陵地遠景。
Posted by じこま at
08:08
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2021年06月07日
再び、前方後方墳シリーズです。
今年4月に訪問した美濃(岐阜県南部)地域の古墳ネタが尽きました。
愛知県には、緊急事態宣言が延長されているので、「オトナシク」引きこもって古墳の探訪は休止しています。
そのため、かつて訪問した出雲(島根県東部)地域の前方後方墳を中心に紹介したいと思います。
愛知県には、緊急事態宣言が延長されているので、「オトナシク」引きこもって古墳の探訪は休止しています。
そのため、かつて訪問した出雲(島根県東部)地域の前方後方墳を中心に紹介したいと思います。
Posted by じこま at
08:08
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2021年06月05日
番外 川合次郎兵衛塚1号墳 岐阜県可児市 方墳 辺30m
時間に余裕があったので、来た道を戻って訪問しました。8年ほど前に訪れた時は、ただ絵を撮っただけでしたが、今回は隣接した河合公民館内にある「川合考古資料館」の見学もしました。この古墳から出土した須恵器などが展示されていました。特に、鳥の飾りがある須恵器が、岐阜県・愛知県エリアで多数出土している展示が印象に残っています。見学後、受付の職員の方に古墳を案内していただき、石室内部にも入ることができました。ご厚意に感謝申し上げます。たまには、寄り道もいいもんだと思いました。
岐阜県のHP.の「河合次郎兵衛塚一号墳[かわいじろうべえづかいちごうふん]」の項目で、「川合次郎平(ママ)衛塚一号墳は、飛騨川が木曽川に合流する地点の左岸に、5世紀末ごろから築造が始められた川合古墳群のなかの首長級の古墳である。 2段築成の周濠をめぐらす方墳で、下段底辺は一辺29.5mのほぼ正方形で、上段は底辺一辺が18m弱である。墳丘の高さは約6.5mで、ほぼ全面に渡って葺石で覆われている。 内部主体は、横穴式石室で、全国的にもまれな三室(主室・西副室・東副室)からなる。主室は全長15.5m、幅2.2m、高さ2.6mで、玄室・羨道部・前庭部からなり、県内最大級の規模をもっている。主室の玄室及び羨道部の側壁は、大形の山石で構築するが、前庭部側壁は川原石積みとなっている。西副室は全長7.5m、玄室と羨道部からなっており、東副室は上段の平坦面に構築され、石室の長さ1.7m、羨道部の長さ0.7mである。両副室とも川原石積みである。 周濠の保存状態も良好で、幅は平均約8m、深さは2~2.5mで、主室の正面、南東角、東側中央付近、北東角には陸橋があったらしい。 主室内からは、須恵器の他、鉄製の柄頭・鏃・刀子・ガラス製の丸玉・小玉・耳環が検出された。出土した須恵器の型式からみて、主室は6世紀末から7世紀中ごろに、4回程度の追葬が行われたようである。 平成4年から平成5年にかけて保存整備工事が行われ、現在一般の見学に供されている。」と記されています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、この古墳は一見すると、東京都府中市の武蔵府中熊野神社古墳(2018年11月24日のブログ「985-2 山王塚古墳のおまけ」で掲載)と同様に「上円下方墳」に見えましたが、おっさんの勘違いでした。
また、石室が二室ある方墳として、千葉県栄町の岩屋古墳(ランキング554位)や石川県七尾市の須曽蝦夷穴古墳(2019年4月5日のブログ「1240-2 矢田高木森古墳のおまけ」で掲載)を思い出しました。でも、三室とは「どすごい」。
余談の余談ですが、「川合次郎兵衛」とはいかなる人物かと思いました。まさか、古墳の被葬者の名ではあるまいし・・・。
標柱。可児市教委の説明板。

ほぼ全景。南南東から。
中央が主室、右上が東副室、左が西副室。
全景。南から。
全景。南西から。
やや全景。西から。
やや全景。北から。
主室入口。主室の後室奥壁。主室の前室から見る後室。
首を傾けてね。

