2024年12月30日

番外 石川県の古墳④ー4 分校(ぶんぎょう)前山(カン山)6号墳[分校古墳群前山支群] 加賀市 35m

 2号墳から5号墳まで、方墳が続いていましたが、この古墳は1号墳と同じ前方後円墳だそうです。ただし下記の「全国古墳データベース」の数値を参考にすれば、後円部:前方部が2:1ではないので、纏向型前方後円墳には該当しないようです。また、後円部:前方部×4=27>20~24となるので、造出付円墳になってしまいます。ただし、前方部長を35-27=8mとするならば、後円部:前方部×4=27<32となり、帆立貝形前方後円墳と考えることができそうです。「頭がこんがらがってきたじゃん」。
 下記の標識で、「軸長 35.0m 後円部高 4.5m」と記されています。また、奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「分校カン山6号墳(分校マエ山6号墳)」の項目でも、「墳丘 形状:前方後円 墳長:35m 後円部:径径(ママ)27m 高4.5m 前方部:幅10m 長5~6m」と記されています。


 標識。

 標識とベンチ。墳丘の一部か。

 墳丘の一部か。


 ほぼ全景。手前が前方部、奥が後円部。
         以上2010年5月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月28日

番外 石川県の古墳④ー3 分校前山(カン山)3号墳~5号墳[分校古墳群前山支群] 加賀市 方墳 辺13~16m

 前回の2号墳の東側に隣接する古墳です。いずれも墳形は方墳で、「分校古墳群前山支群」を構成する一基として、加賀市の史跡に指定されています。
    

  3号墳  下記の標識に、「辺 13.2m×6.0m 高 1.5m」と記されています。    
 
 標識。


 墳丘。
  
      

  4号墳  下記の標識に、「辺 11.8m×13.2m 高 2.3m」と記されています。    

 標識。


 墳丘。
 
      

  5号墳  下記の標識に、「辺 15.5m×16.3m 高 4.7m」と記されています。    

 標識。


 墳丘。
         以上2010年5月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月26日

番外 石川県の古墳④ー2 分校(ぶんぎょう)前山(カン山)2号墳[分校古墳群前山支群] 加賀市 方墳 辺13×15m

 前回の1号墳の前方部東側に隣接している方墳です。
 「wild‐o-blue」さんのブログ「Slow Life Slow Fish」の「【墳活】分校前山古墳群」(2022‐08‐11)の項目には、昭和54年に発行された『分校古墳発掘調査報告』の画像があり、その中に「第18図 1号墳丘想定復元図」がUPされています。この図を見ると、2号墳の西側(1号墳の前方部と接する側)は周囲と高低差がなく通路状になっています。おっさんの目の錯覚・妄想かもしれませんが、「前方後方墳」の祖型である「前方後方形墳丘墓」の可能性があると思ってしまいました。
 下記の標識に、「辺 13.2m×15.4m 高2.1m」と記されています。    
 この古墳は、「分校古墳群前山支群」を構成する一基として、加賀市の史跡に指定されています。


 標識。


 墳丘。
         以上2010年5月撮影。



  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月24日

番外 石川県の古墳④ー1 分校(ぶんぎょう)前山(カン山)1号墳[分校古墳群前山支群] 加賀市 37m

 分校(ぶんぎょう)古墳群前山支群へは、国道8号線の「分校南交差点」を南に曲がり、突き当たりを左折してしばらく進むと「登山口」と記した案内板があり、そこから向かうことができます。
 10年以上前の事なので、記憶が定かではありませんが、偶然「分校古墳群」の案内標識を見つけ訪問したと思います。寺澤薫さんが提唱した「纏向型前方後円墳」に興味・関心があり、この古墳もその一例として取り上げられていたからです。(註1)
 HP.加賀市の「市指定文化財」の中の「分校古墳前山支群」の項目で、「分校古墳群は分校町前山、チハカ山、松山町大山の三支群からなる。前山支群は3世紀に遡る古墳群で、加賀市では最古と判断される前方後円墳4基が尾根上に分布しており、円墳、方墳合せて30基以上があったと推定される。一部が過去の土砂採取で消滅しているが、現在23基が確認されている。当市にとって歴史上貴重な遺跡である。」と記されています。
 訪問時、後円部の半分以上が削られており、古墳の周囲にはロープが張られていました。下記の標識でも「第1号 前方後円墳(跡)」と記されていました。そのため、墳丘の一部周辺の絵を中心に撮りました。
 標識には、墳丘データについて「軸長 37.0m 後円部高 5.0m」と記されていました。また、奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「分校カン山1号墳(分校マエ山1号墳)」の項目でも、「墳丘 形状:前方後円 墳長:36.7m 後円部:径径(ママ)24.5m 高5m 前方部:幅10.7m」と記されています。
 「分校古墳群前山支群」を構成する一基として、加賀市の史跡に指定されています。

