2020年06月02日
番外 栗原塚穴古墳 奈良県明日香村 円墳 径28m
宮内庁が文武天皇の「檜隈安古岡上陵」と治定している復元古墳です。前回も書きましたが、下記のように、真の文武天皇陵は中尾山古墳と考えられています。
明日香村のHP.の「檜隈安古陵」の項目で、「今回は現在宮内庁によって文武天皇陵に治定されている塚穴古墳について紹介したいと思います。(中略) 墳丘は直径約28m、高さ約2m程の円墳とされており丘陵の緩やかな南側斜面に築かれています。この古墳が文武陵に治定された契機は谷森善臣が現文武陵の南西に「アンドク」という小字が残っており、地元御園村にある水帳にはその場所が「アンコウ山」と記されていることから文武天皇の檜隈安古陵の「安古」がなまったものではないかと考証したことに端を発しています。この小字「アンドク」の北東には塚穴(俗称ヂョウセン山)という小字の場所があり、そこには南に開口する横穴式石室が存在していましたが里人によって破壊され畑として開墾されていました。しかし、元治元(1864)年6月になってこの場所が文武陵の檜隈安古陵である可能性が高いということとなり破壊された古墳の修復が行われ、翌年に工事が完成しています。現在、森の中にある墳丘はこの時に修復されたものと考えられます。(中略) この現文武陵については飛鳥にある天皇陵とされる古墳のすべてが八角形墳であることや文武天皇が火葬されていることなどを考慮すると現陵と考えるよりも北方にある中尾山古墳の方が有力です。中尾山古墳は対角長19.4mの八角形墳で一辺90cm四方の石槨内には骨蔵器が納められていたと考えられています。この骨蔵器は現在失われていますが明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺が本来、中尾山古墳から出土したものではないかと推定されています。このように現文武陵は一度破壊された古墳を修復して陵墓に治定されていることや古墳の立地や埋葬施設の形態等から判断して中尾山古墳の方が文武天皇の檜隈安古陵の蓋然性が高い古墳と考えられます。」と記されています。
森浩一さんも、『天皇陵古墳への招待』の中で、この古墳に対して、「?」の「古墳として疑問、ほかに候補地を求めたほうがよい。」として、中尾山古墳を真の文武天皇陵であると考察しています。
制札。明日香村の説明板。


2つでほぼ全景。左側。右側。

ほぼ全景。
以上2011年4月撮影。
明日香村のHP.の「檜隈安古陵」の項目で、「今回は現在宮内庁によって文武天皇陵に治定されている塚穴古墳について紹介したいと思います。(中略) 墳丘は直径約28m、高さ約2m程の円墳とされており丘陵の緩やかな南側斜面に築かれています。この古墳が文武陵に治定された契機は谷森善臣が現文武陵の南西に「アンドク」という小字が残っており、地元御園村にある水帳にはその場所が「アンコウ山」と記されていることから文武天皇の檜隈安古陵の「安古」がなまったものではないかと考証したことに端を発しています。この小字「アンドク」の北東には塚穴(俗称ヂョウセン山)という小字の場所があり、そこには南に開口する横穴式石室が存在していましたが里人によって破壊され畑として開墾されていました。しかし、元治元(1864)年6月になってこの場所が文武陵の檜隈安古陵である可能性が高いということとなり破壊された古墳の修復が行われ、翌年に工事が完成しています。現在、森の中にある墳丘はこの時に修復されたものと考えられます。(中略) この現文武陵については飛鳥にある天皇陵とされる古墳のすべてが八角形墳であることや文武天皇が火葬されていることなどを考慮すると現陵と考えるよりも北方にある中尾山古墳の方が有力です。中尾山古墳は対角長19.4mの八角形墳で一辺90cm四方の石槨内には骨蔵器が納められていたと考えられています。この骨蔵器は現在失われていますが明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺が本来、中尾山古墳から出土したものではないかと推定されています。このように現文武陵は一度破壊された古墳を修復して陵墓に治定されていることや古墳の立地や埋葬施設の形態等から判断して中尾山古墳の方が文武天皇の檜隈安古陵の蓋然性が高い古墳と考えられます。」と記されています。
森浩一さんも、『天皇陵古墳への招待』の中で、この古墳に対して、「?」の「古墳として疑問、ほかに候補地を求めたほうがよい。」として、中尾山古墳を真の文武天皇陵であると考察しています。
制札。明日香村の説明板。
2つでほぼ全景。左側。右側。
ほぼ全景。
Posted by じこま at
08:08
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