西副室表示。西副室入口。内部。

首を傾けてね。
東副室。
「川合考古資料館」展示の出土品。
以上2021年4月撮影。
岐阜県のHP.の「河合次郎兵衛塚一号墳[かわいじろうべえづかいちごうふん]」の項目で、「川合次郎平(ママ)衛塚一号墳は、飛騨川が木曽川に合流する地点の左岸に、5世紀末ごろから築造が始められた川合古墳群のなかの首長級の古墳である。 2段築成の周濠をめぐらす方墳で、下段底辺は一辺29.5mのほぼ正方形で、上段は底辺一辺が18m弱である。墳丘の高さは約6.5mで、ほぼ全面に渡って葺石で覆われている。 内部主体は、横穴式石室で、全国的にもまれな三室(主室・西副室・東副室)からなる。主室は全長15.5m、幅2.2m、高さ2.6mで、玄室・羨道部・前庭部からなり、県内最大級の規模をもっている。主室の玄室及び羨道部の側壁は、大形の山石で構築するが、前庭部側壁は川原石積みとなっている。西副室は全長7.5m、玄室と羨道部からなっており、東副室は上段の平坦面に構築され、石室の長さ1.7m、羨道部の長さ0.7mである。両副室とも川原石積みである。 周濠の保存状態も良好で、幅は平均約8m、深さは2~2.5mで、主室の正面、南東角、東側中央付近、北東角には陸橋があったらしい。 主室内からは、須恵器の他、鉄製の柄頭・鏃・刀子・ガラス製の丸玉・小玉・耳環が検出された。出土した須恵器の型式からみて、主室は6世紀末から7世紀中ごろに、4回程度の追葬が行われたようである。 平成4年から平成5年にかけて保存整備工事が行われ、現在一般の見学に供されている。」と記されています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、この古墳は一見すると、東京都府中市の武蔵府中熊野神社古墳(2018年11月24日のブログ「985-2 山王塚古墳のおまけ」で掲載)と同様に「上円下方墳」に見えましたが、おっさんの勘違いでした。
また、石室が二室ある方墳として、千葉県栄町の岩屋古墳(ランキング554位)や石川県七尾市の須曽蝦夷穴古墳(2019年4月5日のブログ「1240-2 矢田高木森古墳のおまけ」で掲載)を思い出しました。でも、三室とは「どすごい」。
余談の余談ですが、「川合次郎兵衛」とはいかなる人物かと思いました。まさか、古墳の被葬者の名ではあるまいし・・・。
標柱。可児市教委の説明板。
ほぼ全景。南南東から。
全景。南から。
全景。南西から。
やや全景。西から。
やや全景。北から。
主室入口。主室の後室奥壁。主室の前室から見る後室。
西副室表示。西副室入口。内部。
東副室。
「川合考古資料館」展示の出土品。
Posted by じこま at
08:08
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2021年06月03日
番外 夕田茶臼山古墳 岐阜県富加町 40m
下記のように、岐阜県でも最古級の前方後円墳ということで一度訪問したいと思っていた古墳です。
最近、3世紀中頃の箸墓古墳の築造をもって古墳時代の開始とする論調が多くなっています。この夕田茶臼山古墳の築造時期が3世紀前半ということは、弥生時代後期後半(終末期)の「古墳」ということになってしまい「墳丘墓」としたほうがベターなような気がしますが・・・。「時代の過渡期には、『旧石器時代の土器』や『縄文土器が出土した水田』の例があるだらー」。「古墳時代の早期という裏技もあるじゃん」。
岐阜県のHP.の「夕田茶臼山古墳[ゆうだちゃうすやまこふん]」の項目で、「夕田茶臼山古墳は富加町東南部の北西方向に伸びた丘陵頂部(標高127.0m)に立地する単独の古墳である。 古墳の規模は、全長39.5m、後円部の直径24.5m、前方部の長さ15.0m、くびれ部幅10.5m、前方部全面の幅15.1m、前方部頂と後円部頂の比高は2.4mを測り、後円部が高い。古墳の平面形は、不整形な前方後円墳であり、前方部の前面に墳丘を区画する溝(幅3.0m)がある。
古墳の築造時期は、墳丘から出土した赤彩有孔直口短頸壷や高坏をはじめとする土師器の年代観と、基盤造成面から出土した炭化物の放射性炭素年代測定結果から、3世紀前半に位置づけられる。埋葬施設は5.3mから5.5m四方の構築墓坑の中央に舟底形木棺1基(長さ2.6mから2.7m、幅1.0mから1.3m)を直接埋置する構造であり、概ね良好に遺存する。 また、発掘調査における層位学的な検討により、旧地形の様子や墳丘の築造工程が明らかになった。墳丘の造成時に尾根頂部を大きく削平し、古墳主軸は尾根の向きに合わせ、後円部は尾根先端に設定されていた。墳丘の築造工程としては、後円部においては5つの工程(地山削平、基盤造成、造成面調整、周堤状盛土、埋葬及び墳丘盛土)に復元され、後円部の基盤造成工程は前方部の墳丘盛土工程に先行することが明らかになった。墳丘の築造工程のうち、周堤状盛土は弥生時代後期の墳丘墓と類似し、盛土以前に地山の削平と基盤造成は前期古墳にも踏襲される手法である。なお、地山削平工程で溝(幅2.0m)により前方部前面の輪郭づけを行っている点は類例がなく特異である。
夕田茶臼山古墳は、東海地域でも極めて稀な3世紀前半代の前方後円形を呈する初期古墳であり、発掘調査により旧地形や墳丘の築造工程を復元できた例として貴重である。」と記しています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、古墳は整備され、おまけに駐車場・案内板・説明板・階段完備と至れり尽くせりの状態でした。関係者の皆様に感謝申し上げます。ただ、後円部墳頂に設置された長椅子は、おっさん的にはせめて墳丘外に置いてほしかったと思います。「蛇足」とはこのことでしょうか。
説明板。富加町教委の説明板。