 余談ですが、「石川考古学研究会のブログ」の「令和6年能登半島地震による被災状況 加賀市 分校古墳群」(2024/02/26)の項目で、「加賀市の会員から情報提供です。 分校古墳群前山支群(市史跡)で崖面崩落、1号墳周辺とのこと。」と書き込みがあり、古墳の被災状況が気がかりです。

 (註1) 寺澤さんの旧著『日本の歴史02 王権誕生』(講談社学術文庫版)では、「分校マエ山」(【纏向型前方後円墳】p.261)、新著『卑弥呼とヤマト王権』では、「分校1号」(「図5 纏向型前方後円墳の分布」p.51)として図示されています。


 標識。


 後円部残存部。


 全景。手前が前方部、奥が後円部残存部。


 墳丘の一部。
 
 
 
        

 「登山口」案内板。


 1号墳遠景。


 分校古墳群前山支群遠景。
         以上2010年5月撮影。  

    


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月22日

番外 石川県の古墳③ 狐山古墳 加賀市 56m 

 この古墳は、冨塚丸山古墳(ランキング190位)訪問の途中、偶然見かけた古墳です。当時は、墳長60m以上の古墳しか眼中になかったので訪問予定はありませんでした。前方後円墳っぽいと思い立ち寄ったら、なんと国指定史跡でした。お目当ての冨塚丸山古墳は、墳長100m以上の前方後円墳でしたが、現状では直径30m程度の円墳状態で拍子抜けした記憶があります。
 HP.加賀市の「国指定文化財」にある「狐山古墳(きつねやまこふん)」の項目で、「二子塚町の水田中にある前方後円墳で、昭和7年土砂取りの最中に石棺があらわれ、調査の結果、5世紀後半に築かれた全長56メートルの古墳であることが判明した。副葬品には銅鏡・銀製帯金具・桂甲短甲・直刀・玉類など、畿内と結びつきの強い遺物が多量に出土している。こうした古墳の規模や副葬品の内容から、畿内勢力と結びつきの深いエヌマの首長の墳墓であると推定されている。」と記されています。
 古墳は、国の史跡に指定されています。


 説明板。

 4か国語の説明板。


 後円部。

 前方部。


 全景(横から)。右が後円部、左が前方部。南から。

 全景(横から)。右が前方部、左が後円部。北から。
        以上2014年5月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月20日

番外 石川県の古墳② 吸坂南古墳群 加賀市 方墳や円墳 

 この古墳群は、ランキング古墳の吸坂D13号墳(ランキング875位)や吸坂A3号墳(ランキング1070位)訪問の際、偶然見つけたものです。石柱や説明板は、大邸宅のお庭のフェンス内側にあり、撮るのに苦労した記憶があります。おっさんのような人種と大邸宅の住人とは、住む世界が異なることを実感させられました。

 HP.「加賀市」の「市指定文化財」にある「吸坂南古墳群(すいさかみなみこふんぐん)」の項目で、「吸坂町・黒瀬町にかけての丘陵上にある丸山支群2基と、イカリ山支群6基である。丸山支群は発掘調査の結果、古墳時代初頭から前期末にかけての方墳3基と中期の円墳3基が築造されていたことが確認され、貴重な副葬品も出土している。イカリ山支群は1号墳が円墳である他は、方墳を中心とした小規模古墳からなり、丸山支群とほぼ同時期と推定される。未発掘で保存が計られた古墳が指定対象となっている。」と記されています。
 上記のように、「吸坂南古墳群」という名称で、加賀市の史跡に指定されています。


 「(史)跡吸坂南古墳群」銘石柱と説明板。

 加賀市教委の説明板。


 古墳群の一部。
        以上2014年5月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月18日

番外 石川県の古墳① 羽咋大谷塚古墳[羽咋古墳群] 羽咋市 円墳? 径45m?