後円部中央。右側。左側。


前方部右側。左側。

前方部から後円部。前方部左隅から後円部。

後円部墳頂。
ほぼ全景。手前が前方部、奥が後円部。木陰の切れているところが「区画溝」か?
途中の階段と富加町の説明板。
首を90度傾けてね。
駐車場。
遠景。中央下に案内板。北西から。
以上2021年4月撮影。
最近、3世紀中頃の箸墓古墳の築造をもって古墳時代の開始とする論調が多くなっています。この夕田茶臼山古墳の築造時期が3世紀前半ということは、弥生時代後期後半(終末期)の「古墳」ということになってしまい「墳丘墓」としたほうがベターなような気がしますが・・・。「時代の過渡期には、『旧石器時代の土器』や『縄文土器が出土した水田』の例があるだらー」。「古墳時代の早期という裏技もあるじゃん」。
岐阜県のHP.の「夕田茶臼山古墳[ゆうだちゃうすやまこふん]」の項目で、「夕田茶臼山古墳は富加町東南部の北西方向に伸びた丘陵頂部(標高127.0m)に立地する単独の古墳である。 古墳の規模は、全長39.5m、後円部の直径24.5m、前方部の長さ15.0m、くびれ部幅10.5m、前方部全面の幅15.1m、前方部頂と後円部頂の比高は2.4mを測り、後円部が高い。古墳の平面形は、不整形な前方後円墳であり、前方部の前面に墳丘を区画する溝(幅3.0m)がある。
古墳の築造時期は、墳丘から出土した赤彩有孔直口短頸壷や高坏をはじめとする土師器の年代観と、基盤造成面から出土した炭化物の放射性炭素年代測定結果から、3世紀前半に位置づけられる。埋葬施設は5.3mから5.5m四方の構築墓坑の中央に舟底形木棺1基(長さ2.6mから2.7m、幅1.0mから1.3m)を直接埋置する構造であり、概ね良好に遺存する。 また、発掘調査における層位学的な検討により、旧地形の様子や墳丘の築造工程が明らかになった。墳丘の造成時に尾根頂部を大きく削平し、古墳主軸は尾根の向きに合わせ、後円部は尾根先端に設定されていた。墳丘の築造工程としては、後円部においては5つの工程(地山削平、基盤造成、造成面調整、周堤状盛土、埋葬及び墳丘盛土)に復元され、後円部の基盤造成工程は前方部の墳丘盛土工程に先行することが明らかになった。墳丘の築造工程のうち、周堤状盛土は弥生時代後期の墳丘墓と類似し、盛土以前に地山の削平と基盤造成は前期古墳にも踏襲される手法である。なお、地山削平工程で溝(幅2.0m)により前方部前面の輪郭づけを行っている点は類例がなく特異である。
夕田茶臼山古墳は、東海地域でも極めて稀な3世紀前半代の前方後円形を呈する初期古墳であり、発掘調査により旧地形や墳丘の築造工程を復元できた例として貴重である。」と記しています。
古墳は、岐阜県の史跡に指定されています。
余談ですが、古墳は整備され、おまけに駐車場・案内板・説明板・階段完備と至れり尽くせりの状態でした。関係者の皆様に感謝申し上げます。ただ、後円部墳頂に設置された長椅子は、おっさん的にはせめて墳丘外に置いてほしかったと思います。「蛇足」とはこのことでしょうか。
説明板。富加町教委の説明板。