 古墳は、「羽咋神社」の境内にあり、「磐城別王墓」として宮内庁が陵墓参考地に指定しているので、墳丘内への立ち入りはできませんでした。同神社境内の北西に隣接している羽咋大塚古墳(ランキング504位)訪問の際に立ち寄りました。
 奈良女子大学の「全国古墳データベース」の「羽咋大谷塚古墳」の項目で、「墳丘 形状:前方後円か」と記されています。宮内庁書陵部陵墓課編『陵墓地形図集成[縮小版]』の「磐衝別命墓 磐城別王墓 之圖」(p.51)でも、北側や東側の等高線が他の部分より狭く、隣接した本念寺によって削平された可能性は否定できないと思われます。
 ただし、説明板では、前方後円墳の可能性を指摘しているものの、「長さ四十五メートル・高さ七メートルほどの円墳」と記しています。ここでは、築造当時の墳形や全長が不明なので、説明板による現状データを参考にしました。

 余談ですが、羽咋神社周辺には、「羽咋七塚」と呼ばれる古墳群があったそうです。訪問当初、おっさんは大型古墳しか眼中になかったのでスルーしていました。「差別はどいかん」。


 説明板。

 制札。


 拝殿?


 ほぼ全景。南から。

 ほぼ全景。南西から。

 ほぼ全景。西から。
        以上2014年6月撮影。


 制札。


 やや全景。

 墳丘の一部。
         以上2010年5月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月16日

補遺[1021-11] 法皇塚古墳[国府台古墳群] 千葉県市川市 63m

 この古墳は、おっさんがランキング古墳の参考にしているHP.「古墳探訪」(残念ながら現在は閲覧できません。おっさんは、1310位までのコピーを持っています)では、全長57m未満でした。また、奈良女子大学の「前方後円墳データベース」(現在は、「全国古墳データベース」)の「法皇塚古墳」の項目では、「墳丘 形状:前方後円 墳長:54.5m 後円部:径径(おっさん註 ママ)27m 高5.7m 前方部:幅35m 長30.8m 高5.6m」と記されていました。
 ところが、偶然michikusa520さんのブログ「滋味コフン」の「国府の丘の前方後円墳(2)(市川市 法皇塚古墳)」(2016年4月11日掲載)の項目で、「掲示板には大学の総務部による詳細な解説が記されており、それによると戦後、数回にわたり発掘や測量などの調査が行われ、前方部を西に向けた全長65m(現存58m)、後円部直径30m(同24m)、前方部幅35m(同28m)、高さ5.5m(同5m)で下総西南部最大の前方後円墳であり、豊富な出土品は市川考古博物館に展示されているらしい。」と書かれいるのを目にし、「ヤバイ」と思いました。幸い、孫たちと古墳近くのテーマパークに行く機会があり、1時間半ほどおっさんだけ別行動で訪問しました。近くの明戸古墳や弘法寺古墳も訪問したいと思っていましたが、約束の時間が過ぎてしまったので後ろ髪を引かれる思いで断念しました。
 古墳は、市川市の東京医科歯科大学(2024年10月1日から東京工業大学と合併して、正式には東京科学大学のようですが・・・)教養部の校内にありました。守衛さんに見学許可をいただいて、古墳に向かいました。古墳は、後円部より前方部の方が高く感じ後期古墳の特徴を示していると思いました。説明板の図示が無ければ、危うく前方部と後円部をまちがえるところでした。
 上記の「滋味コフン」にあるように、説明板では、「長軸全長現存五十八m(略)復原してみると、主軸全長六十五m」と記されていますが、ここでは下記の市川市のHP.の「法皇塚古墳」の項目を参考に「全長63m」としました。
 「国府台二丁目の東京医科歯科大学構内に法皇塚古墳はあります。六世紀につくられた全長63メートル、後円部径32メートルの前方後円墳で、明戸古墳・弘法寺古墳・丸山古墳などの国府台の古墳群の中では最大規模ということです。 古墳は簡単にいえば、昔の王などの墓です。この古墳に埋葬されたのも、やはり、この地域の歴代の首長だったのだろうと考えられています。そして、その首長の遺体が置かれた場所が、直径24メートルの後円部(おっさん註 直径24メートルは現状、径32メートルは復元値か?)で、西側に入口のある横穴式石室となっています。 この石室からは、三本の太刀をはじめ、たくさんの武器や馬具、ガラスや金・銀で作られた装身具が発見されています。そして、埴輪も形がある程度わかるものが二点みつかっており、一つは首飾りをした男性の埴輪、もう一つは家形埴輪と呼ばれ、どうやら倉庫を形作ったもののようです。また石室に入口があったというのは、これを開閉することで追葬ができたからということです。」と記されています。