後円部中央。右側。左側。
前方部右側。左側。
前方部から後円部。前方部左隅から後円部。
後円部墳頂。
ほぼ全景。手前が前方部、奥が後円部。木陰の切れているところが「区画溝」か?
途中の階段と富加町の説明板。
駐車場。
遠景。中央下に案内板。北西から。
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2021年06月01日
追加1035 野中古墳 岐阜県可児市 推定62(58)m
古墳の墳丘は、北側約三分の一程度しか残存していません。今回は、墳丘周辺からの絵のみです。
2018年12月15日のブログで、「1035 野中古墳」として紹介しています。その時は、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」を参考に、墳長を推定62mとしました。
ただし、中井正幸さんは、「野中古墳は推定長五八メートルを測る前方後円墳である。後円部には主軸に直交した二つの竪穴式石室を備え、第一の石室からは鉄剣及び鉄刀八が、第二の石室からは仿製三角縁神獣鏡一面が出土している。」(『東海古墳文化の研究』p.65)と述べています。
また、近藤義郎編『前方後円墳集成 中部編』でも、「野中古墳」の項目で、「〈墳丘〉 前方後円 段築未確認 方位Nー107°ーW 造出なし 周濠あり? 墳長推定58m(現存40m) 後円径推定32m・高7m(現存5m) 前方部幅推定20m・長約30m・高現存4m くびれ幅推定17m 後前高差推定-2m」と記されています。そのため、ここでは両論併記としました。
残存部全景。手前が前方部残存部、奥が後円部。西から。
2つで全景。左が後円部、右がくびれ部。北西から。
2つで全景。右が消失前方部、左が残存前方部。
以上2021年4月撮影。
2018年12月15日のブログで、「1035 野中古墳」として紹介しています。その時は、奈良女子大学の「前方後円墳データベース(全国版)」を参考に、墳長を推定62mとしました。
ただし、中井正幸さんは、「野中古墳は推定長五八メートルを測る前方後円墳である。後円部には主軸に直交した二つの竪穴式石室を備え、第一の石室からは鉄剣及び鉄刀八が、第二の石室からは仿製三角縁神獣鏡一面が出土している。」(『東海古墳文化の研究』p.65)と述べています。
また、近藤義郎編『前方後円墳集成 中部編』でも、「野中古墳」の項目で、「〈墳丘〉 前方後円 段築未確認 方位Nー107°ーW 造出なし 周濠あり? 墳長推定58m(現存40m) 後円径推定32m・高7m(現存5m) 前方部幅推定20m・長約30m・高現存4m くびれ幅推定17m 後前高差推定-2m」と記されています。そのため、ここでは両論併記としました。
残存部全景。手前が前方部残存部、奥が後円部。西から。
2つで全景。左が後円部、右がくびれ部。北西から。
2つで全景。右が消失前方部、左が残存前方部。
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