 東京医科歯科大学教養部の説明板。


 後円部中央。右側。左側。
 
 

 前方部右側。左側。
 


 前方部から後円部。

 後円部墳頂。


 2つで全景(横から)。前方部。後円部。北東から。

 全景(横から)。右が後円部、左が前方部。南西から。
        以上2024年11月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月14日

追加1039←補遺[1284-6] 王塚古墳[羽根山古墳群] 富山県富山市 前方後方墳 58m

 当初全長60m以上をランキング古墳と考えており、その後57m以上の古墳も追加したので、その狭間でこの古墳の掲載を見落としていました。そのため、「番外」ではなく「補遺」として取り上げました。
 古墳は、「かんぽの宿 富山」の北駐車場の西側にありましたが、宿は2019年に閉業したそうです。
 富山市のHP.の「王塚・千坊山遺跡群」の項目で、「王塚古墳 羽根丘陵の尾根上に立地し、谷を挟んで南方には県内最古の大型前方後方墳の勅使塚古墳があります。現況での全長は58mで県内で4番目に大きな前方後方墳です。前方部は長さ27m、幅26m、高さ3.6m、後方部は長さ31m、幅33m、高さ7.6m、くびれ部は幅15mを測ります。前方部は後世に削平されていると考えられる為、もっと大きかった可能性もあります。 未発掘の為、内部の構造や副葬品などは不明ですが、墳丘形態から勅使塚古墳築造直後に造られたものと考えられます。」と記されています。
 この古墳は、1948年に国の史跡に指定されていました。勅使塚古墳や四隅突出型墳丘墓、千坊山遺跡などの遺跡群を加えて、2005年に「王塚・千坊山遺跡群」と名称変更されています。
 約500m南南西に勅使塚古墳(ランキング888位)があります。
 

 富山県教委・富山市教委の説明板。

 表示板。

 石柱。


 後方部中央。右側。左側。

 前方部中央。右側。左側。


 前方部から後方部。前方部右隅から後方部。前方部左隅から後方部。


 後方部墳頂。


 2つで遠景。後方部。前方部。
         以上2010年5月撮影。


    追記  タイトルを「補遺[1284-6] 王塚古墳」としていましたが、すでに2018年12月16日のブログで、「1039 王塚古墳」として、上記の絵を掲載済でした。新たに訪問(2025年4月)した絵を追加し、タイトルも「追加1039」と変更しました。

 富山県教委・富山市教委の新説明板。

 石柱。


 後方部中央。右側。左側。

 前方部右側。左側。


 前方部から後方部。前方部右隅から後方部。前方部左隅から後方部。


 後方部墳頂。墳頂の三角点。


 全景(横から)。右が後方部、左が前方部。
        以上2025年4月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)

2024年12月12日

番外 富山県の古墳④ 柳田布尾山2号墳[柳田布尾山古墳群] 氷見市 円墳 径25m 

 前方後方墳としては日本海側最大の古墳である柳田布尾山古墳(ランキング246位)の後方部東側に隣接している円墳です。
 氷見市のHP.の「柳田布尾山古墳について」の項目の中で、「2号墳 直径約25メートル、高さ約2メートル」と記されています。  
 この2号墳も、国指定史跡「柳田布尾山古墳」の史跡範囲に含まれています。

 余談ですが、前方部の西側に、ガイダンス施設の「柳田布尾山古墳館」があります。ここから柳田布尾山古墳を一望できます。また、氷見市内で最大の前方後円墳である阿尾島田A1号墳から出土したガラス製小玉なども展示されていました。


 説明板。


 やや全景。北西から。
        以上2014年6月撮影。

 標柱。

 案内図。


 全景。
         以上2010年5月撮影。


    おまけ 

 古墳館から見る柳田布尾山古墳。


 古墳館に展示された阿尾島田A1号墳の出土品。
         以上2010年5月撮影。


  おまけのおまけ

 説明板。


 全景。


 1号墳の墳頂から見た2号墳。
        以上2025年4月撮影。  


Posted by じこま at 07:07Comments(0)